第20話 祇園祭と恋の炎(ゆらゆら)②
***
宇治を見学して町家へ帰ると、六時近かった。
今夜は、高幡家で類の歓迎会を行うことになっている。手伝いは不要だと言われたが、さくらは帰宅後すぐに顔を出すことにした。
インターホンを押すと、ややあってから玄関先に祥子があらわれた。
相変わらず、肌色成分の露出過多である。キャミソールにホットパンツ、素足。
自宅だし、部屋着……と理解するには、ちょっと苦しい。
「いらん、言うたやろ。もう準備できとる。それに、ほんまに手伝う気あるんやったら、もっと早う来よし。で、類は?」
「疲れたって、家で寝ています」
「は、疲れた? あんさんたち、昼間からふたりで疲れ果てるような、やらしいことをしてたんとちゃうか? そろそろはじめるさかい、引っ張ってでも連れてきなはれ」
言いたいことだけを言い終えると、祥子は部屋の奥に消えた。
***
「眠いのに起こすなんて、さくらねえさんの鬼ー」
双方向から、さんざんにけなされつつ、さくらは類を高幡家に運んだ。損な役目である。
高幡家では、春宵も玲も、すでに席に着いていたのを見ると、類は輝く笑顔に切り替えた。
「こんばんは、おじさん」
「おお。よろしゅうな、類くん。聡子さんから、類くんのことを頼まれておるで。これからは、しばらくご近所さんや。困ったことあったら、なんでも言うてや」
「こちらこそ。京都では、みっちり受験勉強に励みたいと思います」
好青年の切り返しを見せる類は、楽しそうに笑っている。そうやって真面目にしていれば、まずまず年相応なのに。
「それでこそ、高幡家の血筋。ま、もとから頭はええんやし、勉強に少し馴れれば受験なんてたやすいやろ」
「精進します」
類と春宵は、楽しく歓談している。
玲は、祥子に給仕されている。まるで、長年連れ添った妻のように。
はっきり言って、さくらは、おもしろくない。
祥子の料理はおいしい。おばんざいと呼ぶ煮物、和え物といった品々も素材の味を生かしてあり、素晴らしく美味だし、シンプルなからあげとかサラダまでおいしい。お刺身などは、魚屋から買って来た普通の品だと白状したが、盛り付け方がうまい。
味もいいし、食器皿の選択もいいし、見た目も文句のつけようがない。
料理には少し自信のあるさくらだったが、悔しい。なにも言い返せなかった。
「で、類。あの家に居座るなら、食費ぐらいは出せ。ただでおいてやるわけにはいかない」
「食費? けちくさいこと、言うなあ。さすが、守銭奴で吝嗇(ケチ)の玲だね。ぼくがさくらの消耗品を担当するってことで、いいんじゃないかな」
「消耗品、ってなんだ」
「服とか、靴とか。あと、美容代? 身だしなみでお金がかかるときは、いつでもぼくに言って」
「そんなの、重要じゃない」
類はさくらに話しかけたが、答えたのは玲だった。
「なに言ってんの! 十八歳の女の子だよ、さくらねえさんは。おしゃれだってしたいし、お出かけだってしたい。女の子の夢を叶えてあげるのが、男として当然の行動だよ?」
「いちいち叶えなくていい。きりがない。いいか、お前はいちいちやることなすこと、えろいんだよ」
「類くん。気持ちはありがたいけど、私も恐縮だよ。アルバイト代があるから、そこから優先順位をつけて、なんとか捻出するし」
「だめ。さくらねえさんを、毎日きれいに笑顔にしてあげるのは、ぼくの義務。学生なんだから、アルバイトはそこそこで、学業最優先。余暇は、ぼくといちゃいちゃ」
「カメラの前でへらへら笑っているだけで金儲けしている男が、偉そうに」
「なんだと? この世界で生き残るのは、大変なんだからね」
「まあまあ、ふたりともそのへんにしておき。聞きしに勝るきょうだい喧嘩やね。さくらはん言うたな、お嬢はん。早よ、答えを出してやったほうが皆にとってもええんとちゃうか」
いきなり話の矛先が向いてきて、さくらは飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「そうそう、早いほうがいいよ、それだけ傷つかなくて済むし。実の兄から奪いましたなんて、正直いやだもん、ぼく」
「おい。勝手に奪う設定にするな」
「玲には、うちがおるで。工場の跡取りの座付きで」
それぞれがめいめいに、勝手なことを言う。
