第26話 切ない音色を私に聞かせて①

 夏休みも中盤に差しかかる。さくらは、いったん帰京することになった。


 類が『玲の悪行』を涼一に密告したからだ。

 唇を、噛むほど強く重ねてきたことは棚上げにして、あの雷雨の日のできごとを逐一、電話で暴露したようだ。


「京都での同居生活は、いったいどうなっているのか。先に、手を出すのは類くんかと思いきや、まじめな玲くんがまさか誓約書を破って、さくらを押し倒すなんて!」


 十八歳の、娘の父親としては、気が気でないだろう。


 涼一は、類の報告をすっかり信じ込んでいる。雷のどさくさに紛れ、玲がさくらを襲おうとしたと思っている。玲とも電話で話したようだが、玲本人はいさぎよく、類の証言を全面的に認めたという。


「それ、玲じゃなくて、悪いのは私なのに」


 なにを説明しても、すべてが言い訳になってしまう。疑心で凝り固まった涼一は、さくらの弁解を聞いてくれなかった。


「とにかく、夏休みの残りはなるべく、東京にいること。きょうだい、みんな二十歳前なのに、誰のか分からない子どもでもできたらどうするんだ?」

「オトーサン、飛躍し過ぎ。そんなことになったら、いくらなんでも誰のか分かるって、すぐに」

「いや。これぐらい釘をさしておかないと、なにをしでかすか分からない。子どもが欲しいのは、こっちなんだ!」


 類は夏休み限定で仕事がいくつか入っているため、京都を出る日も多いけれど、さくらはなるべく京都にいたいのに。


「だめだよ。家庭教師のアルバイトがあるから、私は帰るよ。大学の課題も、全然終わっていないし」



 この夏、玲を除く家族四人は、軽井沢へ旅行することになった。

 類は仕事を兼ねている。涼一が勤める会社のリゾートホテルで撮影をするらしい。これから、向かう。半年ぶりの軽井沢。お世話になった社員寮の人たちにも、京都みやげを持ってきた。


 東京駅の東北・上信越方面ホームは蒸し暑く、人も多い。


「さくらちゃんも、もちろん見学するわよね。類の仕事の様子、見たことないでしょ? 親が言うのもなんだけど、現場の類はほんとうに素敵よ。惚れ直すと思う」


 売店で、四人分のお茶を買ってきた聡子が勢いよく、まくし立てた。

 ……いいえ、惚れてませんけど。


「はい、楽しみです」


 ということに、しておく。


「聡子は親バカだな。でも、類くんみたいな男子が息子だったら、自慢もしたくなるか」


 涼一も頷いた。


「そうそう。類は特別なの! まじ天使!」


 ……ああ。ここにいない、玲に同情しそう。


「で、どう座るの? 新幹線。ぼくは、さくらねえさんと並びたい」


 予約した席はふたつずつ、やや離れているという。


「えー。私も、さくらちゃんと座りたいなあ。類は京都駅からずっと一緒だったでしょ、私に譲りなさいよ!」

「おいおい、さくらは人気だな。さくら、選んでいいぞ」


 類と聡子の顔を順番に見た。

 このふたり、よく似ているんだよね、ほんと。見た目も性格も。


「類くんと座ります」

「やった! さくらねえさん、大好き」

「えーっ。車内でいやらしいこと、しないでよ類?」

「いくら手の早い類くんでも、人目があるところでは、まさかね」


 前科があるくせに知らん顔をした類はさくらを窓側に促し、さっさと座った。

 立っていると目立つからである。そして眼鏡を外す。


「親の席と、けっこう離れているんだね」


 夏休み中なので、車内はほどほどに混んでいた。


「ふう。でもよかった。さくらねえさんが、母さんと座りたいなんて言い出したらぼく、撮影へのテンションが下がりまくったところだったよ。さくらねえさんにぼく、お願いがあるんだ」

