第8話 旅行って、テンション上がる⤴①-3
やがて電車は、地上に出た。春の陽射しと新緑が、いっぱいに広がる。
「ね、きれいだね類くん! 類くんも見て見て、外の景色! ちょっと京都の中心を離れただけなのに、こんなに緑が豊かなんて。窓を開けたら届きそうだよ。ねえ、類くん?」
さくらは、類にぱしっと額をやさしくはたかれた。
「さくらねえさん、はしゃぎすぎ。ぼくの名前、連呼しないでくれる? 乗客に注目されているよ。まあ、注目を浴びたいなら別だけど」
そ……、そうだった。家の中と同じ調子ではいけなかった。乗客、特に若い女子がこちらを見て、ひそひそささやき合っている。完全に、北澤ルイとその彼女のらぶらぶお泊り旅行の図に映っているだろう。年上なのに、初めての家族旅行で浮かれていた。
「ご、ごめんなさい」
「素直に謝ったね。よし、いい子。でもさ、せっかくだから、観客の期待通りのこと、して見せてあげようよ。そうだ、いいもの持って来たんだ。目を閉じて」
「目を?」
「そう、いいから早くして」
さくらは渋々、類に従った。絶対になにかするつもりだ。さくらは身を固くした。
類は自分のバッグの中を探っている。そしてなにかを取り出した。
「少し動かないで。じっとしていて」
類の片手はさくらの顎の先をきゅっとつまんでとらえ、おさえた。もう片方の手が素早く動き、さくらの唇を強く拭う。
おとなしく目を閉じていられずに、さくらは目を開けて類の行動を間近で観察した。
拭った指に付着したグロスを、類はぺろりと舐め取った。あまりにも堂々としていて、反論ができない。
「なにかおかしいなって思ったら、やっぱりメイクだ。今、つけているこのグロス、さくらねえさんには似合っていないんだよ。てかてか光り過ぎなの。油っぽいものでも食べたのかっていうぐらいに、ぎとぎと」
そう言うと、類はさくらの唇にすいすいと口紅を差した。
「その口紅、どうしたの」
「ぼくが出ているコマーシャルで使っている、春夏の新作。さくらねえさんにいちばん似合いそうな色、もらってきたんだ。あげる」
ピンクシャンパンという名前の口紅だった。類が差し出してくれた鏡を覗く。淡い桜色のそれは、さくらの唇で華やかに発色していた。
「ほんとだ。きれい。もらっていいいの? ありがとう、うれしい」
「じゃ、改めて。『その唇に触れさせて』」
類は自分が出演しているコマーシャルで流れているセリフを言い、さくらを口説いた。
「だめ。ていうかもう、すでに何往復も触ったし」
「つれないなあ。お礼のキスぐらい、させてよね」
類はさくらの肩に腕を回し、さくらを抱きかかえるようにして寄り添った。車内で、悲鳴が上がった。
類はそれでも満足せず、さくらの耳朶に唇を近づけてふっと息を吹きかけた。そして、首筋に落ちる類の唇。
「好きだよ」
「やだ類くん、ちょっと」
信じられない。公共の場で、べたべたするなんて。さくらは身をよじった。
「離さないよ。離すものか。さくらねえさんが好きだよ、ぼくのもの。玲になんて、渡せない。ぼくがどんなにいい男か、分からせてあげる」
類は、『好き』と征服欲を間違えている。いくら口説いても乗って来ないさくらを服従させたいのと、兄の玲に対抗しているだけなのに。
「は、離して、類くん」
「いやだ。それより、さっきの話、どうかな。さくらねえさんが、ぼくの片腕である社長夫人になって、建築事務所も設立する案」
類は、さくらが住宅を建てる仕事に就きたいことを知っていた。とても魅力的な提案ではある。
けれど、さくらは玲と過ごすために京都へ来たのだ。好条件だかからといって、はいはいと乗り替えられるような話ではない。
「待って、待って。よく、考えさせて」