玲に、助けてほしいと緊急信号を帯びた視線を何度も発したのに、すがすがしいほどに無視された。
耐え切れずに、さくらは耳を塞いだ。逃げてはいけない。けれど。
***
翌日。
いつものように、玲はさっさと起きて仕事に行った。
ふだんと違ったのは、朝食とお昼のお弁当がふたり分置いてあったことだ。
「へえ。玲は、まめだね。あ、ただのケチか。月給十万円だからか。さくらねえさんをものにしても、養えないよねー。それより、久々のさくらねえさんのパジャマ姿、かわいいね。愛らしい姿、ほかの男に見せたらだめだよ。玲は、こんなにかわいいさくらねえさんを見て、襲いかかったりしないのかな。あ、襲いたくても襲えないってか。月給十万じゃねえ、家賃を払ったらほとんど終わりじゃん。その点、ぼくは……」
そう言いながら、類ははだけた胸を押しつけてきた。
ほんのりと、いつも使っている香水と、汗の匂いがする。
「だめだよ、類くん。ほら、誓約書誓約書」
間違いが起こらないようにと、前日のうちに玲は二通の誓文を、壁の目立つ場所に貼った。さくらはそれを指差した。
「ちぇっ、まじ興醒め。さくらねえさんはノリが悪いな」
「洗濯するから、パジャマを脱いで」
「で、事務的なことだけは積極的なんだから。はいこれ、洗濯物。さっさと洗っちゃって」
「ぶっ」
顔に直接押しつけられた類のパジャマからは、類の匂いがした。
とりあえず、すべて広げてから洗濯機へ放り込む。色柄物、白物。
「類くんのシャツ。大きいけど、細い」
さくらはまじまじと類のシャツを眺めた。
日本の既製品ではサイズが合わないとかで、類の衣服は海外のブランドものか、オーダーメイドである。もちろん高価なので、洗濯にも注意が必要だ。
「見て、ないよね」
類のシャツがどんなものか着てみたくなった。
居間にいる類の様子を窺ってからパジャマを脱ぎ、そっとシャツに袖を通してみる。
「やっぱり、だいぶ大きいな。でも、ほんとうに細い作りのシャツだ」
おなか周りをきゅっとを引き締めないと、ボタンが止まらない気配さえある。
「てゆうか、なにしてんの? おなか、空いた」
不意に、類が洗面所のドアを開いた。
「へえ。ぼくのシャツを着ちゃって。『彼シャツ』ごっこ? けっこう、いい眺めだね」
シャツの丈はさくらの太ももぎりぎりである。かなり際どい。
類はさくらの脚に触れた。冷たい指先が、さくらを正気に呼び覚ます。
「だめだって。そんなところ、いや!」
「じゃあ、どんなところならいいのさ」
憂い顔の類に、さくらはまともな反論もできない。
「ど、どこもだめってば。類くんに、触らせる場所も隙もないんだってば」
「それ、本気で言っているの? 隙だらけなんだけど。玲の洗濯物もあったはずなのに、好んでぼくのシャツを着たってことは、相当脈アリなんだよね。はーあ、別に構わないけど、無断でぼくが昨日着たシャツを着て興奮するなんて、さくらねえさんまじ変態☆」
「してない、興奮なんてしていないって。ただ、類くんのサイズってどれぐらいなのか、確認しただけだし」
「強がらなくていいよ。さくらねえさんが、どれだけぼくに惚れているのか、もう知っているつもりだし。恥ずかしがらないで。いいかげん、ぼくに全部を許したらどう?」
「ごめん。無断で袖を通したことは謝るよ。ちょっと強引だったかも。でもお願いだから、変態扱いはやめて」
「変態でも、構わない。ぼく限定の変態なら、受け入れる度量はあるつもり。ぼくも特殊嗜好だしさ。ね、触れてほしいでしょ。女の十八歳なんて、発情期そのものだよね。ぼくは、さくらねえさんが喜びそうな遊び、たくさん知っているよ。ねえ」
類の冷たい指が、さくらの脚をなぞるように滑る。
心地よくて、思わず目を閉じてしまいそうになるので、さくらは大きな声で抵抗する。
「だめだよ。誓ったよね、父さまに。許さないよ!」
「いい顔。朝だけど、押し倒したくなる愛らしさ。気持ちいいから許しちゃう、って顔つきなのに、強がり言うんだ? つくづくあの誓文の存在がつくづくいやになるよ、はあ。しかし、この部屋は暑いなあ」
それ以上の接触を諦めた類は、シャワーを使いに行った。
町家の持ち主の意向で、クーラー設置が不可となっている。暑さには、耐えなければならない。