「お願い?」


 類がお願いしてくるなど、身構えてしまう。どんな無理難題を言い出すのだろうかと、さくらは身を固くした。


「うん。ぼくの撮影の手伝いをしてほしいんだ。もう、話は通してあるから、あとはさくらの了解を得るだけ。ね、お願い。アルバイト代も出るよ???」


 お金は、欲しい。不純な心が動いた。

 最近は類におごられっぱなしゆえ、そろそろきちんと返したいところだ。身体で払ってねとか、無体を言われる前に。


「どんなお仕事なのかな」

「簡単、簡単。言われた通りに、動けばいいだけだから。ねえお願い。さくらねえさんがいいんだ、ぼく。さくらねえさんじゃないと、無理」


 天使の笑顔。

 これには、いくらさくらとはいえ、弱い。きらきらと目を輝かせて訴えるアイドルスマイルの類に、さくらは頷くしかなかった。


***


 ……話が、違うんだけど。


 さくらは困惑した。

 聡子は喜んだ。

 涼一は動転した。


 京都よりどれだけ涼しいのだろうかなどという、淡い期待は即座に破られた。


「綺麗。すごく綺麗。さくらちゃん、最高に綺麗よ! 写真写真」


 軽井沢のホテルへ到着し、荷物を置いたあと、さくらはただちに数人に包囲され、着替えをさせられた。撮影の手伝いをするアルバイトの準備、と言われたのでおとなしくしていたが。


「聞いていないよ、こんなの。全然!」


 さくらを待っていたのは、『撮影の手伝い』ではなく、『撮影される手伝い』、だった。


 純白のウエディングドレス。

 メイクをし、丁寧に結い上げられた髪にはティアラと長いベール。

 どこから見ても、しあわせな花嫁。


「さくらが、類くんと結婚してしまうとは。心の準備ができていないのに」

「結婚しないでしょ、今はまだ。撮影モデルの相手役っ」

「うっかりしていた。類くんが、当リゾートホテルのブライダルキャンペーンのモデルまでするなんて」

「類が新郎なら、花嫁殺到ね。いい狙いじゃない、あなたの会社。類は今、露出を控えているから注目度、高いわよ」

「うう、まあ、それはそうだが。私まで、こんな扮装を」


 涼一も、花嫁の父親役ということで正装させられた。

 どうやら、花嫁のモデルをさくらにさせたいと、類が強引に話をつけたらしい。花嫁の顔は出ないというが、秋冬ブライダルフェアのポスターやコマーシャルに使用されることになっている。


 北澤ルイを起用した、北野リゾートの宣伝活動は大好評。

 初夏の軽井沢編からはじまり、現在は夏の沖縄編と北海道編のテレビコマーシャルが流れている。秋は京都編、冬は温泉編などが計画されているらしい。


 リゾート側も『一社員の息子』を、とことん利用すべしと考えているのか、系列リゾートのパンフレットはどれもルイづくしである。

 そのおかげか、昨年よりも、ホテルの予約数も稼働率もぐんと伸びているというが、十八歳になったばかりのルイを、ブライダルフェアの新郎にまで仕立てあげてしまうのは、かなりの勝負だった。

 ルイのファン層を婚礼予約につなげられるか、それとも失望や反感を買ってしまうのか。中身はともかく、北澤ルイはスキャンダルと無縁の、清純さわやかモデルというイメージで、ずっと売り出してきたのだから。


 北野リゾートにとっても、冒険。

 イメージを転換させたいルイにとっても、賭けである。


「類がチャペルで待っているって。行きましょう」


 聡子に付き添われつつ、ウェディングブーケを受け取って控え室から出ると、さくらは大勢の一般観光客に注視されながらチャペルに移動した。


 せっかくのメイクが剥げ落ちてしまうのではないかと思うほどに、汗をかいている。暑いせいだけではない、過度の緊張だ。しろうとが、出てもいい場所なのだろうか……不安しかない。

