48 “曽根崎さん”
ローラーは重力に逆らう事なく穴へと吸い込まれ、命綱を無くした触手もまた落ちていく。片や何とか際で踏みとどまることができた僕は、慌てて後ろへと下がった。
だが、ホッとしたのも束の間。
間髪入れず、激しい振動が僕らを襲った。
「な、なんだ!?」
咄嗟に地に伏せる。ドリルで硬い岩を穿つような地震は、しかし数秒で止まった。
それから、どれぐらい沈黙の時間があったかは分からない。
第二波が来たのは、その後だった。ズン、ズンと一定の間隔を置いて僕らの立つ地面が揺れる。まるで、壁に爪を突き立てるように――。
――登って、きている?
「曽根崎さん! まだですか!?」
白髪混じりの男に声をかける。――もう、もう打つ手は無い。僕にできることは何も無い。けれど僕が声をかけた小学生の男の子は、真っ青な顔で首を横に振った。
「……ッ! 今、そっちに行きます!」
その子を放っておけなくて、僕は走り出した。来るな、と小さな口が動いたが、知らんふりを決め込む。
不安定な揺れに酔って、吐き気がこみ上げる。でもあの人が吐く前に僕が吐いちゃダメだよなと妙な見栄が過ぎり、唇を引き結んだ。
「曽根崎さん!」
肩で息をしながら、呼び慣れた名を呼ぶ。目の下にクマの無い曽根崎さんが、深淵のふちに立って不安げに僕を見ていた。
……せっかく不審者面が緩和されているというのに、そんな虚ろな目をしていては台無しではないか。こんな時だというのに、僕はなんだか妙な笑いがこみ上げてきた。
壁に爪を突き立てて、恐ろしい速度でバケモノが登ってきている。唯一の希望である曽根崎さんは、無数の自分からたった一人を引き当てる事ができずにただ消耗している。
本来なら、もっと焦るべきなのだろう。人の無力さに失望し、惑い、泣き叫びながら。
けれど、僕はそうならなかった。むしろ胸の内は、凪いだ海のように落ち着いていたのである。
僕は、自分が何をすればいいかよく分かっていた。
「……」
――そうだよな。呼ばれなきゃ、返事のしようが無いもんな。
一歩足を踏み出す。
僕を見つめる彼に、自然ととある名を口にしていた。
「――慎司」
その瞬間、空っぽだった少年の目に色が蘇った。
だから僕は、更に彼へと歩み寄る。
「僕は……あの時お前が言った事、まだ忘れてないからな」
そりゃあまあ、僕にとってはほんの数日前の出来事だ。覚えていて当然と言われれば、それまでである。
けれど、これから僕が生きていく中で。それは何年何十年経とうと、忘れてやるつもりの無い言葉だった。
穴のふちに立つ青年は身をかがめ、長い腕を地面に向かって伸ばす。
落としていたタブレットを手に取り、軽くはたいて埃を落とした。
「お前、自分が観測した竹田景清に辿り着いてやるって言ったよな。意地でも、“曽根崎さん”の足取りを追ってやるって言ったよな!」
声を張り上げる僕を一瞥し、冷たい目がバカにしたように歪む。カチンときたが、そういやお前は普段からそんな目だったな、と思い直した。
「……なぁ」
とある頭脳明達聡明叡智の青年は、僕の呼びかけを無視して温度感の無い目を穴に向ける。
黒いペンを持った手を、タブレットに添えた。
「――僕も、お前に会いたかったよ」
一切迷いの無い動きだった。僕の観測する前で、慎司は絵を斜めにぶった切る直線を描く。
それは即座に反映され、今までの図に重なって穴の真上に出力された。最後の足掻きと言わんばかりに地面の揺れが激しくなったが、無駄である。
こちらはもう封印を完成させたのだ。
「慎司!」
どんどん酷くなる地震であったが、何故か慎司は穴のふちに突っ立ったままだった。タブレットを片手に、ぼうっと向こう側を見ている。
「早く戻ってこい! この揺れだとお前まで穴に落ちるぞ!」
「……」
「慎司!」
