第19話 祇園祭と恋の炎(ゆらゆら)①

 七月。祇園囃子がコンチキチン。


 祇園祭のはじまりともに、いよいよ京都は夏に入る。

 京の夏は油照り、とても暑いと聞いていたが、序盤から厳しいものを感じた。盆地であるためか、蒸す。これに真夏の陽射しが加わったら、どうなるのだろうか。怖ろしい。


 しかも、町家には台風がやってくる。


 さくらは、目の前にある山積みの段ボールを眺めて嘆息した。


「これが全部類くんの荷物とか、ありえない」


 なにしろ、玲とさくらの全荷物よりも箱数が多いのだ。特に、服や靴。この家には収納が少ないので、どこにしまえばよいのやら。


 類本人は今日、仕事が終わり次第到着すると聞いている。

 ここしばらくは連日電話やらメールやら、頻繁に寄越してくるので、さくらは気が気でなかった。

 さくらも、大学が前期の終わりに差しかかり、テスト勉強にレポート提出の期限が迫っている。


 玲は、特になにも言わない。いつも通り、仕事に打ち込んでいる。


 休みの日に、どこかへ出かける予定もすっかり流れてしまっていた。たまに、ふと休日があるようだが、そういう日に限って授業がみっちり入っていたり、アルバイトの日だったりする。玲が、さくらの多忙な日をつかまえてわざと休んでいるとしか思えないほど、ふたりはすれ違っていた。

 さくらも、玲と真正面から向き合う勇気を失ったまま、ずるずると類を向かえる日が来てしまった。



 類の部屋は、現在居間に使っている場所に決まった。すでに、テレビとちゃぶ台を土間側に移動させてある。


 町家というのは、奥に長い構造になっている。

 夏、風の通りができるようにとのくふうらしいが、昨今の猛暑の中、どれだけ効果があるのだろう。


 戸を開くと、旧工場の土間兼台所、靴を脱いで上がった部屋が類の個室、さらに奥の部屋に玲、その向こうは坪庭とお風呂。

 二階は引き続き、さくらの居住スペースとなった。


「これだけ荷物があると、類くんの衣装部屋を二階に作ったほうがいいかも。けど、類くんを二階に上げるのは、ちょっと……」


 実際、二階は広い。

 六畳間がいくつもあるけれど、さくらはひとつしか使っていない。

 それに、洗濯物を干せる小さなベランダが、坪庭を見下ろすようについている。さくらだけには、もったいない空間ではある。

 きょうだいが二階を使うことも考えたが、女の子を一階に起居させるのはどうかという結論になり、現状のままになった。


***


 電話が鳴った。


『名古屋を過ぎたから、駅まで迎えに来て』

「もう名古屋なの?」

『あー? よく聞こえない。あとでね。とにかく、迎え迎え。い・そ・い・で!』


 いつもの調子で、類はさくらに命令し、電話は一方的に切れた。

 迎えがほしいなら、もっと早く、せめて新幹線に乗る直前にでも連絡がほしかった。


 たぶん、これもわざとなんだ。類の翻弄作戦。

 手のひらで転がされるのはしゃくだけれど、迎えがなかったら激怒するに違いない。


 幸い、今日は午前中で授業が終わったし、家庭教師のアルバイトもないので、扇風機に当たりつつ、家でレポートを書いていたのだが、こんなに早く類が到着すると思っていなかったので、驚いた。