 アルバイト代につられて、簡単にオッケーしてしまった数時間前の自分を呪った。話をよく聞いておくべきだった。


 婚礼衣装に身を包んだ花嫁を初めて見る新郎・類の表情から撮りはじめたいというので、類はすでに祭壇前にスタンバイしているそうだ。


 音楽が鳴りはじめる。

 涼一と腕を組む。

 重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。


 ステンドグラスの光りがゆらめくバージンロードの先に、類が立っていた。


 さくらに向かって、類の手が伸びている。


 まっすぐ導かれるようにして、進む。

 目の前に類がいる。迷いはなかった。

 隣でさくらをエスコートしている涼一の存在すら稀薄になる。


 これは、結婚式のまねごと。


 しかし、お芝居だとはいえ、さくらには現実のような気もする。

 涼一から花嫁を引き継いだ類は、今まで見たことのないようなやさしい笑顔をしていた。目に浮かんでいる親愛の情が、さくらを包む。


 涼一が、おいおいと大きな声を挙げて号泣している。

 ほんとうの結婚式ではないのに、こんなに動揺してしまうとは考えものだ。

 見兼ねた聡子が、涼一を隅に引っ張り立てていった。撮影スタッフの間から、少し苦笑が漏れる。


「ありがとう、さくらねえさん。とても綺麗だよ、さすがぼくのお嫁さんだけあるね」


 ベール越しに、耳もとでささやかれる類の声が、さくらの心の奥にじんわりと広がる。


「驚いたよ、もう。控え室に連行されて、いきなり着ていた服を数人がかりで剥がされて、お化粧させられるんだもん」

「手伝ってほしいアルバイトは花嫁モデルです、なんて言ったら、さくらねえさんは絶対にやってくれないと思ったから」

「それは、そうだけど。もう、撮影しているんだね。このまま、雑談していていいの?」


 撮影スタッフが、ふたりの周囲をくるくると動き回っている。慣れないライトがさくらにも当てられ、少し熱くて、まぶしい。


「うん。リラックスしている表情も撮りたいって。あ、さくらねえさんは基本、後ろ姿とかベールを被った表情しか使わないから、安心して」

「大々的に使われたら、困ります」

「そうだね。ただの大学生だもんね。ティアラが少し曲がっているよ、直してあげるね」


 類は真剣な顔つきで、ティアラの角度を慎重に変えている。

 整った顔を間近で見上げる形になり、さくらは照れた。普段なら、これぐらいの距離なら押し返したりできるのに、今はおしとやかな花嫁である。じっと我慢した。


「このあと、賛美歌を歌ったり、いわゆる教会式の式次第をこなしていくけど、だいじょうぶ? 休憩、する?」

「ううん。平気」

「じゃあ、がんばろうね。全部、ぼくに任せてくれればいいから、指示通りに」

「はい。よろしくお願いします」


 さくらは類が気分よく撮影に臨めるよう、素直に頷いた。


「はー。やっぱり、さくらねえさんを選んでよかった。いい画がたくさん撮れそう、楽しみ」


 本物の神父さんが登場してふたりに聖書を読んでくれたり、指輪を交換したり、誓いの署名をしたり、撮影は順調に進んでゆく。


 モデルの類は、絵に描いたような完璧な姿勢である。

 時間が経過しても、少しも崩れたところがなく、笑顔はあたたかく、やさしく、強い。


「では、誓いのキスを」


 類が、さくらのベールをゆっくりとめくり上げた。

 もちろんキスの振りだけなので、堂々と目を閉じてさくらは撮影を待つ。

 類の顔が近づく気配がした。

 少し、恥ずかしいけれど、さくらは動かないでいる。

 類の吐く息が頬にかかった。思わず、ぞくりとする。


 さくらの耳たぶを、類の指がそっと撫でた。

 こうすると、さくらが感じてしまうことを類はよく知っている。全身に震えが走り、不覚にもどきどきしてしまった。

 衆人環視の中、しかも舞台設定は結婚式なのに、いたずらをしかけてくるなんて、類は相変わらず意地悪で不謹慎。


 あとで注意しなければならない、とさくらが思ったとき、類の唇がさくらのそれに重なった。



 ―――神前での、誓いのキス―――



 触れられた耳に、気を取られ過ぎていた。


 一瞬のできごとだったが、さくらには何分間にも感じられた。


 類の気持ちが、流れ込んでくるようだった。さくらは、完全にのまれていた。


 周囲がざわつきはじめたことで、さくらは自分を取り戻した。

 油断していた。相手は、類だったのに。


 ようやく唇が離れ、さくらは後退しようとしたけれど、類の腕はさくらの腰をしっかりと抱いているから、逃げられない。


「愛している、さくら。結婚しよう」


 類はもう一度さくらにキスしようと、唇を寄せてきたが、さくらは思わず類の頬を平手でたたいて反抗していた。


 チャペル内に、ぱしんという音が響く。


 夢中でたたいてしまったけれど、今は仕事中だった。


「あ……」


 さくらは我に返った。けれど、どうしたらいいのか分からない。

 目の前の類は自分の頬をおさえたまま、さくらのほうを向こうとしない。じっと、床を見つめている。

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