第25話 約束や予定は何度でも確認せよ

 「そうですか。分かりました、お大事にしてください」


 金曜の夜。

 茶の間でなんとなくテレビを観ていた、さくらの電話が鳴った。家庭教師先の山田あかりの母親からだった。

 あかりが夏かぜをひいてしまい、予定していた勉強会は急遽キャンセルになった。


 明日、土曜日の予定がぽっかりと空いてしまった。けれど、夏休みの課題をこなすという気分でもない。家の中にいても暑いだけなので、どこかへ出かけたい。


 さくらの目の前では、類が受験勉強をしている。


 最近、類はどこでなにをしているのかよく分からないけれど、こそこそと電話をしたり、帰りが遅い日や朝になっても帰宅しない日が続いている。

 もう十八歳だし、相当な収入もあるらしい立派な社会人なので、玲も類の行動に関してはとやかく言わない。


 さくらも、気まずい。


 先日の雷雨の一件以来、三人ともぎこちないままでいる。

 今夜は久しぶりに類の勉強を見てやっているさくらだったが、テレビもついているし、教師役に身が入らない。


 正直言って、類はさくらより勉強ができた。

 要領もいいし、器用。それでいてこの完璧容姿なのだから、神さまってほんとに不公平。


「類くんは明日の都合、よくないよね。勉強するよね。試験、来週だっけ?」

「そうだね。都合は、よくないね」


 玲への嫉妬を凝り固まらせている類と、ここ数日のさくらは疎遠だった。なんとかふだんのようになれないかと考え、声をかけてみるが効果はない。


「じゃあ、だめもとで玲を誘ってみるか」


 ふたりで出かけようという、春からの約束が叶えられていない。そろそろ、実現できるかもしれない。


「玲だって?」

「うん。たまには、玲とお出かけしたいし。五月の、玲の誕生日になにもしていないことを思い出して。妹のくせに、白状だよね。そんな素敵なことはできなくても、なんにもしないよりましだから」

「待って!」


 類があわててスケジュール帳を開いて確認した。


「明日。特に予定は、ない。どこか、行こう。ぼくの誕生日を祝ってよ」


 手帳を閉じた類は身を乗り出し、さくらに迫った。


「そっか。類くんのお誕生日祝いも、まだだったね。宵山の日、結局はぐれちゃったもんね。それにしても、なんてだめ姉、だめ妹なのか、私って。でも、順番から言うと、玲を先に」


 宵山の話を振ると、類が顔をゆがめたように感じたけれど、すぐにいつもの類に戻った。気のせいか。


「……仕事仲間に聞いたんだけどさ、北山に、いい感じのイタリアンがあるんだって。そこのランチを食べに行こうよ。散歩して、買い物して。ぼくは忙しいんだから、基本は類くん優先でしょ」

「うーん。類くんのお友だち情報なら、なんだか高そう。お誕生日のお祝いなら、私がおごりたいのに」


 さくらは躊躇した。


「別に、単なる学生のさくらねえさんにおごってもらおうなんて、これっぽっちも思っていないって。前にも、言ったような気がするんだけど?」

「でも、お誕生日……」

「くどい。だいじょうぶ。さくらねえさんは、黙ってぼくについてくればいいの。そうと決まれば、予約しよう。……もしもし、明日十二時、ふたりね。そう、個室で。北澤。北澤ルイ。絶対、個室にしてね。ぼくもゆっくり食べたいし、たぶんお店も迷惑するから」


 類は、さっさとランチの予約を入れてしまった。

 もし、玲も行けたら三人で……と思ったけれどそれは、無理か。



 翌日、お昼。

 さくらは類とおいしいランチを優雅にいただき、誕生日のプレゼントをするどころか、逆に服などをたくさん買ってもらってしまった。

 それでも、一応さくらは誕生日プレゼントとして、小箱を用意して渡した。


「パスケース?」


 包みを開けた類が、高い声を出した。


「うん。私と、お揃い。色違いで悪いんだけど、とても使いやすいから。それと、類くんの交通系ICカードを作ったんだ」

「ああ、これ。見たことある。電車とかに乗るときに、使うやつか」

「バスにも乗れるよ。京都生活を豊かにするには、持っていたほうがいい。いつもタクシーを呼んだり、自転車にふたり乗り、っていうわけにもいかないし。コンビニとか、コーヒーショップでも使えるし、小銭をじゃらじゃら持ち歩きたくない人には、うってつけ」


 カードの表面には、『シバサキ ルイ』と記名してある。


「ありがとう。さくらねえさんとお揃いっていうのは、いいね。使わせてもらうよ。自転車のふたり乗りも、いちゃいちゃ&べたべたできて好きだけど、バスの乗り方も今度教えてよね。でも、プレゼントなんて、いらなかったのに。しいて言えば、さくらねえさんが欲しいかな。紙一枚、婚姻届一枚でいいからね」

