第24話 祇園祭と恋の炎(ばちばち)
祇園祭の前祭から、数日後。
京都市の上空が、昼だというのに真っ黒に染まってきた。
雷が鳴っている。風も強くなってきた。
さくらは、全力で西陣の町を自転車で走っていた。
夏休みに入り、さくらは課題を早めに片づけるべく、週の半分を大学の図書館で過ごすことに決め、その帰りだった。
「降り出しちゃう、雨!」
懸命に自転車のペダルをこぐ。町を行き交う人々も、みんな急いでいる。
さくらが急いでいるのは、雨に濡れてしまうからだけではない。
家のベランダに干してある、洗濯物が心配なのだ。
午前中はかんかんに晴れていたからたぶん、すっかり乾いているはず。これでまた、三人分の洗濯し直しだなんて、主婦のさくらとしては冗談じゃない。気が滅入る作業はしたくない!
横断歩道を渡る直前で変わってしまった赤信号。さくらは恨めしそうに睨みつける。猶予はあと、何分あるだろうか。
さくらは、大通りでの信号待ちを諦め、いちかばちか、細い道へ入った。初めて通る道だが、方向は合っているはず。
少しでも早く、家に。さくらは祈った。
ほかの家族がとっくに帰宅済みで、洗濯物を取り込んでくれているミラクルな可能性など、考えないほうがいい。
わが町家が見えてくる。
どうにか、間に合った。
鍵を焦りながら差し込み、自転車を土間に引っ張り入れる。また、雷が光った。
直後に、轟き渡る雷鳴。
戸を開けたまま、自転車のスタンドを立てると、すぐに階段を上った。
やはり、家には誰もいない。
さくらは、バッグを二階の畳の隅に放り出すように置くと、ベランダに向かって駆け出した。
と、同時に屋根を打つ激しい音が響きはじめた。
大粒の雨かと思ったが、違った。
ばらばらと音を立てているのは、雹(ひょう)だった。
さくらの親指の爪の大きさほどもある氷の塊が、真っ暗な空からばらばらと降ってきている。
「洗濯物が」
それでも、さくらは半分ほど洗濯物を取り込もうとがんばったが、強い冷風にあおられて断念し、ぴったりと窓を閉じ、室内に避難した。
怖い!
たたきつけられるようにして落ちてくる白いひょうに、さくらは茫然と見入っていた。
初めて、見た。
空気を切り刻むような、鋭くて冷たい塊。
「さくら、だいじょうぶか?」
振り返ると、玲が立っていた。
「誰も帰宅していないと思ったから、洗濯物を取り込もうと帰ったんだが、戸も開いているし……」
「うわあああん。玲、こわい。助けて!」
無我夢中で、さくらは玲に抱きついた。勢いがつき過ぎていたので、玲は支えきれずにさくらごと畳の上に倒れ込んだ。
「おい、さくら」
「お願い。今だけ、見逃して。雷が遠ざかるまで!」
さくらの震える身体を、玲は強く抱き締めてくれた。
「また鳴った! 怖い」
「俺が、ついている。怖くない。まったく、十八にもなって雷かよ」
「何歳になっても、怖いものは怖い!」
「じゃあ、俺が盾になる」
さくらを身体の上に乗せていた玲は、身体を反転させてさくらに覆い被さった。
玲の胸に包まれたおかげで、稲光も雷鳴もしなくなった。
ただ、激しい雨音が、心をも打つ。
さくらは玲にしがみついた。
玲も、さくらの背中に回した手に力を入れて強く、かかえてくれている。
なにを、迷っていたのか。
やっぱり、玲が好きなんだ。
さくらは実感した。自分が困ったときに助けてくれるのは、玲だ。玲しかいない。
「玲、好き。大好き!」
さくらは思いを打ち明けていた。雨音だと感じたのは、ふたりの鼓動だった。
「なんなんだよ。この状況で告白なんて、反則なのに。俺も、好きだ。さくらが好きだ。誰にも渡せない」
「私、玲に謝らなきゃいけないことがあるの。誕生日のイベント、なにもできなくてごめん」
「そんなこと、特に気にしていないけど? っていうか、自分でも忘れていた程度」
「でも、せっかくの記念日だったのに。両想いで迎える、初めての、玲の誕生日だったのに! 私、考えていたんだよ、なにをしようかって。でも……」
「……いい。もう、なにも言うな」
玲は、さくらにキスをした。何度も何度も、唇が重なり合う。
涼一との約束など、ふたりの頭からはすっかり失われていた。
