第17話 攻撃は最大の防御なんて、誰が言った?②

***


 その金曜の午後、さくらは急いで町家へ帰ろうとしていると、橋本が声をかけてきた。


「柴崎さーん。これから時間、ある?」

「ごめん。このあと、東京へ帰る用事があって」

「東京へ、帰る? ずいぶん、急だね」

「そうなの」


 柴崎家にとっては不名誉になりそうな部屋掃除の件は伏せ、家庭教師で使う教材のことを話して聞かせた。


「教科書か。実際に、自分が使っていたもののほうがよさそうだね」

「でしょ? ほとんどの教科で、教え子と同じなの。でも、高校一年のときのものだから、自分が行って探さないと、どこになるか分からないと思うんだよね。うちの親、ふたりとも働いているし、任せられなくて」

「……き、奇遇だね!」


 震えるような声で、橋本がつぶやいた。


「実は、おれもこの週末、じ、実家に戻るんだ!」

「橋本くんも帰省? 奇遇」

「うん。新幹線の切符、もう買っちゃった?」

「まだだよ」


 学校が終わってからの出発時間が微妙だったので、切符は当日買うことにしていた。


「じゃ、柴崎さんが迷惑じゃなかったら、一緒に行っても……いいかな」

「もちろんだよ。道連れがいるなんて、うれしい!」


 ふたりは、五時半に京都駅の南北自由通路で待ち合わせることにした。

 長旅の相棒が見つかったと、さくらは心を躍らせて自転車に乗ったけれど、鴨川を渡りかけたとき、ふと思い出したことがあった。


「あれ、橋本くん。週末はほとんどアルバイトの日々だって言っていたけど、今週は特別にお休みだったのかな」


***


 さくらは町家に戻ると、教科書やノートの入った通学バッグと交換するかのように、帰宅用に詰めた荷物一式をかかえ、出発した。


 家に鍵をかけながら、さくらは玲の仕事場に寄るかどうか考えた。

 東京へ戻ることは伝えてある。数日間、さくらがいなくても玲は普通に生活するだろうが、しばらく逢えなくなる。顔を眺めておきたかった。


 しかし。

 ふらふらと工場へと向かいかけた足を、止める。今も、玲は仕事なのだ。命がけといってもいい。

 わずかながら、『部屋から持って来てほしい本』を玲から頼まれている。逢いたい気持ちを我慢し、さくらは工場のほうに向かって『いってきます』の礼をした。


 実家へのおみやげと夕食のお弁当を買って乗ろう、と思っていたので少し早めに京都駅に向けて出発。

 さくらが着いて間もなく、橋本も駅へ到着した。


「なんか、息が切れているよ?」


 橋本は何度も肩を上下させて息をしている。つらそうだ。


「こ、これ? なんでもないよ、なんでも! 荷造りが全然できていなかったから、焦っちゃってさ! 金曜日なんてまだまだだよねと軽く考えていたら、もう金曜だった、なんて。あははっ」

「急がせちゃったみたいで、ごめん。私、帰るなら、早く帰りたくて。待ち合わせ、もっと遅い時間のほうがよかったね」


 新幹線に六時。

 八時過ぎに東京駅。

 九時には自宅マンションへ着けるだろうが、両親の帰宅時間までには、部屋を少しでも片づけておきたい。軽い夕食を準備して、お風呂も沸かして……おそるべし、主婦思考。


「そんなことないさ。全然、とにかく気にしなくていいから! なんか買う? 最初に切符か!」


 ふたりは切符、おみやげ、お弁当の順に買い、新幹線に乗り込んだ。


***


 車内は混んでいた。

 ふたり掛けの指定席が並んで空いていたのは、運がよかった。


「夜って、暗くて眺めもないから、新幹線は味気ないんだよね。橋本くんがいてくれて、よかった。さっそく、お弁当を食べようよ!」


 さくらは浮き浮きしながら、お茶をひとくち飲んでから包みを開く。


「柴崎さんて、おもしろいね。サークルとか、どこか入らないの? よく、誘われているよね」


 確かに、昼休みや大学の構内で、勧誘の声はよくかけられるが、いつも断っている。


「今は、生活にいっぱいいっぱいで、無理かな。きついんだよね。時間的にも、金銭的にも。家庭教師に慣れたらもうひとつ、アルバイトを増やしたいぐらい。そういう橋本くんは?」


「おれも、授業とアルバイトの二本立て」


 クラスメイトのこと、学科のこと、京都のこと、アルバイトのこと。さくらはたくさん喋った。追加で、余所者。クラスにはなじめていない。意識してはだめだと分かっていても、どうしても縛られてしまう。

