第2話 星占いのラッキーアイテムって②
翌朝、六時半。
目をこすりながら起き出したさくらが、町家特有の急な階段をゆっくりと下りると、玲はすでに出勤したあと。姿がなかった。
玲の生活スタイルは、夜が遅いのに朝は早い。顔を見たかったような、見たくなかったような複雑な思いにかられた。
台所に、朝食とお弁当がひとり分、置いてある。さくらの食事だ。夜は遅いため、朝と昼の食事係は玲の担当だった。日々の洗濯と買い物、共用スペースの掃除がさくらの家事分担。
玲は、親が再婚するまで、仕事で多忙な母の代わりに柴崎家の家事を仕切っていたという。手際がよく、無駄のない動きにはさくらもうっとりしてしまうほど。
「いただきます」
昨夜は、けんか別れしてしまったものの、ありがたく朝食をいただき、玲手作りのお弁当をバッグにつめる。洗濯機を回している間に、簡単に掃除を済ませ、登校準備を整える。
京都に来てから、さくらは少しだけメイクをするようになった。まわりの女子がしているからだ。
洗濯物を二階の露台に干し、八時十五分。
自転車があればぎりぎりまで家にいられるが、バスだとそうもいかない。大学行きのバス便に本数はあるものの、朝は特に道路が混む。歩いてゆくには、やや遠い。
「やっぱり自転車かあ」
しかし、買い替えるとなると、痛い出費。見習い職人である玲の収入は、ほんとうに少ない。現在の柴崎家の家計は、玲の高校時代の貯金を切り崩しているのが現状。さくらが早くアルバイトをしなければ、ふたり暮らしは破綻してしまう。
でもまさか、もう一度自転車を買ってほしいなどとは頼めない。なくしたのは自分の責任。なんとかしなければならない。自分の貯金から出すか……でも、あの赤い自転車以上に気に入りそうなものなんて、なかなかないと思う。どうしたって、比べてしまう。
一限の授業開始チャイム五分前に、教室へ到着。無事、出席できた。二限は語学。予定通り。
一時間のお昼休みを挟み、今日は午後もふたつ、授業が残っている。
「柴崎さん、ちょっとだけいいかな」
教科書をまとめて片づけていると、橋本が話しかけてきた。メガネと笑顔。
「うん。どうしたの?」
「少し、ついてきて、こっち。すぐに終わるから」
昼食を一緒に食べる約束をしていたクラスメイトに遅れると断ってから、さくらは橋本についていった。
「昨日、あのあと。柴崎さんの自転車を見つけたんだ」
「うわあ、ほんとに!」
さくらは、赤い自転車と再会した。間違いなく、自分の自転車。残念ながら、前と後ろにつけていた鍵が壊されているが、橋本がチェーン状の鍵を新しくつけてくれたらしく、車体はしっかりと保護されている。見た感じ、故障もなさそう。
「どこにあった? 私、見つけられなかったのに」
さくらは尋ねた。
「西の、体育館のほうの駐輪場」
「た、体育館……そんなに遠くまで探してくれたんだ」
「い、いや、おれの下宿、運動場エリアを通り抜けたほうが近いから。ぐ、偶然だよ。偶然!」
「ありがとう、うれしい」
さくらは、泣きそうになった。
玲は冷たいし、知らない土地で慣れないことばかりで、やさしくされたのは久々だった。緊張が一気にゆるんだ。
「お礼させて。お礼!」
涙を抑え込むように、さくらは明るく、大きな声を出した。
「いいよ別に。偶然だよ、そんなの申し訳ないよ」
「今すぐじゃなくてもいいよ、考えておいて?」
なかば強引に、さくらはお礼の受け取りを迫った。お礼の押し売り、である。
「わ、分かった。考えておくよ」
それでも、笑って承諾してくれたので、さくらはほっとしたところへ、橋本が付け加える。
「でもさあ、これなに? 柄? 誰かのサインかな」
「サイン?」
指で示された箇所を覗き込んで見ると、確かになにかが書いてある。サドルの下の部分だ。さくらははじめて気がついた。
「これって、自転車を組み立てる前に書かないと、無理な場所だよね」
ふたりは顔を並べて覗き込む。
「そうだね……あっ」
うわあ、これ。見かけたことがある。
これは、自転車の贈り主のサイン。義理の弟・柴崎類。いや、芸名『北澤ルイ』のサイン。
弟の類は、十七歳にして超売れっ子のモデルであり、アイドル的人気を博している。雑誌だけでなく、テレビやコマーシャルでもよく見かける。
恵まれた容姿ゆえに、自信あふれる性格をしており、頻繁に家族を困らせている。さくらなど、姉とまったく思われず、東京では毎日のようにかわかられていた。
合格祝いをあげる、と言われたから調子に乗ってつい、できたら自転車が欲しいなんて気軽に答えたら、直筆サイン付きの高級自転車だったなんて。
「柴崎さん?」
急に黙ってしまったさくらを心配し、橋本が尋ねた。
「ううん。平気。なんだろうね、これ。が、柄かな。か、鍵。そうだ、鍵! 新しいの、つけなきゃ。生協にあるかな」