 それに、レポートを、もう少し進めておきたかったところなのに。類が来たら、しばらく勉強どころではなくなるだろう。


 時計を見た。

 名古屋から京都まで、新幹線なら約三十分。今すぐ出発しなければ、間に合わない。

 さくらは教科書やノートを閉じる暇もなく扇風機を止め、近くに置いてあったバッグを手繰り寄せると、携帯電話を突っ込んで家を出た。


 めちゃくちゃに走って大通りに出ると、ちょうど京都行きのバスが通ったので飛び乗った。ほんの三分ほどだったのに、さくらは額や首筋から汗を流していた。


 これでも、ぎりぎりアウトかも。待たせたくない。

 人が多い京都駅前で、たたずむ類。当然、若い女の子を中心に人だかりができる。

 想像するだけで、ぞっとした。



 額にタオルを当てながら、玲にメールを送る。


『類くんが、そろそろ京都に着くようなので、迎えに行ってきます』と。


 駅前でバスを降りたとき、再び電話が鳴った。

 さくらは息が詰まりそうになった。


 バスはかなり順調に走っていたが、それでも京都駅まで三十分近くかかっていた。

 バスターミナルと新幹線の中央口は、京都駅のちょうど真逆の位置にある。人波を躱しながら懸命に走っても、あと五分はかかるだろう。


『着いたよ。どこ?』

「類くんこそ、どこから降りたの? 中央口? 八条口? それとも……」

『中央口。近鉄の、目の前? エスカレーターの近く。すぐ、分かると思う。さくらねえさんが遅いから、すでに人に囲まれちゃって、大変なことになっちゃったし』

「す、すぐ行く。もう駅にいるから! そこ、動かないで! 絶対!!」


 デパートやおみやげさやんの前を走り、全力で階段を駆け下りた。


 百人ほどの人だかりがある。

 警備員まで出ている騒ぎだ。


 ……泣きたい。


 すれ違う人が『なに?』『あれ』『ルイくんだ』『北澤ルイだって』『撮影?』と、さかんに噂し合っている。

 どう近づいたらいいのかも分からないほどの人垣の中で、類は不機嫌そうに警備員と話をしていた。


「待ち合わせなの」

「騒ぎが大きくなりますので、速やかに移動してください」

「だったら、こっちの人たちに言って。ぼくだって、困っているし」


 さくらは人を掻き分け、すみませんすみませんと言いつつ、押したり押されたりを繰り返しながら、なんとか類に近づいた。


「類くん、ごめんね。遅くなった!」


 そう告げるのがやっとだ。

 走ったり、人垣を抜けたりしたせいで、さくらの息も身なりもすっかり乱れていた。

 てっきり叱りつけられるかと覚悟していたが、類の声は意外にも明るくてやさしかった。


「やだなあ。さくらねえさん、そんなに急いで来て。もしかして、早くぼくに逢いたかったの?」


 さくらの手を握り、類はその場を立ち去った。

 背後からはどよめきとため息が聞こえたが、振り向かないことにした。


「……今の顔、すごく必死でかわいかったから、許してあげる。迎えには行けないとか、類くんが早過ぎるんだとか言い訳をしてきたら、許さないつもりだったけど、はい。汗、拭きなよ」


 類は笑顔でハンカチを差し出した。

 断ろうとしたが、有無を言わせない笑顔だったので、さくらは軽く一礼をして受け取った。


「ありがとう」


 しかも、ご丁寧なことに、類はさくらの髪の乱れを手ぐしで整えてくれた。


「どこへ行こうか?」

「え、出かけるの?」


 真っ直ぐ帰るつもりだったのに、腰に手を回されてさくらは目を丸くした。


「柴崎類の京都初日! せっかくの、梅雨晴れでしょ?」


***


 旅気分を味わいたいらしい類に、さくらが提案したのは宇治観光だった。


「目玉は、平等院。しばらく修復中だったんだけど、作業が終わったんだ。壮麗な貴族建築を見よう。地上にあらわれた極楽浄土だよ」

「もっと近場でよかったのに。新幹線に二時間以上乗ったのに、また電車に乗らされるなんて」


 電車が苦手な類は不満たらたらである。


「まあまあ。阿弥陀さまも、大きくて興味深いよ。併設で、おしゃれなミュージアムショップもあるし、再現された庭園も必見。ほら、十円玉のデザインでおなじみの鳳凰堂。あれが、表なんだってね。十って書いてあるほうが、裏面で」

「建築とか、さくらの趣味全開じゃん」

「宇治上神社とか、ちょっと歩くけれど興聖寺も見どころ多いよ。それに、宇治川の流れでしょ」

「全部、さくらの趣味! 涼しくて、ふたりっきりになれるところがよかった!」


 ぶつぶつ言いながら、類はさくらのあとをついてくる。涼しくてふたりっきりって……、どこよ?