朝食、洗濯、簡単に掃除を終えると、さくらは大学へ行くために自転車を出そうとした。
「そうだ、これ。玲から預かった家の鍵。類くんの分だよ」
さくらは小さな鍵を類に手渡した。
「ちゃちな鍵だね。この型、今の時代では防犯力ゼロだよ」
文句を言いながらも、類は仕方なさそうに鍵をポケットへ突っ込んだ。
「それじゃ、私はここで」
「待って。今日から一緒に行こうよ」
「は?」
「ここじゃ、暑くて勉強できない。さくらねえさんの大学まで行く。ぼくが前に乗るから、さくらねえさんは後ろ」
「あぶないよ、ふたり乗りなんて。道路交通法違反だよ」
「平気平気。今日のために、荷台つきの自転車を選んだんだし。もたもたしていると遅刻するよ、いいの?」
「いや、困ります」
「なら、早く行こう。しっかりつかまって」
仕方なく、さくらは自転車の荷台に座り、類の背中側から胸のほうに控え目に手を回した。
「ここで、いいかな。手の位置」
「ああ、いいね。さくらねえさん。でももうちょい、身体を密着させないと、自転車から落ちるよ。かわいくって小さな胸のふくらみを、ぼくに押しつけて。それと、手はもう少し、下腹部というか、股間のほうに伸ばしてぎゅっとしてくれると、すごく感じるんだけど」
「朝から変態発言はやめてね」
「ああっ、さくらねえさんのせいで、苦しい。もう、ぼく……我慢できない、かも。もっと、揉んでみて。強くして。激しく、もっと……ああん」
「ちょっと待って、私はなにもしていないのに! やめてやめてやめてー!」
さくらは、類の背中をグーで軽くたたいた。
「……なんてね、嘘でしたー。行くよ」
赤い自転車は都を走る。
「類くん、今出川通、東だよ。大通りに出たら、左。まっすぐ進む」
「おっけー。任せて。京都の地図を見て、何度も脳内練習してきたんだ。区役所、地下鉄今出川駅、御所を右手に、鴨川越えて、出町柳を過ぎたら、もうすぐでしょ?」
「……うん」
「いいねえ、この爽快感。すごく蒸し暑いけど、ぼくは京の町で解放されたね。さくらねえさん、大好き! 愛してる! 一緒に寝たい! 結婚して! 子どもは五人ほしい!」
「そんな大声、出さないでってば」
「誰にも聞こえないよー」
いや、本人にはしっかり聞こえているし。
構内の駐輪場でふたりは別れたが、『北澤ルイ』の噂はすぐにさくらの耳に入ってきた。
なんだか……あたまが……いたく……なって……きた。
「追加ちゃん、聞いたか。あの、北澤ルイが、大学内のカフェにおるらしいで。見に行かへん?」
「北澤ルイの大ファンやったよね、追加ちゃん」
「この前、活動休止ゆうてたさかい、どないしたんやろと思うたけど、こないなとこにおるなんてな」
「撮影かな」
さくらはうろたえた。たったの一時間で、ここまで話が広がってしまうとは。あらためて、類の破壊力を知る。なんと言って、切り抜けよう?
「彼は、柴崎さんの弟さんなんだよ。彼、京都へ遊びに来たの?」
悩むさくらのために、話に割って入ってくれたのは橋本だった。
「柴崎さんて、誰やー」
「追加ちゃんのことやで、確か」
それでもまだ、名前を覚えてくれていないクラスメイトの存在に苦笑しながらも、さくらは答えた。
「そう、弟なの。類くんは、大学受験するの。で、勉強のために、うちの町家で来春まで同居することになって」
「ごほっ。ど、同居……!」
妙な音がした、と思ったら、橋本が盛大にむせ返っていた。
血がつながっていないという真実を知っている橋本には、類との同居が驚愕だったに違いない。どれだけふしだらな女と誤解されただろう、いたたまれない。
「あ、チャイム。次の授業がはじまっちゃうよ」
さくらは必死に逃げたが、類がさくらの日常を浸食し、かき回してゆく。
昼休みには、クラスメイトと一緒にお弁当を食べるわ、写真を撮るわで大騒ぎ。
おかげで『追加ちゃん』ではなく、『さくらお姉さま』という新しい称号を得てしまった。
だが、さすがの類も、自分が『義理の』弟だということは、猫をかぶって語らなかった。橋本も黙ってくれていた。もちろん、さくらも。
顔はちっとも似ていていないし、類は異様にまとわりついてくるし、いつか知られてしまう予感はあるけれど。
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