第18話 攻撃は最大の防御なんて、誰が言った?③

***


「やだ。嘘でしょ、類くん?」

「あと、五分だけ。こうしていたい」

「だめだよ、人に見られちゃう。今は、北澤ルイくんなのに」

「だいじょうぶ。ちょっと黙っていて。うるさい」

「うるさいって、姉に向かって……」


 さくらと類に背を向けた片倉が、手に持っていた夕刊紙を、ばさばさっと大きく広げ、さりげなくふたりの壁となった。ほかの乗客の視線をさえぎってくれている。

 なるほど、身体が大きいということをうまく利用している。

 さくらが少々感心していると、類は新幹線の扉にさくらの身体をぎゅっと強く押しつけ、ぴったりと密着してきた。


「ぼくがあげた口紅、使っているんだね」


 類はさくらの唇を指先でやさしくなぞる。全身が、ぞわぞわと痺れたように疼いた。


「気に入ったから。学校でも、いい色だねって評判いいし」

「……ふうん」


 興味なさそうにそう言いながら、類はサングラスを外してポケットにしまった。

 うわあ、やっぱり機嫌が悪いときの目だ! 


「キスしていい?」

「だ、だめ!」

「ほんとうは唇にしたいけど、今は気が立っていて、きつく噛んじゃいそう。あんなダサい男を連れてきて、ぼくの嫉妬心を煽るなんて、さくらねえさんは悪い女だなあ、ほんと。浮気したら、許さないよ」

「浮気もなにも、ないでしょ。類くんは、私の弟」

「いつまで、そんな強がりを言っているつもり? ぼくのことを好きになりはじめているんでしょ、分かるよ」


 そう言って、類はさくらの耳たぶを甘噛みしながら、ブラウスのボタンをひとつ、ふたつと片手で器用に外し、首筋から胸もとにかけて何度も強く唇を落とす。


 類の息が荒い。熱い。


「やめて。痛い。だめだよ、るいく……」

「名前を呼ばないでください、お姉さん。周囲に気がつかれます」


 背中を向けた片倉が、さくらを注意した。

 さくらは縮こまった。

 類がにたりとあやしく笑う。


 この場合、注意するなら類の行動ではないか。公共の場所で、仮にも姉に対してこんな大胆な振る舞いをするなんて!片倉も、間に入って止めてくれてもよさそうなものなのに。

 類の手は遠慮なくスカートの中に伸びてゆき、撫で回す。さくらは声を押し殺すのに必死だった。キスされるより、ハードな展開。


「さくらねえさんが処女じゃなかったら、トイレの個室に連れ込んじゃうんだけど、それはいくらなんでもかわいそうだね。残念だけど、これ以上は自粛。ああ、でも離れたくない。さくらねえさん、ほんといいにおい」


 もう一度、類はさくらの身体をぎゅっと強く抱き締めた。

 さくらは全身に力が入らなくて、抵抗できなくなっていた。


「ルイ、そろそろ」

「ん、分かっている。さくらねえさん、ごめんねいつも強引で。でも、ぼくをこんな気持ちにさせる、さくらねえさんだって悪いよ。また今度、たっぷりかわいがってあげる。もしかして、今ので感じちゃった? 歩けそう?」


 類はさくらの服の乱れを直す。東京―品川駅間は、十分もかからない。


 品川駅に到着してようやく、類の呪縛から解放された。

 けもののように激しく襲いかかったことは嘘のように、さわやかな笑顔でさくらに手を振った。これは、『永遠の少年モデル・北澤ルイ』の顔だ。


 ゆっくりと動きはじめた新幹線を、ぼうぜんと見送る。

 ……自分勝手で、うつくしい悪魔を。


 二本の脚が付け根からがくがくと震えている。立っているのがやっとだった。

 しかし、類の冗談が、次第にいやではなくなってきている。玲を思っているはずなのに、身体は類に反応してしまっている。

 悔しいけれど、類の言う通りなのだ。


 類は、玲がくれないものを、さくらにくれる。やさしいことば。切ないふれあい。

 そんな自分の感覚を、嫌悪した。


『あれ、北澤ルイじゃない?』

『ほんとだー。かわいい』

『スタイルいいね。細っ』


 ホームですれ違う女性たちが北澤ルイの存在に、次々と気がつく。ほんとうに有名人だ。

 そんな類に、愛情たっぷりで手を振ってもらえるのは、自分だけ。妙な優越感を覚え、酔ってしまいそうになる。


 いや、これは錯覚。姉として、きちんと弟を指導しなければ。


***


 予定していたよりも、マンションには三十分遅く帰宅となった。


 先に、両親が帰っていた。

 変わらずの笑顔で迎えてくれたが、室内は洗濯物や書類が散乱していて、足の踏み場もない。


 はっきり言って、ひどい! 帰りたい家じゃない! 住みたくない!


