50 口に出すほどの事でも

 ――オレという人間は、阿蘇忠助にとって呪いのような存在だと思っていたのだ。


 窓から入る柔らかな風が、カーテンを膨らませる。とある病室の丸椅子に、藤田直和は腰掛けていた。

 すぐ側にあるベッドに横たわるのは、彼の幼馴染の男。筋肉質な腕からは点滴が伸び、眠り続ける彼の命を繋いでいた。


「……よく寝てんなぁ」


 手にした本を閉じ、穏やかに寝息を立てる彼の顔を覗き込む。


「眠れる森の美女って、どんな話だったか覚えてます?」


 いつもの冗談を言ってみる。普段ならここで、友人にするとは思えない迷惑そうな顔で「森に住む夢遊病拳使いの女の話だっけか?」とかめちゃくちゃ適当な答えが返ってくるのだが……。

 今は、それも無い。不埒な事をしようものなら、罪悪感でこっちが死ぬかもしれないぐらいこんこんと眠っている。


「……」


 虚しさに、ため息をつく。まだせいぜい五日ほどしか経っていないというのに、既に藤田は待つ側の辛さを嫌というほど思い知らされていた。


 ……まぁ、そんでも待つけどね。オレだって結構しつこい方だし。


 阿蘇の頬に乗った埃を取ってやりながら、藤田は胸の中で呟いた。


 ――こうして眠る阿蘇を眺めていると、どうしても昔を思い出してしまう。


 それは、藤田が教団を脱退した直後のこと。彼には、阿蘇のアパートで共に暮らしていた時期があった。

 曽根崎の手筈により教団から金をチョロまかしていたので、金銭面での心配は無かった。けれど当時の彼にとって、生とは決して生易しいものではなかったのである。

 特に酷かったのは、最初の頃か。夜は悪夢にうなされ、昼は教団の影に怯えて家を出ることすらままならない。気の休まらぬ毎日に、当時の藤田はほとほと疲れ果てていたのである。

 そんな彼を気遣ってか、同居人である阿蘇も極力家にいるようになっていた。たとえ外出したとしても、常に駆け込むようにしてアパートに帰ってきていたものである。

 ……口には出さなかったが、目を離している間にオレが自ら命を絶つことを恐れていたのだろう。

 その時の阿蘇の行動を、藤田はそう理解していた。


 傍から見ると、疲弊するばかりの不毛極まりない時間だったと思う。

 けれど自分は、この時期を阿蘇と過ごせたことで、どれほどの苦しさをやり過ごせたか知れない。


「……!」


 藤田が重い記憶に沈んでいると、突然強い風が吹き込んできた。目を開けていられず閉じると、瞬間瞼の裏に鮮やかな朝焼けが蘇る。

 その美しさに息を呑んだ。――ああ、これはいつ見たものだったろう。


 そうだ。あれは確か、このまま阿蘇の世話になり続けるわけにはいかないとアパートを出た時だ。

 空気は冷たく、吐く息は真っ白で。オレは錆びてザラザラの手すりを握り、橙色の光に照らされながら階段を降りていた。

 ……殆ど夜逃げも同然だったのだ。眠ったままの阿蘇を置いて、メモだけを残し出ていくなんて。


 オレの事など忘れてくれと願っていた。

 これ以上、オレに縛られてくれるなと祈っていた。


 馬鹿馬鹿しいことに、当時のオレは自分さえいなくなれば全てが解決すると思い込んでいたのである。


 ……今日は、夕焼け雲が広がってもここに帰らないようにしなければならない。音を立てないよう気をつけ、やるせない気持ちを抱えた藤田は一段一段彼から遠ざかっていたのだ。


