第6話 旅行って、テンション上がる⤴①-1
大学生活のリズムに少し慣れたかな、と思いはじめるころ、大型連休に入ってしまった。連休、とはいっても前半は引っ越しの荷物の整理で忙しく、ほとんどなにもできなかった。
玲はいつものように朝から遅くまで仕事。『一緒に出かけよう』の約束は宙に浮いたまま、果たされていない。
それでも、さくらが在宅していれば、お昼には一度帰宅してくれる。ふたりで質素な昼食を淡々と食べるだけ。たまに、祥子がおまけでついてきてしまうこともあるが、玲と過ごせる時間は貴重だった。
***
この日も、さくらは昼食の買い出しで、少し家を空けていた。
午後には、家族が京都入りし、みんなで郊外のホテルへ泊まりに行く予定である。まだ先のことだと考えていたら、あっという間に旅行当日だった。
夜はごちそうが待っている。お昼ごはんは、簡単に済ませるつもり。といっても、仕送りのない町家暮らしは、毎日ささやかな生活を強いられている。ぜいたくがしたいわけではないけれど、早くアルバイトを見つけなければ、さくらは思った。
「あれ?」
鍵を差し込んだら、手ごたえがなかった。がらがらと横に滑らせる戸が、簡単にするっと開いてしまう。
鍵をかけ忘れたようだ。まさか、さくらは焦った。きちんと施錠したのに。
こんなに明るい昼間から、しかも古い町家に誰も侵入しないとは思うけれど、薄気味悪い。
となると、残りのわずかな可能性に思いを馳せ、一気に戸を引く。
「玲、いるの?」
緊張したせいか、声がかすれて上ずってしまった。屋外から急に室内を見たので、目が眩んだ。
「玲?」
返事はなかった。でも、室内に、誰か、いる。顔をしかめながら、さくらは睨む。
なんか、こういうこと、前にもあったような……!
「おかえりなさい。どこに行っていたんだよ、もう! ぼくを待たせるなんて、承知しないよ」
留守にしたのは、ほんの三十分だったのに。
居間には、類がいた。
畳の上に長い脚を投げ出すようにして座り、ちゃぶ台にノートを散らかしている。勉強していたらしい。
濃紺のぴったりジーンズと、白い半袖のポロシャツ姿。肩には、モスグリーンのセーターをかけている。定番の組み合わせなのに、類が着こなすと気品さえ感じてしまう。自身がモデルをつとめている雑誌の中から、そのまま飛び出てきたかのように。
「類くんだったのか、なんだ……てか、鍵! どうやって開けたの?」
「なにをそんなに驚いているのさ。いつものことでしょ。玲じゃないから、がっかりしたとか? 今日、京都入りするって、前から言ってあったでしょ。久しぶりなのに、なんで留守なの?」
こちらの質問には、まったく答えてくれない。
「でも、両親たちと、午後に約束を」
類は、両親と一緒に京都へ来ると聞いていた。
「あの新婚どもと、行動できるわけないじゃん。年甲斐もなく、いちゃいちゃしちゃってさ、はーあ。目立っちゃうよ。親は予定通り、三時ごろホテルに到着するはず。ぼくだけ、先に来たの。さくらねえさんに早く逢いたかったから、仕事を徹夜で終わらせて……悪い?」
言われてみれば、類の目はうっすらと赤く充血している。ほんとうに、急いで来たらしい。
「ううん。全然、悪くないよ。休まなくて、だいじょうぶ?」
「……新幹線で、寝てきたし」
さくらが気遣うと、類は柄にもなく照れた。か、かわいい。
「ちょっと見ないうちに、類くんますます格好よくなったし。背も、また伸びたのかな」
「そう? さくらねえさんも、たまにはいいこと言うね。成長したじゃん。ぼくも逢いたかったよ。ご褒美、あげちゃおうかなー」
事実、類は魅力を増した気がする。不遜で傲慢な態度は変わらないけれど、いっそう自信が出てきて内から輝きを放っている。いつもは薄暗い町家の中が、類によって明るく照らし出されているのだ。
類はご機嫌である。手を伸ばしてさくらの頬、それから髪に触れた。
「メイク、するようになったんだ。髪も、少し染めたんだね。きれいな色だよ。似合っている」
髪のカラーリングについて、玲はなにも言ってくれなかった。気がついていないのかもしれない。類は、再会するなり認めてくれた。すぐに気づいて褒めてくれるところは、女子としてうれしい。
「ありがとう。京都をイメージした、ブラウンなんだって勧められて、気分転換に……それより、家の鍵。かかっていたよね。どうやって、中に入った?」
「こんな簡単な鍵、十秒で開けられるよ。十秒。ぼくにかかれば、鍵なんてつけてないも同様だったね」
「だめだよ、勝手なことしたら」
ピッキングの名手である類は、東京でもさくらの部屋にも幾度となく勝手に入って、人のベッドで寝たり、机の引き出しの中を荒らしたり、やりたい放題だった。