「そんなー。答えは、もう出ているも同然なのに」
もがけばもがくほど、類の力に押さえつけられてしまう。ここで騒ぎ立てれば、さらに注目されてしまう。
さくらは、類の腕に顔を埋めてじっと隠れるしかなかった。
***
阪急嵐山駅、到着。
さくらの荷物も持った類は、鼻歌で軽やかにさくらの肩を抱く。
「このまま、ふたりで逃げたい感じ。さくらねえさんも、そうだよね、ね、ね?」
「類くんと仲良くはなりたいよ。でも今は、家族で一緒にいたい」
「どこまでつれないの、さくらねえさんは。こんなの初めてだよ、ちっ。ぶつぶつ」
宿泊先のホテルには、大堰川(おおいがわ)の連絡船でしか行けないので、まずは船乗り場を目指す。
すれ違う人が、みんな見ている。見られている。
ときおり、『北澤ルイ?』『ルイくんだ』という声も、次々と挙がっている。ご機嫌の類は、たまに手を振って応えた。
「目立っているよ、類くんってば」
「気分がいいから、いいのいいの。プライベートで旅行なんて、いつ以来だろ? さ、手をつなごっか。ここが、渡月橋だね」
ガイドブックやテレビの旅番組などでもよく見る、木造の渡月橋。風光明媚な嵐山に溶け込むようにして川に架かるこの橋は、京都市郊外屈指の観光名所。
すっかり類のペースに乗せられてしまったさくらは、じっと我慢の子。誰か、助けてくださいと叫びたいぐらいに。
けれど、諦めて類の身体に頭を預けて目を閉じてしまうと、午後の陽射しがとても心地よかった。
「『も・う・す・ぐ、着きます』っと」
下船すると、すぐに類は母の聡子にメールを送った。
「お取込み中だったら困るからね、お互い。予防線を張っておかないと」
***
案内された部屋では、類の危惧したような事態は起きていなかった。ふたりは、テレビを見ながらくつろいでいる。
「父さま、聡子さん……じゃなかったお母さん、お久しぶりです」
「さくらちゃん、待っていたわよ。まあ、かわいい服。よく似合っているし。髪の色も、きれい!」
「ありがとうございます。服はここに来る前、類くんに買ってもらっちゃいました」
「あら、姉思い。さっすが、芸能人。玲のいないところで、ポイント稼ぎなんて狡猾」
母である聡子は、軽いノリでふたりを出迎えた。類は一瞬むっとしていたが、事実なので反論はしない。
「玲は、まだ?」
「少し遅れると電話があったよ。まあ、座れ。お茶でも飲むか」
「うん」
そう言われても、お茶を淹れるのはさくらの役目。聡子は家事全般において、やることなすこと壊滅的である。
お茶菓子もいただき、四人は脚を伸ばした。
「はあー。さくらねえさんのお茶は、おいしいねえ」
「ほんと。いい娘、持ったわあ」
類と聡子は、ほのぼのしている。並んでいると、ふたりの顔立ちはよく似ている。
「玲が遅いとなると、みんな揃ってのお墓参りは明日か」
宿泊場所を嵐山に選んだのには理由がある。きょうだいの父、聡子の前夫の墓があるからだ。一度みんなでお参りしたいという思いが実現する、はずだったのだが。
「玲がいないんじゃ、できないじゃん。墓参り」
類は立ち上がった。
「じゃあ、さくらねえさん。外、行こっか」
有無を言わせず、類はさくらを連れ出そうとする。
「玲が来たら、教えて」
両親にそう伝え、類は再び嵐山の町へさくらの手をつないで連れて出た。
夕方にさしかかり、人波は駅やバスなど、市内中心部に戻る交通機関のほうへと流れている。
「いいの? せっかく合流したのに」
「さくらねえさんは、どこまで鈍いの。ふたりきりにさせておくべきなんだよ、親。ぼくたち、じゃまなの」
なるほど、類なりの気遣いらしい。
「さくらねえさんが貸切り風呂に一緒してくれるなら、部屋を出なくてもよかったんだけど」