「婚姻、届……」

「うん。ぼくも、ようやく結婚できる年齢になったから。このあと、一緒に区役所へ行こうよ。『北澤ルイ、電撃入籍!』『でき婚疑惑!』」

「やだ。しかも、自分で言っちゃう?」

「即答なんて、ひどいなあ。夢なのに」


 ごく自然に手をつなぎ、ふたりは歩いた。

 誕生日の特別デートなのだ、今日だけは前向きにとらえたい。

 変装のために眼鏡と帽子は外せないけれど、そのすらりとした高身長に長い手脚が人目を惹く。自分は、類の隣を歩く女の子として、ふさわしい存在なのだろうか。ショウウインドウに映る自分と類の姿を見ては、ひどく不安になる。


***


 町家の前に、人影があった。


「玲と、祥子さん!」


 さくらは声をかけた。

 親密そうに顔を近づけて、なにかを話していたようだが、さくらの声で玲が振り向いた。

 玲はいつものように作業着、祥子はちょっと近所までも許せるかどうかというぐらいの、微妙なあやうい薄着である。白いワンピースで、身体のラインが浮いている。さくらとしては、アウトと言いたい。ビデオ鑑賞の件など含め、祥子は玲を誘っているに違いない。


「さくら。類。今、帰ったのか」

「うん。た、ただいま」

「ふーん」


 祥子がさくらをじろじろと見てきた。


「まるでデートの帰りやね、追加ちゃん。かいらしい服、着はって。類、今日の試験は、どないしたん?」


 今日の、試験。祥子は確かにそう言った。さくらは初めて気がついた。

 もしかして、大失態?


「まさか今日、高卒認定試験の日だったの。類くん?」


 類は薄笑いを浮かべたまま、動かない。


「ねえ、類くん?」


 さくらは類を問い詰めた。けれど、類はさくらのことを見ようとしない。


「さくら、お前。まさか、知らなかったのか?」


 玲がさくらの肩をつかんだ。


「だって。類くん、違うって。今日は予定、ないって。お誕生日を、祝ってほしいって。だから私、類くんと出かけたのに!」


 さくらの目の前は、真っ暗になった。

 思わずふらついて、よろめく。類が支えて胸にかかえてくれた。


「今ごろ、類の誕生日とか。追加ちゃん、ほんまにタイミング悪い子ぉやね。よりによって、今日を選ぶなんて」

「さくらねえさんは悪くない。ぼくが、行こうって言ったんだ」

「大事な試験だったんだろ? 受からないと、大学を受験できない」

「同じ試験は、十一月にもう一度あるから、別にどうってことないよ。次で一発合格すればいいだけ。明日の分は、ちゃんと行くつもりだし」

「どうして。きちんと説明してくれれば、サポートしたのに。類くん、どうして私に隠していたの」

「だって、さくらねえさん。玲を誘うって、言ったじゃないか。耐えられないよ、ぼく。さくらねえさんの笑顔が、視線が、心が、玲に向くなんて。そんなの、絶対に許さないんだ」

「そんな」


 反省もない類に、さくらはあきれたけれど、もっとも悪いのはこの自分。大切な弟の試験日すら、チェック不足だなんて。


「悪い女やね、追加ちゃんは。ここまで類を堕落させといて、まだ玲に執着しとるなんて」

「違う。違います、私」

「なにがちゃうねん。類は今日の大切な試験をほっぽって、追加ちゃんとデートした。事実やで?」

「そうそう、事実で結構。さ、うちに入ろう。ぼく、明日は試験だからさ、早く休まなきゃ」

「ふうん、おつかれなん? 追加ちゃんと、とうとう寝たんか。はー、ホテル帰りか? 同居中かて、町家じゃいろいろできひんもんね」

「そんなんじゃないけど、まあ親密度は確実に増しているからさ。ねえ、さくらねえさん? ちゅっ!」


 頬に降る、やさしい親愛のキスでさえも、今のさくらにはひどく重い。

 玲はなにも言わないで、冷めた目でさくらを窺っていた。


 さくらは、玲の前を通り過ぎる。


***


 土間に入って、さくらは類の背中に抱きついた。


「類くん、ごめんなさい。今日、試験だったなんて。私、うっかりしていた。祥子さんだって知っていたのに。もっと、よく確かめるべきだった」

「ほんとうに悪いと思うならさ、今夜はぼくと寝てよ。ぼくだけのものになって」


 さくらと向き合った類の目には、迷いがなかった。鋭い光をもって、直視してくる。

 答えようがなく、さくらは力なく視線を逸らした。逃げていると知りつつも、なにもできない。


「意気地もないくせに、口先だけの弁解とか、心ない行為がいちばんしらけるんだよね。ぼくは、好きだよ。何回でも言ってあげる。さくらねえさん、大好き。ぼくのもの。玲から、必ず奪う」


 類は、さくらの顎をつかむとにたりと笑い、やさしく口づけたかと思うと、さくらの唇を激しく噛んだ。

 痛い、そう思ったけれど抵抗できなかった。

 右の端からじわじわと血がにじんできたものの、玲が間に入って止めるまで、類の唇は離れなかった。類に、血を、舐めてられていた。

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