 さくらたちが部屋を出て行って二か月で、この荒れよう……。

 はっきり言って、こんな悪環境ならば、受験生の類は町家で預かるしかない!


 ゴミだけは涼一が捨てていてくれたので助かったが、金曜の夜は、片づけどころではなかった。

 とりあえず、玲に無事帰宅のメールと、類には抗議のメール。


 橋本にも、なにか書こうと思ったが、やめた。弁解の余地がない。

 日曜の夜も、一緒の新幹線で京都に戻る約束になっている。メールや電話よりも、直接言ったほうがいい。たぶん。


「驚いただろうなあ、橋本くん。ごめん」


 いろいろあったせいか、それとも自分の部屋に戻ってきた安堵からか、さくらはベッドに入るとすぐに寝てしまった。


***


 土曜、終始部屋の片づけ。

 朝から両親を追い出し、もっぱら自分のペースで快適に行う。一日で、八割ほど片づけ終わり、聡子の感涙を誘った。

 部屋掃除のアルバイト代を前金でもらっていたけれど、涼一がご褒美に夏物の服とサンダルを買ってくれた。娘に甘い、父。でも、うれしい。



 日曜、午前中は昨日の作業を続ける。

 午後は夕食作り。食事を終えたら出発する予定。


 仕事の類は、さくらの出発に間に合わなさそうだった。

 忙しいようで、連絡もなかった。


 家庭教師のアルバイトで使う教科書や、玲に頼まれていた本をピックアップし、町家に配送してもらう手配をする。京都に戻る支度も万全。


 怒涛の週末だった。


***


 日曜夜の、東京駅。

 橋本は先に到着していた。なんだか憔悴しきった様子だったので、さくらは聞いた。おそるおそる。


「この土日、忙しかったみたいだね?」

「……ううん。あ、いや、妄想で忙しかった……かな?」


 橋本はわけの分からない返答をした。


「あの北澤ルイが弟なんて、驚いた。しかも、真正面から笑顔で柴崎さんに大好きとか、あり得ない。義理の弟、なんだよね?」

「うん。黙っていてごめんね。ずっと隠せるものじゃないと思っていたけど、まさか本人が白状するなんて。ああやって、類くんは私をからかって楽しんでいるみたい」

「からかう? あれ、本気に見えたよ。柴崎さん、彼とちゃんと向き合っている?」


 本気? 類が、本気?


「類くんにあるのは、ただの好奇心というか、玲への対抗心が強くて。ごくごく普通の私なんかに、きらっきら芸能人の類くんが、私なんかに本気になるはずがないよ」

「そんな態度じゃ、彼がかわいそうだ」


 橋本は言い切った。


「彼は、『きょうだい』だという結論以外を考えているんだよね。柴崎さん、もっと真剣に考えないと彼がかわいそうだよ。もしかして、同居のお兄さんのこともあるから?」

「玲と類くんは、私の義理のきょうだい。私は玲が好きで、京都についていった。でも、もう分からないの。玲はまるで冷たいし、類くんが割り込んでくるし。義理とはいえ、きょうだいで恋愛しているなんて、気持ち悪いよね」

