第7話 旅行って、テンション上がる⤴①-2


 バッグから、吠えるように鳴る電話を取り上げてみると、玲からだった。さくらは横目で類を見ながら、何気ないふうを装って通話ボタンを押した。


『ようやくつながった。さくら、テレビだテレビ。民放の情報ニュース系の番組なら、チャンネルはどこでもいい。NHK以外だぞ』

「テレビ?」


 首を傾げつつ、さくらはリモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。

 黒い画面が映像に切り替わる。東京とは異なる、関西地方のチャンネル構造に慣れていないので、どの数字が映るのか、いつも指がうろうろとボタンをさがしてしまう。


『見たか?』


 玲の声を、遠くで聞いた。


 テレビには、画面いっぱいに、笑顔の北澤ルイが映っている。左上に、『大人気モデル・北澤ルイ、七月で活動休止』の文字がある。

 マスコミ各社に、活動休止の本日昼付けでファックスを送ったようで、大々的に取り上げられているが、理由は『個人的な事情により』としか明らかにされておらず、憶測が飛んでいる、とのこと。もしやこのまま引退か、なんていう声もあるらしい。


「なに、これ?」


 さくらは目の前にいる北澤ルイ、柴崎類に尋ねた。


「なにって。報道の通りだけど。モデル・北澤ルイは七月、十八歳の誕生日をもって、活動を大幅に縮小します」

「どうして。お仕事、すごく順調なのに」

「アイドルチックなモデルなんて、いつまでもやっていられないからね。半年休んだら、オトナモデルとして復活する予定。来春までの半年間は、オトーサンの会社のイメージキャラクター契約と、雑誌一本。ぼく、受験生だから」

「じゅけんせい?」


 ちゃぶ台の上に置かれているのは、勉強していたと思われるノートだった。類は高校進学をしていない。仕事を選んだのだ。その、類が受験とは。


「その顔。ぼくが受験したら、おかしいとでも?」

「ううん、そうじゃなくて」

「あー。高校も行っていないやつが、受かるわけないだろっていう、侮辱かあ。さくらねえさんのくせに、自分は超難関大学に通っているからって、学業に関しては上から目線なんだ」

「違うよ」

『おい。さくら、どうした。聞こえるか』


 受話器の向こうで、玲が怒鳴った。電話はつながったままだった。


「見た。見た、見たよ。類くん、しばらくお仕事をお休みして、大学を受験するんだって言っているよ。本人、うちに……いるんだけど」

『は?』

「今、類くんとテレビ見ているの。類くんのニュースを、本人と、一緒に」


 ぶちっと、電話が切れた。


「玲から?」

「うん。焦っていたよ」

「あいつ、進学しなかったからね。弟のぼくが高学歴を身につけたら、高卒職人の玲は焦るだろうなー。ぼく、高校検定受けて、大学受験の資格を得るから。さくらねえさん、きみは一応いい大学に行っていることだし、ぼくに協力して。勉強、教えて」

「私にできることなら、するよ。もちろん。家族だし」

「よし、いいこと聞いた! 約束だからね、絶対」


***


 再び、がらがらと戸が開いた。作業着の玲だった。


「類!」


 工場から全力疾走してきたようで、息を切らしている。


「あー。久しぶり、玲」

「なにが久しぶりだ、この野郎。誰に、ものを言っているんだ」

「おお、怖。かわいい弟に向かって、そんな態度でいいの?」

「お前の、どこがかわいいって。人の留守中に、勝手に上がって。間男か! さくらもさくらだ、こんなケダモノを人の家に上げるな」

「うわー、ひどい言いぐさだなあ。ぼく、学業優秀なさくらねえさんに、勉強を教えてもらっていただけだよ、ねえ」


 笑顔でノートを指差す類に、さくらは言い返せない。


「早く帰れ」

「いやだよ。もう、決めたもん。さくらねえさんも全面協力したいみたいだからぼく、七月からここに住んで、受験勉強する」

「自分勝手な思いつきで、あれこれ発言するんじゃない。お前のわがままで、いったいどれだけの人が迷惑すると思っているんだ。帰れ、東京へ帰れ」

「わがままじゃないよ。ずっと、構想していたことだもん。母さんにも、聞いてごらんよ。『大学は受験する』。事務所との契約書にも、書いてあるはず。高校は面倒な行事や単位が多いけど、大学は自分のペースで通えるからね。モデルが続けられなくなったときも、学歴はあったほうがいい。薄給職人の玲は、高幡家の人間になる。となると、柴崎家の支えは、このぼく。いずれは、母さんの会社を継ぐ。いくら、会社社長が容姿端麗でも、中卒じゃ社員がついてこないのは、目に見えているし。だからモデルは、ひとつの経験に過ぎないよ。さくらねえさんは、建築士になりたいんだよね。ぼくが面倒を見てあげる。さくらねえさんが家を、ぼくが家具を」

「お前の考えは、すべて迷惑だ。この家は、俺とさくらの家。涼一さんとも約束した」

「『俺とさくらの家』だって、ぷっ。真顔でよく言うよ。ぼくも同じこと、約束したよ。ほら」


 類は、一枚の紙をぺらっと取り出した。赤黒い字が連なっている。


「誓約書」

「誓文か、果たし状かよ」


 赤黒い、と見えたのは血だった。類は涼一と血判状を交わしたのだ。しかも、全文がおどろおどろしい血文字。玲のときは、最後の捺印だけが血だった。類はその上を行っている。

 家の中では、さくらを姉と慕う。決して手を出さない、などの文言が書かれている。


「だから、ご近所さんにも七月からよろしくって、お菓子を配り済み。売れっ子モデルが住むんだから、口止め料に。このあたりに、北澤ルイが住んでいるって騒ぎになったら、ご近所さんも迷惑でしょ。さくらねえさん、いろいろとよろしくね。五月六月で身辺整理してくるから、待っていてよ、必ず。早まって、玲とあれこれいたしたら、だめだよ」