 家に帰れば、いつも不機嫌そうで疲れている玲には話せない。

 気のいい橋本相手に、ついつい愚痴をこぼしてしまう。


 二時間はあっという間だった。


 品川駅を過ぎ、降りる支度を整えていたとき、メールが入った。

 表示されている名前を見て、うわあっと思う。叫びそうになった。


『さくらねえさん、東京駅には着いた? 何番線何号車? ぼくも今、新幹線のホームにいるんだけど、いつまで待たせるつもりなの』


 この口調、いつもの類。

 動揺しながらも、さくらはメールを返した。今日は授業が終わったあとに帰る、と両親には言ってあったはずだが、類までさくらの帰省を知っているとは意外だった。


「家族が迎えに来ているみたい。駅のホームに」


 さくらは橋本に告げた。

 できたら、類を橋本に会わせたくない。どうしよう。


「ホームにまで、お迎え? お嬢さまなんだね、柴崎さん」

「うーん。ちょっと、違うな。ただの心配性というか……」


 新幹線が東京駅のホーム滑り込む。

 東京特有の、焦燥にあふれたごちゃごちゃ感と熱気。しかし、嫌いではない。とても久しぶりに感じた。


「ねえ。となりのメガネくん。連れなの?」


 さくらが感慨にひたっていると、後方からいきなり荷物を奪われた。

 背の高い、サングラスをかけた若い男子。黒の細身パンツとショートブーツがめちゃめちゃ似合っている。

 でも、きれいなお顔の表情は険しい。少し、いや……だいぶ不機嫌そうだ。これは、まずい。


「る……類くん、ただいま。お迎え、ありがとう」

「誰が迎えだって? あのねえぼく、これから仕事なの。見て、分からないかな。すれ違っちゃうから、せめて東京駅で逢えるかなと思って。ほんのわずかな時間でも、逢いたかったの。健気でしょ、ぼく。はい、改札まで荷物を運んであげるから。それぐらいはいいよね、片倉(かたくら)さん?」


 よく見ると、類はひとりではなかった。三十歳ほどの男性と一緒である。

 若いときになにかのスポーツをしていたようで、肩幅が広くがっちりとしていて、体格がよい。たぶん、ラグビーかアメフトあたりだろう。

 片倉、と呼ばれたその人は、さくらに向かって丁寧に頭を下げた。


「初めまして、さくらさん。ルイのマネージャー兼ボディーガードの片倉です。お話は、いつもルイからよく聞いています」

「こちらこそ初めまして。柴崎さくらです。類くんのサポート、いつもありがとうございます。わがままばかりで申し訳ありません」

「そんなつまらない挨拶、いいから。で、このメガネくんは、なに?」


 類に指を差された橋本は、なにがなんだかさっぱりといった感じで口をぽかんを開けている。

 さくらはあわててフォローした。


「橋本くんだよ。大学の同級生。同じ学科なの。ちょうど帰省するっていうから、一緒に帰ってきたところ。実家、相模原なんだって」

「は、橋本譲です!」

「ふーん。あっそ」


 疑いの眼差しのまま、腕組みをした類は橋本をじろじろと見下した。類のほうが十センチ以上、背が高い。


「相模原なら、新横浜で降りたほうが近いんじゃないのかな。さくらねえさんにくっついて東京駅まで来るなんて、変なの! ストーカー?」

「ちょっと、類くん。えーと、これは弟の類くん。口が悪いんだけど、根はやさしい子だから。ごめんね」


 弁解していると、なんだか聡子の気持ちがよく分かる気がした。


「なんだ、弟くんか。柴崎さん、さっき『家族』って言っていたね。結婚前提の、彼氏かと思ったよ!」

「ねえ。勝手に安心しているようだけど、はっきり言っておいてあげる」


 橋本は胸を撫で下ろしたが、類の衝撃告白が続く。


「ぼくは、さくらねえさんの弟。でも、義理の弟だから。親が再婚して形は姉弟になったけど、血はつながっていない。ぼくはさくらねえさんのこと、女として大好き。よろしく、橋本サン」


 そう宣言しながら、類はサングラスを外した。その整った顔には、橋本にも見覚えがあったらしい。


「ききき、北澤、ルイ!」

「本名は、柴崎類。さくらねえさんの、いっこ下。もうひとつ言っておくけど、さくらねえさんはぼくのもの、誰にも渡せない。すでに、たっぷりと粉をふりかけてあるし。さ、行こうか」

「類くんは、これからどこへ行くの?」

「撮影。伊豆だっけ? 早朝から、はじめたいんだってさ。朝が早くなかったら、今日はさくらねえさんと楽しい夜を過ごせたのになあ。せっかく逢えたのに、もうさようならなんて、つらいよぼく。そうだ、さくらねえさんも、これから一緒に行かない? ねえ片倉さん、さくらねえさんも連れて行っていい? 部屋は、ぼくと一緒でいいからさ」


 類はとんでもないわがままを言った。


「今夜は無理だ。さくらさんも、長距離の移動でおつかれだろう。明後日の午後には終わる。……人が集まってきた。もう、乗ろう。さくらさん、ルイをお預かります」

「よろしくお願いします。帰宅は明後日だね。類くん、うちで待っているよ。少しだけでも、京都行きの荷造りを手伝う」

「はー。やっぱり、さくらねえさんは最高。早く、また同じうちに住みたいよ」

「お仕事、がんばってね」


 迎えられたはずが、さくらは見送る立場になってしまった。手を振る。

 類はうらめしそうに、こだまへ乗り込んだが、突然こちらを振り返った。


「だめだ。我慢できない。離れたくない!」


 類は、さくらの腕を強く引いた。


 抱き締めてホームから引っ張り上げ、新幹線のデッキに乗せてしまう。

 無情にも閉まる扉。

 ホームに取り残された橋本の、驚く顔。



 せっかく東京に着いたのに、さくらは再び新幹線の乗客になってしまった。

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