正直、またかという思いしか湧いてこない。
「だけど。ひと月逢えないだけで、ぼくがどんなに寂しかったか、分かっている? この、ぼくの貴重なお休み中、さくらねえさんには、とことん付き合ってもらうよ」
類は、じりっとさくらに身を寄せてきた。類の香水がさくらの嗅覚をくすぐり、吐息が頬にかかる。
わ、わざとだ。わざと。
あわてさせて、反応を楽しんでいるに違いない。相変わらずの悪趣味。
「あれ、耳……ピアス?」
類の両耳には、ピアスが光っている。
「ん。今ごろ、気がついたの? さては、今日発売の雑誌のルイくん特集、読んでないな?」
いくらなんでも、今日の今日では無理です。
仕方ないなーと言いつつも、上機嫌の類は、自分のバッグの中から雑誌一冊、取り出した。
「もしかしたら、そんなこともあるかなって、はいこれ。さくらねえさんの分。ぼくって、ほんっとに用意周到だよね。感謝してよ」
「あ、ありがとう……」
さくらは、指示されたページをめくった。
北澤ルイのロング・インタビュー。
話題のテレビコマーシャルにまつわる話や、最近の私生活、今後の目標など、ルイのファンなら必読の特集記事。
ピアスをあけました、の項目にルイが答えている。
「『変わりたいなって思って、あけました。季節は終わっちゃいましたけど、ぼく、桜の花ってだいすきなんです。かわいくて。でも、凛としていて。こうしているといつも、一緒って感じがするんです。大切な存在ですね』」
類が、さくらの耳もとで、ご丁寧にも読み上げた。
「こ、この文章だと……読んだ人によっては、隠された意味が分かっちゃうよ?」
「へえ、どんな意味?」
とぼけて、首をかしげる類。桜をデザインした、ピンクゴールドのピアスが光った。
「……距離。近すぎるよ」
「東京では、もっと近づいたじゃん。まさか、忘れた? さくらねえさんと過ごした時間、ぼくは毎日思い出していたのに。ぼく、さくらねえさん相手じゃないと、感じなくなっちゃったんだけど?」
「な、なにか、あったような言い方、しないでね。誤解されるよ?」
「誰に誤解されるって? ふーん、玲か。ぼくは認めないよ、玲がさくらねえさんの恋人だなんて。しかも、キスひとつもしていないふたりが、同居なんて。玲にとってさくらねえさんは、ただの妹でしょ。その点、ぼくはさくらねえさんと何度もキスしたし。ふふっ」
東京では、つい乗せられて遊び歩いたことや、一緒に外泊してしまったことがある。さくらにとっては、反省しきりのできごとだ。
「やめて、思い出さないで類くん。あれは黒歴史だから。お互いに、黒歴史」
「ぼくは、さくらねえさんの、全部をもらうつもりでいたんだけど。黒歴史、のひとことで片づけられたら、心外だな。特に、ふたりでホテルに泊まった夜は、お互い最初はそのつもりだったんだし。ぼくの勇気、どうしてくれるの? こんなにつれない人、はじめてだよ」
語尾を濁らせて、類は俯いた。肩を、小刻みに震わせている。泣かせてしまった? 拒否するあまり、冷たく突き放してしまっただろうか。
でもこれ、何度も引っかかっている、例の手口?
でもでも、ほんとうに傷ついていたら?
「類くん、あなたのことが嫌いっていうわけじゃないよ。好きだよ、でもわたしたちは、姉と弟……」
「いやだ、うわわあん! さくらねえさん、ひどい。東京に、ひとり取り残されたぼくの気持ちも考えないで、玲と楽しくやっていたなんて。不潔だよ」
類は畳に寝転んで激しくのた打ち回る。
「落ち着いて、類くん。顔をけがでもしたら大変。玲とは、楽しくやってないよ」
「ぼくが好きだって言って、ぼくだけを見るって約束して。どうして、ぼくにつれないの? 分からない!」
これが、今をときめくアイドルモデルの困った本性である。
「そろそろ十二時だし、お昼ごはんにしようか。おなか、空いたでしょ、類くん。徹夜明けで空腹だと、イライラするよね」
「さくらねえさんがほしい、ねえ。ぼく、さくらねえさんの感じるところ、たくさん知っているよ?」
「声が大きいってば、類くん。町家って、お隣さんとくっつきあうように建っているし、ご近所さんに聞こえるよ?」
「さっき、挨拶まわりしたから。筒抜けでも、だいじょうぶ」
「挨拶?」
「そ。両隣り、向かい三軒。みんな、ぼくにびっくりしていたけど、好意的だったよ。京都の人って、やさしいね」
「なんの挨拶? ほんの数日、滞在するだけでしょ」
うろたえていると、さくらの携帯電話が鳴った。留守番電話に切り替わると切れたが、再びかかってきた。
「さっさと出なよ。そっちのほうが、うるさい」
「う、うん」
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