「これ、あげるよ。でもこれ、かなりハイグレードな自転車みたいだから、念のために鍵は三つぐらいつけたほうがいいかも」
「そうかも。ありがとう」
さくらはようやく笑顔を取り戻し、クラスメイトが待っている芝生の広場に走った。
「お先に食べとったで」
「おーお。リニアハシモも一緒や」
さくらと橋本を除いた全員が、爆笑する。
「そのあだ名は、やめてくれって!」
「そやけど、自己紹介のとき熱弁ふるったんは、リニアやで。『ぼくの苗字の橋本は、京都府の橋本ではありません、神奈川県の橋本です。将来的には、リニアの停車駅が建設され、全国的に知名度を高めるでしょう』って。うちら、敬意をあらわしとるのに」
「鉄道オタクさかい、パスモでもええわ。東京もんのICカードは、イコカやのうて、パスモいいはるんやて」
「それええわ。ハシモ、パスモ。リニパシモとかな」
「名前でからかうのはやめてくれって、何度言ったら分かってくれるんだよ。小学生じゃないんだから、お互い」
「そやったら、メガネやメガネ。東京もんどうしで、デートの約束でもしはったん?」
「メガネ……」
橋本は顔を真っ赤にしている。やめるように言うべきか、さくらは迷った。
「あ、あの、そのへんでやめて。橋本くん、困っているようだし」
「なんか言うたか、『追加ちゃん』」
クラスメイトのひとりに睨まれたさくらは、硬直した。ぐさりと胸に刺さった、ひとこと。
追加ちゃん。
それが、さくらの、大学でのあだ名だった。
さくらはいったん、この難関大学に落ち、京都行きを諦めたが、追加で合格との連絡を受け、起死回生の入学ができた。当然、学力はクラスの中でもっとも下だろう。
だが、入学したからには同じ立場、とにかく差を埋めるために勉強しなければならない。
この大学では、追加で合格者が出ることは珍しいらしく、学内では噂になっていたらしい。入学式後の最初のガイダンスのとき、居合わせた面々にあなたが追加合格かと聞かれて、さくらは正直に『はい』と、答えてしまった。
以来ずっと、追加ちゃん扱い。悪意を感じることはないけれど、気分はよくない。
「その呼び方も、やめてほしいです」
「あー。うちらは愛を込めて言うとるんやで、愛。冷とう東京もんと、どないしたら仲良うなれるんか、手探り状態なんや」
「だったら、ふつうに名前で」
「あ、本名は知らへん。リニアと追加ちゃん、そろそろお昼せえへんと、三限に間に合わへんで」
時計を見れば、十二時四十分。
「うっわ」
話を中断し、ふたりも昼食をとることにした。ほかのクラスメイトたちはとっくに食べ終わっている。説得は、後日だ。
お弁当の包みを開くと、小さなメモがついていた。いつもきれいな玲の字。
『きのうはごめん。言い過ぎた。今度休みを取るから、どこかへ行こう。必ず。行きたいところ、考えておいて 玲』
謝罪の手紙だった。昨夜の態度を反省してくれたらしい。
うれしくて思わず、さくらは手紙を抱きしめた。さりげなくやさしい、玲のこういうところが好きだ。
玲とふたりでどこに行こう? せっかく一大観光地に引っ越してきたのに、ほとんど観光はできていない。買い物でもいい。新しい靴が買いたい。バッグもほしい。それから、それから……。
さくらは図々しい妄想をぐるぐると膨らませ、笑った。
「なに、これ」
「『きのうはごめん』、やて。追加ちゃんの彼氏か」
さくらがうっとりとしている間に、手紙は強奪されていた。
「ぼんやりしとるように見せかけて、実は彼氏持ちやったんか。ケンカでもしはったん?」
「返して、お願い。それ、ただの伝言」
「いやいやいや。これは、尋問せなあかん、追加ちゃん。誰や、この『玲』って。深い関係?」
「あ、兄だよ、兄。自己紹介のときに言ったでしょ、私。兄と、同居しているんだって」
「ほー。兄上?」
「この、あわてぶり。あやしい」
クラスメイト男女の疑いのまなざしが、いっせいにさくらへ向かった。同胞だと思っていた橋本までもが、冷ややかな視線を投げつけてくる。
「昨日。兄と、ちょっとケンカしたの。だから」
「これは、相当なシスターコンプレックスの匂いを感じるで。そして追加ちゃんは、ブラコン」
「追加ちゃんのお兄ちゃんとやら、早よ見に行かなあかんわ」
「そやね」
「うちらのおもちゃ・追加ちゃんを翻弄する、シスコン兄貴! 必見やで」
「確か、西陣の古い町家に住んではるんやろ。建築学科の学生としては、そっちも必見ちゃうか」
賛成多数で、さくらは押し切られてしまった。
ああ、今朝は星占いを見忘れたんだよなあ……自転車が見つかったり、いいこともあったけど、実は運気が最悪だった?
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