「どっちも選ばなければいいんだよ」


 さくらは顔を上げた。橋本は、まっすぐさくらを見ていた。


「柴崎さんは、きょうだいから恋人を選ばなければいいんだ。まだ十八歳なんだし、世間は広い」


 言い捨てるように吐き出すと、橋本はふいと席を立った。


 きょうだいに挟まれて暮らしてきたこの半年、どちらを選ぶのかばかりを考えていた。だが、それは根本から違っていたのかもしれない。

 両方を手にしろという無茶な意見はあったが、どちらも選ばないという選択肢は逃げているように思え、深く考えたことがなかった。


 けれど、誰も選ばないという選択肢も、あるのだ。


 さくらは窓ガラスに映る己の顔を凝視した。暗い顔の自分が、まるで亡霊のように思えた。


***


「ただいま」


 時刻は、夜の十時を過ぎている。

 遅くなったので、橋本が町家の前まで送ってくれた。明日、改めてお礼を言おう。そう思いながら戸を開くと、土間には玲の靴の隣に、女物の細いサンダルが並んでいた。

 奥の部屋から、話し声が聞こえてくるものの、電気がついておらず、暗い。襖が閉まっているので、誰がいるのか分からない。ひそひそとなにかを囁き合うような、声。


「た……ただいま、玲!」


 さくらは声を張り上げた。ようやく襖が動いた。


「……おかえり」


 すでに寝る準備を整えた玲と、さらに祥子が出てきた。やっぱり。


「あら追加ちゃん、今ごろお戻りなん?」


 薄手のノースリーブ姿の祥子は、同性のさくらから見てもなまめかしくて、思わずどきどきしてしまう。

 色香漂ううなじ、しなやかな腕、やわらかそうな双の乳房、腰のくびれ。

 布一枚を身にまとっているといった印象で、身体の線がはっきりと分かるほど、透けている。


 ふと、玲の部屋の奥に目を向ければ、すでに布団が敷いてあった。

 あの部屋で、ふたりきりで、襖をぴったり閉じて、明かりを消して、なにをしていたのだろうか。


「ずいぶん遅うなったなあ、十八の小娘のくせして。玲、注意したほうがええんとちゃうか。ほんまに帰省やったん? 男と旅行? 相手は類か」

「違います。私はちゃんと実家に」

「むきになるとこが、ますますあやしいで」

「しょ、祥子さんこそ、どうして玲の部屋に」


 さくらせいいっぱいのその質問には、答えてくれなかった。


「送ってくる。祥子、帰るぞ」

「ほなな、追加ちゃん。おやすみ」


 すらりとした祥子の背中。

 やっぱり、下着をまったくつけていないように思えて仕方がない。蒸し暑い夜、近所の親戚の家とはいえ、道徳的にどうなのか。玲を誘惑するためにわざと、なのだろうか?


 ……疲れた頭で考えても、仕方がない。さくらは荷を解きはじめた。


 やがて十分ほどすると、玲が帰ってきた。


「おかえりなさい、玲」


 努めてさくらは、なにもなかったかのように声をかけた。


「本は」

「ほ、本?」

「お前に頼んだ本だよ。マンションの部屋から、持って来てくれって」

「重かったから、ほかのものと宅配の荷物の中に入れちゃった。今は持っていないの。ごめん、急ぎだった? 明日には、届くはずだけど」

「お前、使えないな」


 あまりの言われように、さすがのさくらも我慢がならず、頭にきた。


「急ぐなら、急ぎだって先に言ってよ! こっちは、連日マンションの片づけで大変だったんだから。自分が散らかしたわけじゃないのにさ」

「労働の対価、もらっていたんだろ? なら、つべこべ文句垂れるな。どうせ、類に甘やかされて、身体を許してべたべただったんだろうに」

「類くん、仕事だった。家には、いなかった!」

「じゃ、その首筋の赤い痕、なに? まさか、ほかの男とか。やるね、大学生のさくらさんは進んでいるな」


 さくらは首もとを押さえた。

 橋本といるときはスカーフを巻いて隠していたのだが、家に帰ってきて取ってしまった。さくらは気まずくて、視線を落とした。


「き、金曜の夜に、東京駅のホームで類くんに少しだけ逢ったの。でも、ほんの十五分ぐらいだよ」

「東京駅? 駅で痕が残るほどの首キスか。あいつも、自分が有名人だっていう認識薄過ぎ。こんな普通の女の、どこがいいんだか」

「類くんの悪口、言わないで。そんな玲、嫌いだよ。私が油断しただけ。玲こそ、祥子さんと部屋に籠もってなにしていたのよ?」

「俺のことはいい。今は、お前の話だ。人前でいやらしいことをする妹弟なんて、いらない。出直してこい」

「れ、玲のばか! 私の家はここしかないのに。私の話を聞いてくれない玲なんて、もう知らない。祥子さんと、くっつけば?」

「本気か」

「う……うん!」


 玲はあからさまにため息をついた。


「今日、俺は休みだったんだ。祥子が持ってきた、西陣織のビデオを部屋で観ていたんだ。ここにはあるけど、高幡家にはブルーレイだけでビデオデッキがないし。古い記録だから、明かりを消してじっくり見たほうがいいってことで」

「お布団敷いて、ふたりでビデオ? おかしいよ、玲」

「人のこと、非難できる立場か。なんで駅でキスマークつけられるんだよ、非常識女が。お前のこと、信じられないよ。今日はもう寝ろ」


 さくらは逆上した。感情をおさえられなかった。


「いや。もう、なにもかも、いや! 私の言うことを聞いてくれない玲も、わがままで強引な類くんも、玲を誘惑する祥子さんも、追加追加とばかにしてくるクラスメイトも、みんなみんな、いや! 玲、忘れたい。全部、忘れさせて。類くんが来る前に早く、私は玲のものになりたい。自信がないの。玲を好きなのに、いちいち動揺してしまう自分がいやで仕方ないの」


 さくらは自分の服を脱ぎ捨てながら、玲にしがみついた。布団の上になだれ込む。さくらは目を閉じる。


 玲が抱いてくれるのを、じっと待った。


「玲、お願い。今夜、ずっとそばにいて」

「いつも一緒だ。くだらないことばかり考えていないで、シャワーでも浴びて来い。お前の身体、汗でべとべと。他の男のキスマークをつけているし、その身体で抱いてとか、都合よすぎる」

「どうして。父さまとの誓約書があるから? 類くんがここに来てしまう前に、しっかり玲のものになりたいだけなのに。どうして分かってくれないの?」

「お前のことを大切にしたいっていう俺の気持ちも、理解しろよ。鈍感もいいかげんにしろ。心が据わっていれば、類なんかどうってことはない」


 さくらは、玲の部屋から蹴り出されてしまった。

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