第10話 旅行って、テンション上がる⤴⤴②-2

「あの、前から聞きたかったんですが、聡子さんは父さまのどこを好きになったんですか?」

「涼一さんの?」

「こういってはなんですが、父さまは普通の人ですから。聡子さんはパワーもオーラも全開ですし、平凡な父さまにはもったいないなって」

「さくらちゃんてば、かわいい。そんなことを気にかけていたのね」


 聡子はさくらの頬を撫でた。


「大切なことです。私は父さまのよさを知っていますが、聡子さんはどうなのか」

「私は見かけも仕事も派手だし、それなりに成功してきたつもりだから、言い寄られることも多かったけど、私を見てくれる人っていなかったのよ、最近は」


 よく分かる。聡子をつかまえれば、間違いなく贅沢できる。


「でも、涼一さんは違った。私を、ひとりの女性として扱ってくれたの。というか、まるで女の子扱い。重い物を持ってくれたり、ドアを開けて先に通してくれたり、人混みではさりげなく手をつないでくれたし、なによりもいつも笑顔と、あたたかいことばを私にをくれたの。どう、少女漫画みたいでしょ」

「父さまが、そんなことを」


 小さなことでも、うれしくなる気持ちはよく分かる。けれど、聞いているこちらが気恥ずかしくなる。たぶん、涼一は素なのだ。娘のさくらにするように、聡子にも接していたに違いない。


「ときめきって大切。見た目は普通でも、私には涼一さんが王子さまに見えた。今でも、そう。私、若いときに親の言いなりで結婚して子どもを生んだから、そういう感情に疎くて。涼一さんに教えてもらったことが、たくさんある。きっとこれからも、涼一さんにときめく」


 父が王子さまだなんて、買い被りもいいところ。さくらが黙ってしまったので、聡子はあわてた。


「さくらちゃんの大切な父親に、ほかの女がときめくなんて許せない? ごめんなさいね、気を悪くしないで」

「い、いいえ。そういう意味ではありません。父さま、しあわせだなあって。聡子さんのような綺麗な人を、お嫁さんにできたんですから。私、うれしくて。聡子さんのおかげで、玲や類くんとも出逢えたし。これ、お世辞とかじゃなくて本心ですから」


 必死にさくらがフォローするのを見て、聡子は肩まで湯につかった。


「……無理、しないでね。私たちの存在が、あなたの平常心をかき乱している認識はあるの。なにかあったら、すぐに教えてちょうだい。遠慮はなしよ」

「はい」

「もう、かわいい。さくらちゃん、かわいい!」


 さくらは聡子に抱き締められた。少しくすぐったいけれど、そのままにした。とてもあたたかい。

 お母さんって、こんな感じなのかな。ちょっと困ったお母さんだけど。



「母さーん、さくらねえさーん! いる?」


 男湯のほうから、類の声が聞こえた。

 男女の露天風呂は背の高い竹垣で仕切られているが、わりと近いようで、はっきりと聞き取れた。


「類なの?」


 聡子が声に答えた。


「うん、ぼくだよ。さくらねえさん、お風呂はどう?」

「とってもいいお湯だよー」

「母さん、さくらねえさんの身体、きれい? 何点?」


 類は大声で核心に迫る質問をした。


「今、ちょうどだっこしているんだけど、お肌すべすべだし、もちろん百点よ! 誰かに揉んでもらえば、もっと大きくなりそうな胸の形! おいしそう!」

「お、いいねえ! 楽しみだねー。今夜から、ぼくががっちり揉んであげる!」

「うわあ、積極的」

「や、やめて。そんなこと言わないでくださいっ」


 胸の小ささなんて、とっくに知っているくせに。類には痕が残るほど噛まれた過去がある。さくらは恨めしくなった。


「聡子、やめてくれー。娘が不憫だよ。こっちは、そろそろ上がるぞー。あついー」


 ざばーん、と大きな湯音が聞こえた。ふたりは上がっていったようだった。


「そういえば、あなたの胸のところ。傷があるのね、どうしたの?」


 なるべくタオルで隠しながら入浴していたのだが、気がつかれてしまった。身体があたたまったので肌が上気したぶん、目立ってしまったのかもしれない。


 さくらの身体には、傷がある。昨年の終わり。類に、噛まれた。玲への思いを棄て、類を受け入れようとしたときにつけられた傷。自分を言い繕ってごまかし、流されてしまいそうになった反省のしるしだと、今では考えている。