 ――そんな彼の耳に声が届いたのは、最後の段を踏もうとする直前である。


「行くな」


 ふいに掴まれた腕の感触に、振り返る。

 目の眩むような朝焼けに立っていたのは、部屋で寝ているはずの阿蘇だった。

 身じろぎもせず、真剣な顔でオレを見つめている。


 ……いや、こんな情景は知らない。オレは、ここで阿蘇に引き止められた覚えなんて無い。


 だから、これは夢だ。


 そう判断した藤田は、目を開けた。


 窓から差し込む光と、この数日ですっかり馴染んだ真っ白なベッド。

 ……少し、眠っていたらしい。先ほどと何ら変化の無い光景に、藤田は息を吐いて落胆した。

 気を取り直し、軽く伸びをする為に右腕を持ち上げようとする。


 しかし、その所作は小さな抵抗に阻まれた。


 視線を落とす。藤田の腕は、ベッドから伸びた手に掴まれていた。


「……え?」


 恐る恐る、眠っているはずの彼に視線を移す。手から腕へ。腕から顔へ。


 そして彼は、消えないほど深く脳に刻みつけられた低い声を聞いた。


「……よう、藤田」


 ――鋭過ぎる、目が。


 昔からずっと、オレを映してきた目が。

 オレにとっては、太陽と何ら変わらない目が。


 おかしそうに、オレを見て笑っていた。


「……あ、そ」

「ンだよ。幽霊でも見たような顔しやがって」

「阿蘇さん」

「はいよ」

「阿蘇」

「うん」

「……ッああああああああ!!!!」

「うわっ、来た!」


 阿蘇の抵抗も無視して藤田は飛びついた。体中をべたべたと触り、頬を撫で回し、たまりかねた阿蘇に強烈なビンタを食らって昏倒する。

 それでも、嬉しかった。阿蘇が目を覚まし、喋り、笑ってくれた事が。

 どんな言葉にも表せないぐらい、嬉しくて嬉しくて堪らなかったのである。


「……藤田。お前、体は?」

「ビンビンに元気でず!!」

「そうか、そりゃ何よりだ」


 性懲りもなくのそのそと戻ってきた藤田の肩を優しく叩いて、阿蘇は微笑む。その温かさと重みに、藤田はまたぐすぐすと鼻を鳴らした。


 ――夢に見た朝焼けをなぞる。自分に向かって伸ばされた手と、真剣な眼差しを。見ると、阿蘇の手はまだ自分の腕を掴んでいた。


「……」


 ――これは、あれだな。

 またオレを逃さないようにしてるな、コイツ。


 そういえば、あの時もそうだったのである。


 阿蘇のアパートを出た後、オレは適当なセフレの家を転々として過ごしていた。一つ所に留まるなんて恐ろしくてできず、適当に時間をかけたらまた次の場所へと移る。

 そんな怠惰でだらしない生活に廃人同然になっていたオレを引っ張り上げたのも、やはりコイツだったのだ。


『お前ふっざけんなよ!!』


 その頃のオレは、とあるセクシー女優のマンションに転がり込み半分ヒモと化していた。そこに阿蘇が乗り込んできたのである。

 詳細は伏せるが、タイミングとしては最悪だった。しかし怒り心頭の阿蘇が、それを気にするわけもなく。


『阿蘇! なんでここに!?』

『お前のオトモダチに片っ端から当たってみたんだよ! 一人分かりゃ芋づる式でズルズルだったわ!』

『あー……』

『そこに直れお前! こんな紙切れ一枚残してトンズラしやがって!! どれだけ心配したと思ってる!!』

『ちょ……ちょっと待って! せめてまともな服を着てから……!』

『問答無用!』


 阿蘇に手を掴まれ、強引に連れて帰られようとする。だがその時、世話焼きなセクシー女優ちゃんがオレらの前に立ちはだかった。


『ちょっと何なのよアンタ! 警察呼ぶわよ!?』

『このたびは藤田がお世話になりました! ご迷惑をおかけしてすいません!』

『え、何!? なんでいきなり礼儀正しいのよ!? ねぇ直和、アンタこれどういうこと!? この人は誰なの!?』


 彼女にそう聞かれるも、なんだかんだで一番混乱していたオレにまともな返事ができるはずなどない。オロオロとしていると、阿蘇がずいと間に入ってきた。

 そして、彼は堂々と彼女に言ってのけたのである。


『コイツは、ウチのもんなんだよ!!』


 その日からしばらく、オレは大部分の女性と連絡がつかなくなった。


 いや、知ってるよ? 阿蘇としちゃ『自分の家にいる居候だから、家主としての責任を取らなければならない』ぐらいの意味だったんだろ?