手と脚が、より深くもつれ合い、絡み合う。雷のことなどもう、頭になかった。
目を閉じたさくらのブラウスの胸ボタンがひとつ、またひとつ外されてゆく。こわれものを扱うかのように、玲はさくらの肌にそっと触れた。
いつもは冷静な玲の息が荒い。
すでに雷雨は去ろうとしていたが、ふたりは離れなかった。
「痛かったら、言って。いやじゃないか」
気遣いながら、玲は手を伸ばす。
「うん。だいじょうぶ、たぶん」
そう告げるのが、やっとだった。玲が、さくらを乱す。
町家は壁が薄い。隣近所に聞こえてしまうかもしれないのに、切ない声がさくらの唇から次々と生まれてしまう。
「俺はしがない職人見習いだ。この先、さくらに負担をかけると思う。お前の夢や生きかたを犠牲にするかもしれない。それでも、俺のそばにいてほしい」
「だいじょうぶ。心配しないで、私は玲と一緒にいたい」
「……ありがとう」
そう告げると、玲はいっそうさくらを惑溺させた。
もうだめ、と感じたとき、階段を乱雑に駆け上がる足音が聞こえた。
さくらと玲はあわてて起きたけれど、乱れようは隠せない。
「なに、していたの。ここで……!」
類だった。驚きのあまり、顔色を失っている。
「帰ってきたら、雷に混じって変な声が聞こえて、猫かと思ったけど、よくよく聞いたらさくらねえさんの声で……でも、まさか玲と? 離れろ、玲。さくらねえさんから、早く離れろ!」
類は玲に飛びついた。
さくらは座ったまま、後ろへ下がり、前が開いたままのブラウスを両手でおさえた。類は鬼のような形相で、玲を殴っている。怖ろしくて、やめてとも言い出せない。
玲も玲で、打たれたまま、抵抗もしない。やがて、口の中が切れたらしく、血がにじんだ。
「さくら、悪かった」
ようやく玲がことばを口にした。血を見て、ようやく類も正気に戻ったようで、玲から離れた。
「消えろ。さくらねえさんの前から、早く消えろ!」
玲は、もうなにも言わずに階段を下り、外に出て行った。
二階に残されたさくらは、類とふたりきりになった。
類の顔からはいつもの華やかな明るさが消え、激しい憎悪が読み取れた。
「玲に抱かれたのか。よりによって、あいつに」
「ち、違う。誤解なの、類くん」
「いい声、出しちゃって。外にまで聞こえていたよ。さくらねえさん、感じやすいんだね」
「やめて、お願い」
「許さない。とにかく、早く、服を直して。ぼくも、襲ってあげようか」
類はさくらに背中を向けた。
さくらはあわてて、外されていた胸のボタンをすべて、かけた。スカートの乱れも直す。指が、震えていた。
「いいよ、類くん。直した」
声をかけても、類はさくらのほうを見ようとしなかった。
「類くん?」
背中が小刻みに揺れている。
「すごい、ショックなんだけど。さくらねえさんが、よりによって玲となんて。息が止まりそう」
「違うの。玲は、雷嫌いの私を、励まそうとして」
ようやく振り向いてくれた類は、泣いていた。
雰囲気に流されて軽率なことをしてしまったと、さくらは反省した。
「あれで、励ます? 男女の交わりにしか見えなかったよ。オトーサンに報告しなきゃ。玲が、家の中でさくらを襲ったって。約束を破ったって」
「私がいけないの。玲に抱きついたから」
「さくらねえさんのほうから、誘った? ぼくにどきどきしながら、玲にもいい顔するなんて、どういうつもりだよ。あいつは、さくらねえさんをしあわせにできない。玲が見ているのは、自分の夢だけ。さくらねえさんのことなんて、見ていない。職人になるために、便利なお手伝いがほしいだけ」
言い捨てるように類はことばを吐き出すと、階段を下りて行った。
広い背中がひどく寂しげだった。
さくらは、ひとり取り残された。壁に、もたれかかりながら目を閉じた。
類が来なかったら、玲と結ばれていただろうか。
それとも、玲が誓約書の約束通りに制止しただろうか。
激しい怒りをあらわにした類に襲われなくて、自分は助かったのか。
もう、分からない。考えたくない。
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