第9話 旅行って、テンション上がる⤴⤴②-1

 玲はまだ、到着していなかった。約束の時間を二時間、過ぎている。


「さくらちゃん、一緒にお風呂入りに行きましょ!」


 部屋に入るなり、浴衣姿の聡子に誘われた。紺色の浴衣地に、紅の帯が粋で似合っている。


「だめ。さくらねえさんと入るのは、ぼく」

「類は男の子だからだめよ」

「部屋に、あるじゃん、露天風呂。あれ!」

「明るいうちに、大浴場へ行くの。眺めがとっても素敵なんですって。川の流れ。新緑」

「ぼくだって、この旅行はさくらねえさんと混浴するために来たんだよ? 好きな子といちゃいちゃ露天風呂、ずっとずうっと夢だったんだから!」

「あなたは十七なんだから、これからもチャンスがどっさり山ほどあるわよ。それより、ねえねえ行きましょ、女の子どうし!」

「はい。喜んで」


 間髪入れずに、さくらは笑顔で即答した。


「ちぇっ。さくらねえさんまで。誰が女の子だっての、若作りのおばさんがさー」

「類くんは私が預かるよ。うつくしい肢体を拝んで、武勇伝の数々を聞かせてもらおうか」


 涼一がフォローを入れてくれた。 


「仕方ないなあ。でも、オトーサンに誇れるような武勇伝なんて、ぼくにはないけど?」


 そう言って、類はその場で服を、ばさばさと脱ぎはじめる。


「きゃあああー! 類くん、やめて!」


 さくらは悲鳴を上げて顔を背けたが、モデルをしているせいか、人前で着替えることに対し、まるで羞恥がないらしい。


「裸になっただけで、なに純情ぶってんのさ。血のつながっていない男と、同棲しているくせに。それとも喜んでいるのかな?」

「さ、聡子さん、ははは、早く行きましょう!」


 さくらは着替えの浴衣をかかえ、急いで廊下に出た。


***


 大浴場は、明るくて広い。開放感たっぷり。遠くから、鳥のさえずりも聞こえる。


 思いっきり走って、ざぶんとお風呂に飛び込みたいところだけれど、もう大学生なのだ。すぐそばに聡子もいるのだし、おしとやかに入った。


「……お母さん、おきれいですね」


 薄々は感じていた。肌がきめ細かいし、スタイルもよい。あの玲と類の母親なのだ、うつくしいのは当然としても、体型も保っているのは驚嘆に値する。自分が聡子と同じ三十五歳になったとき、どうなっているだろうか。

 ……想像も、つかない。


「若いさくらちゃんに比べたら、おばさんよ。おばさん」


 聞けば、聡子の独断で社員は男女問わず、子会社のエステで格安に施術が受けられるらしい。


「歳を取るのは自然なことだけど、見苦しいと営業成績にも関わるからね」

「さすがです」


 女手で、きょうだいふたりを育てながら、会社を経営してゆくには語りつくせないほど苦労があったはず。なのに、負の部分をまるで感じさせない気丈な聡子を、さくらは尊敬している。


「で、現状では、どっちがリードしているの? それとも、大学でいい出会いがあった? このモテモテちゃん。いいなあ、青春まっしぐら!」


 聡子は、さくらの横胸を肘でつついた。


「どっち……って。別に、そんな。競争しているわけじゃありませんし」

「玲と一緒に京都へ行くって、さくらちゃんに言われたとき、涼一さんは怒っていたでしょ。そうよね、大切なひとり娘ですものね。でも、私は正直うれしかったの。玲を、好きになってくれた女の子がいるって。でもねえ、類までさくらちゃんを追いかけるようなことになるなんて」

「類くんのニュース、見ましたか」

「ええ。前から、話し合っていたことなの。類は軽そうに見えて、意外と勉強もできるし、なにより世間を知っている。それなりの学歴がないと、将来が難しいことも。案外、若いうちに、モデルは引退するつもりなんじゃないかしら。あと、数年で」

「数年なんて。もったいない」

「惜しまれつつ、若くして引退。伝説のモデルになるでしょうね。突き放しているような言い方かもしれないけれど、好きなようにすればいい。類の人生だもの。玲もね、高卒で職人、結構結構。ふたりとも、他人をあまり傷つけないようにしてほしいものだけど。ずいぶん振り回されているでしょ、さくらちゃんは」

「でも、縁あってきょうだいですし。できれば、楽しく過ごしたいなって」

「いいこちゃんねえ、あなたは。うちの会社に内定を出しておくから、京都でしっかり勉強して東京へ帰ってきて。あなたの素直さと熱意、有名大学の肩書を持っていれば、親のコネだなんて誰も言わない」


 聡子の笑顔に同意して頷きかけたものの、さくらはふと、動きを止めた。


 自分は、東京へ帰るのだろうか?