 目当てのお寺がある、というだけではない。

 さくらは抹茶のお菓子を求めてやって来た。


「パフェもいいけど、ソフトクリームもいいなあ」


 玲へのおみやげには、茶団子を買うと決めている。

 平等院までの参道にしか売っていない、おいしくて安いお団子があるらしい。


「太るよ」

「だ、だいじょうぶだもん。最近、暑いせいか食欲が落ちていて。ここらで食べて、回復しなきゃ」

「だから小さく見えたのか、さくらねえさんの顔」

「顔、小さい?」

「うん。頬に、いつものふっくら感がない」

「じゃあ、参拝後にと思っていたけれど、今すぐに食べちゃおう。ほら、アイスあるよ、そこのお店」

「なに、おごれって?」

「いや、別にそういうわけじゃないけど、アイスが……」

「出すよ。玲に家計を握られて、苦しいんだろ。財布の中身。ぼくといるときは、さくらねえさんは払わなくていいから」


 お店のおばちゃんから抹茶ソフトクリームを受け取った類は、さくらのもとに戻ってきた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう、類くん」

「まったくそんなに甘いもの、よく食べられるよね。しかも、町全体がお茶くさいし」

「せめて、香り高いって言って」


 ふたりは、宇治橋のたもとに並んで座った。


「いただきまーす。うん、冷たい、甘い。おいしい」

「いい顔するね。ぼくのキスで、その笑顔になればいいのに。よし、撮っておこう」


 類は携帯電話のカメラで、さくらを激写した。


「宇治っていうから。てっきりあっちだと思ったんだけど」

「あっち?」

「そう」


 類は石像を指差した。


 宇治川岸の、長い髪の女性。紫式部像だ。平安時代の物語作家。


「源氏物語の後半は、宇治が舞台なんだよね。男ふたりに女ひとりの、三角関係。誰かさんの状況によく似ていること」


 ほおづえをついたまま、類は意味ありげに笑った。


「なにが、言いたい?」


「はからずも、ふたりの男を愛されてしまったヒロイン・浮舟は、結局どちらの男も選べずに、この宇治川へ身を投げる。もしかして、さくらねえさんも入水したいほど悩んでいる、とか?」


「しないよ。入水なんて」


「ぼくを選びなよ。そうしたら、うじうじ悩む必要もなくなるよ。浮舟だって、あとから出てきた匂宮に惹かれて困ったってふうに読めるよ。前からの男・薫にあるのは、情だけでさ」


「うじうじ……、今のは、もしかしてシャレでも言ったつもり? やだ、類くんらしくない」


「あっはっはっは! ぼくだって、いつも二枚目モデルじゃないよ。そんなこと、さくらねえさんだってよく知っているくせに。ほら、ソフトクリームがとけてきた」


 どろりと濃い緑の液体が、さくらの指先にまで落ちてきた。あわてて拭こうとしたが、横から顔を出した類が舐め取ってしまう。


「とても甘いね」

「やだ、類くんってば」

「早く食べちゃいなよ。ぼくも手伝うから」


 類はさくらの手からソフトクリームを奪い、食べはじめた。

 赤くて長い舌がときどき見え隠れする。とても色っぽい。あの唇と舌にいつも翻弄されているのかと思うと、身体がじんわりと熱くなった。


「なに? じっと見て。もう、なくなっちゃうよ?」


 妄想している間に、アイスの量はだいぶ減っていた。


「だ、だめだめだめ! それ、私の」

「うるさいよ。さくらねえさんが見つめてくるから、暑くなっちゃった。あー、汗かいてきたなあ。外で、こんなに汗をかいたのって久しぶり。帰ったら、すぐにシャワーを浴びなきゃ。さくらねえさんのせいだよ」

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