叫ぶ僕に、ようやく慎司は振り返った。そうして目にした彼の表情に、ハッと僕の息が止まる。
――慎司は、微笑んでいた。
真昼の太陽に照らされて、少し眩しそうに。それでも、かつて見た事が無いほどに優しくて温かな色をその眼差しに宿らせて、彼は僕を見つめていたのである。
「……馬鹿だな、お前は」
その声を、喋り方を、僕はよく知っていた。
抑えていた涙が、ふいにあふれそうになった。
「俺は、“曽根崎さん”だろ」
耳をつんざくような咆哮が轟いた。その弾みでバランスを崩した彼に向かって、手を伸ばす。
タブレットは穴に落ちていったが、ギリギリの所で僕はグレーのネクタイを掴むことができた。
思いきりこちらに引く。細い体を抱きかかえる。毛糸玉のようにもつれ合いながら、僕らは地面に転がった。
「痛ぇ!」
しかしその際、したたかに頭を打ってしまった。あまりの痛さに彼を手放し、背中を丸め後頭部を押さえて呻く。
――手の下の部位がズキズキと疼く。鼻の奥がツンとしてジワッと涙が滲む。
痛い。痛い。痛くて堪らない。
涙が、止まらない。
「景清!」
「ガニメデ君!」
ハスキーボイスとバリトンボイスが同時に僕を呼んだ。
柊ちゃんに抱き起こされながら、でも僕は返事すらできずにガヤガヤとした雑踏を少し遠くに聞いていた。
けれど柊ちゃんは、そんな事お構いなしに美しい顔面を僕に近づけてくる。
「やったわね、景清! すごいじゃないの! ダダダダってなったかと思ったら、バババーッって穴が閉じちゃって! ボクったらすんごくビックリしちゃったわ!」
「……穴、が」
「そうよ! 偉いわ! よく頑張ったわね!」
撫で回される僕の隣に、悠然と田中さんが立った。
「僕にゃ、ローラーがいつの間にやら消えていた事しか分からなかったがねぇ。それにしても長い地震だった。全く、怪異が原因なのだとしたら実に誤魔化しがいがある話だよ」
それを聞いて、いつまでも寝転がってはいられないとよろよろと体を起こした。
二人の言う通り、さっきまで絶望的な存在感を放っていた穴は既にどこにもなかった。その代わり、僕のぼやけた視界にはよく見慣れた街の景色が映っている。
――終わったのだ。長い長い事件が、ついにその幕を下ろしたのである。
袖でごしごしと目を拭う。だけど困ったことに涙は一向に止まらず、後から後からこぼれてきていた。
「……“曽根崎さん”」
「うん」
名を呼ぶと、右斜め後ろから声が帰ってきた。
顔を見なくても、それが僕のよく知る彼だと分かった。
「曽根崎さん」
「うん」
「……曽根崎、さん」
「うん」
確かめるように口にする。
間違いなく僕の観測する世界に存在する、その人の名を。
「……っ」
嗚咽を噛み殺す。今だけは、どうしても、必要な言葉以外口にしたくなかったのである。
――ああ、途方も無い奇跡だったのだ。
この人に会えたのも、彼に会えたのも、言葉を交わせたことも、全て、全て。
そんな奇跡に身を置く中で、僕は何度彼に救われてきたのだろう。
鼻が詰まる。ぼたぼたと地面に雫が落ちる。事情を知らない柊ちゃんと田中さんが困惑している。人目を気にするなら早く泣き止まなきゃいけないのに、ちっとも涙は止まりそうになかった。
痛い。痛い。息ができない。
胸が、苦しい。苦しくてどうともならない。動けやしない。
それでも僕は、やっと“彼”に聞かせたい言葉を振り絞った。
「……ありがとう……ござい、ました」
あの時に、言いそびれた一言を。
一番言わなければならなかった、一言を。
――二度と伝えられない、一言を。
みっともなく顔をぐしゃぐしゃにしながら、鼻をすすりながら。
僕の世界で唯一の人に、僕はようやくその言葉を伝えられたのであった。
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