 結局ふたりは最後のラインを越えずに朝を迎えたのだが、忘れられない一夜。

 さくらは、黒歴史と呼んでいる。


 自分で自分を傷つけようにも、こんな場所では不自然だ。かといって、事実を打ち明けるのも今さら過ぎる。


「これは、その。ちょっと」

「そっか。いいのよ、訳ありなのね。ごめんなさい」


 さくらの渋った様子から、事情を察した聡子がさくらのことばをさえぎった。


「さ、私たちも出ましょ。着替えて、夕食!」


 なにも聞かなかったように、聡子は振る舞った。


 風呂上がり、さくらは浴衣を着た。聡子が着ているのと同じ、明るい灰色の浴衣だが、髪を乾かし終えると聡子がきれいに結ってくれた。手先も器用である。

 全知全能な女性がよくも涼一の妻になってくれたものだと、さくらは感謝した。


「でも、家事はまったくできないから。今、マンションの中が荒れていて。さくらちゃん、連休の残りで東京に戻れない? 家事まで、手が回らないの。類が京都に行きたがっているのは、うちが汚部屋なせいもあると思う。一度さくらちゃんが片づけてくれたら、お掃除業者でも頼むわ。今のままでは、ちょっと無理。『北澤ルイの実家は汚部屋(笑)』だなんて噂が流れたら、人気に響くもの。家事上手なさくらちゃんと玲が抜けた途端に汚部屋なんて、申し訳ないんだけど」

「予定を確認してみます。なるべく早いほうが、いいですよね」

「あとで交通費、渡すわね。アルバイト代も乗せて」

「自分の家を片づけるのに、賃金はいただけません」

「これは、ビジネス契約。対価が発生するのは当然」


 どんなに汚れているのだろうかと、想像したさくらは背筋が寒くなった。せっかく、お風呂であたたまったというのに。


 脱衣所を出て部屋へ戻ろうとすると、休憩スペースで類と涼一に出くわした。


「さくらねえさんの浴衣姿、かわいい。悶絶しそう」


 荒い息で類が抱きついてくる。


「類くんだって、つややか。浴衣姿が素敵」

「ありがと。でも着丈が短いのしかなくて。ぼくにはLサイズでも小さいよ」


 そう言われてみると、袖もやや短いし、脚も脛が見え隠れしている。


「背が高いからね、類くん。特に脚が長いし」

「だよね。それにしてもはあ、さくらねえさんのいい香り。このまま、押し倒したい。ぼくたち、これから部屋で睦み合うので、夕食には遅れて行きます!」

「ほらほら、そのへんで。髪もいい感じだね」


 涼一がふたりを引き離した。さくらの髪を見ている。


「お母さんに、結ってもらった」

「お、いいねえ。親子だね」

「いいでしょ。実は、髪の長い女子社員を練習台にしたのよ」


 幼いころ、同じクラスの女の子が髪をきれいに編み込みしているのを見て、ずっと憧れていた。朝、忙しい時間を縫って母親が結ってくれているのだろうと、羨ましかった。自分ではうまくできないし、涼一には頼めない。十八歳になって、実現するとは思ってもみなかった。


「ふたりは、ここでなにをしていたの?」


 湯上り用に、麦茶と牛乳が用意してあったので、身体を冷ましがてら休憩していたのだという。


「オトーサンってば、牛乳一本一気飲みしてさ。これから夕食なのに」

「そういう類くんだって、飲んだじゃないか。私のほうが一秒早かった」

「いや、同じだった。絶対、同時!」

「なに? 負けを認めないとでも」

「もう一回、やってもいいけど?」

「なに、まだいけるのか」


 どうやら、本気で牛乳の一気飲み対決をしていたようだ。聡子があきれている。


「夕食前にやめなさい。小学生みたいよ、ふたりとも」

「だってさ、オトーサンってずるいんだよ。ぼくが牛乳ビンのキャップを取るのに手間取っていたら、さっさと飲みはじめるし。キャップ慣れなんて、ずるいよね」

「昭和世代をバカにするな! 牛乳を、パックのストローで、ちゅーちゅーちまちま飲むなんて、邪道だ。牛乳は、ビンの姿でこそうつくしい! 見ろ、この無駄のないフォルム、ガラスの分厚い飲み口。はははっ」


 これが、類ではなく玲だったら、きっとこんなばかげた対決はしない。はじめから牛乳は選ばない。紙コップに麦茶を半分以下、それで終わる。

 涼一は類と気が合うらしく、やけに楽しそうだ。童心に帰っている。

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