 そんでも言葉が足りねぇんだよ、お前は。昔から色々とよ。


 とはいえすっかり観念したオレは、阿蘇に連行されてとぼとぼと彼のアパートに帰ったのである。その道中に交わした言葉も、未だなんとなく覚えている。


『まったく、手間かけさせやがって』

『……』

『お前なぁ、いなくなりたかったら事前にそう言えよ。無駄に時間食ったわ、クソが』

『……阿蘇はさ』

『あ?』

『……なんで、そうまでしてオレを気にかけてくれるんだよ』

『……』

『……?』

『……死なれたらメシが不味くなるからだよ。逆を言えば、どこにいようと生きてりゃいい。だから居所とか、そういう連絡ぐらいは寄越せ』

『……』

『黙って消えようとすんな。俺に心配をかけんな。そうじゃなきゃ俺はどこまでもお前を探すぞ?』

『ヒィ』

『二度と俺から逃げられると思うな』

『その言い方には大いに語弊がありますよ、阿蘇さん』


 それからなんだかんだで、オレはもう少しだけ阿蘇の家で居候を決め込むことにしたのである。結局まともに自立したのは、阿蘇が就職活動を始める直前。保証人がいなくても借りられるアパートを探し、ちゃんと阿蘇に住所を教えてから彼の家を出て行った。


 阿蘇のアパートの合鍵は、取り上げられなかった。「別にいつでも帰ってきていいよ」なんて、まるでここが実家かのように言ってくれて。


「……阿蘇」

「何?」


 そして、今に至る。

 藤田は、掴まれた腕に再び目を落としていた。


 ――阿蘇にとってのオレは、負担でしかなかったと思う。オレがいるから自由にならない事も多かっただろう。

 オレは、阿蘇にとっての“呪い”だ。やはり、その思いは消えないのだが。


 それでも、阿蘇がこうして手を伸ばしてくれる限り。

 オレは浅ましくも、まだここにいたいと思ってしまうのである。


 ……まあ、口に出すほどの事でもないのだが。


「……なんでもないでず」

「いや鼻水ズルッズルじゃねぇか。お前泣き虫は童貞と一緒に卒業したんじゃなかったのかよ」

「未だ所により雷雨」

「不安定なヤツだな」


 呆れながらも、阿蘇は手を離さない。オレも、もう彼の手を振り払わない。多分オレたちの関係性はこんなもんで、掴んだり受け止めたり払ったりしながら、また続いていくのだろう。


 それでいい。今のオレには、それで十分なのだ。


「……ねぇ、阿蘇さん」

「ん?」


 そして、日常に戻る為に。

 藤田は、一つ指を鳴らして提案した。


「――退院したら、オレと一発どうですか?」

「断る」


 十分予想された素気無い返答に、藤田は顔を上げないまま「へへへ」と笑い声をあげる。そんな彼を、阿蘇は軽く小突いてみせた。


「……オレ、昔のことを思い出してたんだ」

「何? 大学生の頃とか?」

「よく分かったね」

「結構楽しかったよな。昔のお笑い番組見て夜通し酒飲んだりして」

「ふふ、懐かしい」

「……俺が失恋したとかでさ、海行ったの覚えてる?」

「覚えてる覚えてる。酒飲んだせいで車で帰れなくなって、浜辺で一夜過ごしたやつ」

「そうそう。んで、暇過ぎてさ。二人で実際に住めるタイプの城作ろうとしたじゃん」

「したね」

「あれで藤田が生き埋めになった時はマジで死んだと思ったよな」

「あれはオレも死んだと思った」

「はは」

「ふふふ」

「……」

「……ねぇ」

「ん?」

「オレ達、また一緒に住んじゃう?」

「そうする? 俺は別にいいよ」

「え、ええ?」

「……冗談だよ」


 ぽつりぽつりと、他愛無い言葉が交わされる。時折風に頬を撫でられながら、笑い合いながら。

 そうして藤田の手によりナースコールが押されるのは、たっぷり三十分後のことだったのである。

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