「遠慮します」
「即答か」
あてもなく嵐山の観光地を歩いているとさくらは感じていたが、類には目的地があったらしい。お菓子屋さんや雑貨屋さんを冷やかしつつも、足は確実にとある場所に向かっていた。
眼鏡に加えて帽子もかぶったせいか、類に向けられる歓声は激減した。
「このお寺」
以前、玲と来たことがある、きょうだいの父が眠る有名寺院。
類はふたり分の拝観料を払い、正門から入った。連休中とはいえ、そろそろ拝観時間は終わるため、境内には人がぐっと少なくなってきていた。
さくらは黙って類について歩いた。ぎこちない足取りで、類は奥に奥に進む。ますます人影はまばらになってゆく。
「こっちか。いや、向こうかな」
迷いながら進んでいるといったほうが、正しい。類の表情が、次第に険しくなってゆく。
「まさか、お父さんのお墓……探しているの? 私、場所は分かるよ」
「えっ!」
類らしからぬ、動揺ぶりだった。
「関係ないじゃん、さくらねえさんには」
部外者とでも言わんばかりのことばに、さくらの神経は逆上した。思わず、つながれた手を振りほどいてしまう。
「関係なく、ない。玲と、来たことがあるんだ。確か、こっちのほう」
にやにやと感心したふりをしながら、類は腕を組んでポーズを構えた。何気ないしぐさなのに、いちいち格好いい。ときめいてしまいそうになる自分を、さくらは怒っているふりをして、どうにかおさえる。
「ふーん。男女のやることは全然やらないで、地味に墓参りか。なんか、いかにも玲っぽい」
「悪口を言わないで。玲は玲で、私のことを思ってくれているよ」
「あっそ」
覚えている。忘れるはずがない。
初めてここへ来たとき、玲は自分に告白してくれたのだ。
さくらは、類を柴崎家の墓前まで案内した。新しい花が供えられており、つい最近に誰かが参ったものと思われる。
今日は玲が揃わなかったから諦めたものの、明日はきっとみんなで来るだろうはず墓前に、類は来た。
さくらは一歩下がり、墓に対面した類の背中を見つめる。
「ぼくは玲と違って、実の父のことをちっとも覚えていないんだ。たったの一歳違いなのに、なんなんだろうね、この差は。しかも、部外者のさくらねえさんでさえ、ここに来ていたなんて、屈辱じゃん。ねえ父さん、教えてよ。ぼく、どうしたらこの子のすべてを奪えるの? 色仕掛けも効かないし、脅したって言うことを聞かないし。ぼく、女に不自由したことはないし、自分から告白なんてしたこともないから、これ以上どうしたらいいのか分からない。さくらねえさんのことが、好きで好きでたまらないんだ」
しばしの沈黙、静寂。
閉門を告げる鐘が鳴ったが、類は動かない。
「……類くん、そろそろ戻ろう。私、玲のことも、類くんのことも好きだよ。気持ち、ありがとう。大切な家族だもの」
「さくらねえさんの好きと、ぼくの好きは意味が違う。ぼくは、さくらねえさんを、ぼくだけのものにしたいんだ。さくらねえさんが玲を思うのと同じように、いやそれ以上に、さくらねえさんが好き。京都進学を機に諦めようと思ったけれど、できなかった。ますます愛しているんだ」
やはり、類は玲への対抗意識から、さくらが好きだと主張していることに間違いはなかった。玲に負けたくない、その気持ちが強過ぎて、さくらを奪おうとしている。
「ごめん、類くん……」
類の手のひらが、さくらの頬に伸びてきたが、身を固くして類を拒否した。
「……辛気くさくなっちゃった。さ、戻ろうか」
ふたりはホテルへ着くまで、ひとことも喋らなかった。
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