 切ない表情を浮かべ、類はさくらの手をぎゅっと握った。すぐに、玲が割って入る。


「バカバカしい」


 玲は、工場に帰ると言った。仕事が途中だったらしい。


「お蕎麦を茹でるから、玲も食べて行って。せっかく帰って来たのに」

「俺は、いい。適当に済ませる。俺の分、そいつに食べさせてやってくれ。さくらになにかしたら、再起不能なぐらい顔をぼこぼこにしてやるからな!」


 類は自分のニュースを見ながら、『やっぱり、ぼくって罪深いほどスタイル抜群だね☆』、などと自画自賛してうっとりしている。めでたい。


「三時に、嵐山だよ?」


 さくらは両親との約束を口にした。


「分かっている。早めに切り上げる、なるべく早めに。俺が遅くなるようなら、先に行ってくれ」


 玲は、振り向きもせずに仕事場に戻ってしまった。残念だけれど、仕方がない。今日明日の旅行のために、玲も時間をやりくりしているのだろうから、こういうイレギュラーが入ってしまっては、午後の予定に支障をきたしかねない。


「じゃ、お昼ごは……」

「さくらねえさんが欲しいなー?」

「あのね、類くん。この誓約書、どんな思いで作ったのか知らないけれど、さくらには手を出すなって書いてあるよ、はっきりと。いきなり破るわけ?」

「これは、七月からの約束。オトーサンのところにこれを持って行ったら、『七月』の部分で少しひっかかるものを感じていたみたいだけど、かわいい息子にまた血で痛い思いをさせて書き直しさせるのも、鬼でしょ。分かっていて、あえて見逃したんだよ。やさしいっていうか、詰めが甘いよね。さくらねえさんに似て」

「……類くん、知能犯」

「まあね。そんなに褒めないでくれる? 感じちゃう。喰わせてー」

「私は、食べられません。はい、お昼ごはんをどうぞ」

「なぜに躱すかな? ぼくなら、さくらねえさんの夢を一緒に追いかけてあげられるよ。玲みたいに、職人の妻で一生耐えろなんて言わない。家の設計、したいんだよね。自由にやらせてあげる」

「まあまあ、その話は、とりあえず食べたあとにでも」


 さくらは類を宥めすかし、なんとか昼食を終わらせると、荷物を持って出かけることにした。


「さくらねえさん、着替えないでその服で行くつもり?」

「うん。変かな?」

「変じゃないけど、北澤ルイの隣を歩くには、ちょっと地味」

「地味?」


 視線を落とし、自分の姿を眺めてみる。

 今、さくらが着ているのは、長袖のチェックのブラウスにチノパンである。新しくはないけれど、そんなにおかしな組み合わせではないと思う。しかし、類は不満らしい。


「でも、こっちに来てから、ショッピングどころじゃなくて。時間もお金もないし」

「そんなことだろうと思った。だめだよ、せっかく並よりかわいい顔をしているんだから、もっと着飾らないと。いちばん近いデパート、どこ? 服、買ってあげる」

「そんな。いいよ」

「遠慮してもらったら、ぼくが困るんだ。天下の北澤ルイと歩くなら、それなりの格好をしてもらわないと」


 類は携帯電話でタクシーを呼ぶと、四条烏丸のデパートで、春らしい明るいピンクのワンピースと色を揃えたサンダル、それに帽子とバッグ、アクセサリーなど小物まで買い与えた。すべてのアイテムを、ものの三十分で選び、カードを使いまくった。さくらは次々と試着させられ、着せかえ人形のようになっていた。


「うん、いいね。さっきよりもずっといい」


 類は満足そうに頷いた。


「ありがとう。でも、こんなに買ってもらって。なんだか、甘やかされた気分で申し訳ないんだけど」

「まあまあ、気にしない。さくらねえさんのために、稼いでいるみたいなもの。今日は時間がなかったから、ぼくの滞在中にもう一回、買いに行こう。夏物とか、必要でしょ? どうせ玲の少ない収入じゃ、さくらねえさんを着飾ることもできないんだから。ほら、笑って」


 四条通へ出ると、また車を拾おうとする。


「電車で行こう。連休の嵐山は、絶対に渋滞しているって。ケチとかじゃないよ?」


 さくらは、袖を引っ張って類を止めた。


「えー。電車?」


 公共交通機関だと、変装用の色つき眼鏡をかけていても類の存在はとても目立つので、好まないらしい。

 しかし、今日の類はご機嫌だった。


「ま、いいか。ぼくのかわいい彼女を見せびらかしながら、たまには電車に乗ってやるか」

「彼女じゃなくて、姉です。姉」

「まだそんなこと言っているの? さっきもデパートの女店員に、さんざん間違われたのに。『ルイくんの彼女はん?』『らぶらぶな恋人?』ってさ」


 烏丸駅から阪急電車に乗り、嵐山を目指す。途中、桂駅で乗り換えればよい。

 玲に、仕事は終わったのかとメールを送ったが、返事はなかった。


 連休中とはいえ、午後の昼下がり。各駅停車の電車はそれほど混んでいない。

 ふたりは一泊分の荷物を網棚に載せ、座席に並んで座った。


「父さまたち、もう着いているって」


 涼一からメールが入っていた。


「予定より早かったね。じゃ、ゆっくり行こうか」

「どうして」

「新婚だよ。なるべく、ふたりっきりにさせてやったほうがいいよ。ふだんは、仕事仕事で忙しいんだから。今回、親は子ども作る旅行でしょ」

「そ、そうか」


 傍若無人なようで、類はよく気がきく。

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