 さくらとしては、玲のそばにいたい。玲は京都に住み続けるだろう。となると、さくらも玲を置いて帰ることなどできそうにない。

 玲や類には好きなように、と言っておきながら、さくらのことは決めてしまうつもりなのだろうか。


「ありがとうございます。とてもうれしいです。でも私、わがままかもしれませんが、大学の四年間、自分に向き合って生き方を決めたいんです。誰を選ぶのか、誰も選ばないのかも含めて」

「まあ、オトナね。しっかりしている。ふたりともキープ、二股エンドだって別にいいのに」

「聡子さんは、類くんを応援しているんですね」

「あら、分かっちゃった?」


 聡子は高らかに笑った。少女みたいだ。


 露天の風呂に、風が渡る。少し、ほてりはじめた頬をやさしく撫でた。


 次第に、闇を織りなしてゆく夕刻。ほのかな明かりが、幻想的に灯りはじめる。


「私は、玲を追いかけるために京都を選びました。このまま、残るつもりで。なのに聡子さん、東京へ戻ってきてとか、キープで二股とか、正直困ります」

「下の子には甘いって自分でも思うけれど、類のほうが難産で育てるのに苦労して。長男の玲は、私がいなくても自分のことをさっさとできるようになったし、独立したでしょ。でも類は容姿がいいせいで、周囲にちやほやされて、だらしない男に育ってしまった。笑顔でお願いすれば、なんでも思い通りになると信じている。真面目なさくらちゃんが類を操作してくれると助かるんだけど、年下は圏外?」

「年齢は、関係ありません。類くん、世馴れしていて、私よりずっとおとなです」

「頭でっかちなのよ、類。見た目がいいから、すぐに女の子が寄って来るし。選びたい放題なんだけど、業界の人は油断ならない。できるだけ早く、一般の子と身を固めさせたいの。さくらちゃん、将来は類と私の会社のことをお願い。玲のことを思ってくれているのはうれしいけれど、あの子はひとりでもきっとだいじょうぶ。いずれは類をよろしく」

「そんな」

「それとも、玲の身体がないと、切ない? あの子、そんなにいいのかしら。女の子を喜ばせることなら、類のほうがたぶん何倍も上手よ」

「聡子さんは誤解しています。私たち、そんな仲ではありません。手しか、つないだことありません。父さまとも、約束しましたし。町家ではしっかり、兄と妹です」

「えっ。あなたたち、まさか。清い仲?」


 さくらは、そうだそうだと何度も頷いた。聡子は目を丸くした。


「信じられない。こんなにかわいい恋人と同居して、なにもしてないなんて、酔狂。私には、玲が理解できない。若い男の欲望をどうやって処理しているのかしら。涼一さんとの約束をまじめに守っているなんて」

「玲は、忙しくて。私に構っている暇はないんです」

「あなたのために、少しでも早く一人前になって、結婚したいからじゃない? このままでは、類に負けてしまう。容姿も、収入も、地位も、名声も、そして学歴もね。きょうだい揃ってふたりとも、負けず嫌いだから」


 そんなふうに考えたことは一度もなかった。

 玲が、自分のために焦って修業している? 類に、負けないために?


「考えます。玲のことも、類くんのことも。将来のことも。困ったら、相談に乗ってください。でも、お母さんは類くんの味方か」

「もちろん、聞くわよ。母親だもの。七月から類の同居、よろしくね。三人にとって、いいことだと思っている。逃げないで、真正面からぶつかりなさい」

「はい」

「しかしまあ、意外だったわね。玲が、さくらちゃんに迫っていないなんて。あなたもそれでよく、ついて行く気になったのね。聞き分けのいい妹を演じるの、疲れない?」

「少し。でも、だいじょうぶ。時間はあります」

「類にも、逆転のチャンスはまだまだありそうね。あの子は情熱的だから、覚悟しておいて」


 聡子はうれしそうだ。狙った獲物にはまだ瑕がついていなかったのだ、類をけしかけてくるかもしれない。


 さくらはいよいよ耐えなければならない。

 玲とはもうずっと深い仲で、他人の割り込む隙はないほどにらぶらぶなんですよとおおげさに言って、牽制したほうがよかったかもしれないと、今ごろになって気がついた。

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