47 時間稼ぎ
「――投了、していたんだ」
立っていられないほどの揺れの中、抑揚の無い声が隣から聞こえた。
「白が詰んで……負けを認めて終わったゲームだった。だから、封印の図式としては不完全だったんだ」
「そ、んな……! でも、あの廃ホテルの壁は異次元に繋がってなかったじゃないですか!」
「ゲームとしては終わってたんだよ。“異次元の解放”が目的だった白が敗北したのなら、それが消えていてもおかしくはない」
――ならば、どうしたらいいのだ。
頭が真っ白になった僕は、俯く曽根崎さんを呆然と見ていた。
――封印の図を完成させられないなら、もう打つ手など無いではないか。
嘲笑うような咆哮は既に消えている。穴の大きさもさっきの四分の一になっている。
けれど、僕は理解していた。
穴に潜むバケモノは、出口にさえ辿り着けば無理矢理封印をこじ開け出てきてしまえると。そうなれば、僕らはおろか、この地球上に住む者にどんな災厄が訪れるか分かったものではないと。
恐怖のイメージで動けない僕の一方で、曽根崎さんの骨張った手が動く。それは顎へと当てられ、お馴染みのポーズを形作った。
「……こんな時に何だが、君に聞いておきたい事がある」
やけに冷静に、彼は言う。
「端的に答えてくれ。君は穴に落ち、黒い男に会ったと言ったな」
「は、はい」
「その後、一体何が起こったんだ?」
「は……!? 今それどころじゃ……!」
「いいから。教えてくれ」
強い口調で言われ、僕は反論を飲み込んだ。
……彼にとって、これは今それほどまでに必要な情報なのだろうか。
……。
勇気を振り絞る為に、拳を握る。僕は、彼の望み通りの答えを返した。
「……黒い男に、導かれた先で……」
「うん」
「……僕は、二十一歳の曽根崎さんに会いました」
「……」
「穴は、生身のままで通り抜ける事はできなかった。だから、無傷で三日前に戻るには、一度別の“面”を経由する必要があったんです」
緊張で口の中が乾く。けれど僕は、続けなければならなかった。
「その際、四つ足のバケモノに追われ、襲われもしました。ですが、それでも彼は僕に協力してくれた。……お陰で僕は異次元の隙間に飛び込み、無事三日前に戻る事ができたんです」
「……そうか」
曽根崎さんから目を逸らし、しゃがみこんだ僕は地面を見つめて言った。
――どうしても、彼の顔を見られなかったのである。その表情に示されているだろう真実を、僕は直視する事ができなかった。
揺れは、今や一固まりごとの振動となっていた。まるでワイヤーを掴んで上がってくる者が、我が身を持ち上げるたびに生じる反動のように。
「なぁ、景清君」
「はい」
しかしその中で、曽根崎さんはスイと背筋を伸ばして立ち上がる。
「どうせ“そいつ”の事だ。自分が知らないゲームなら、真っ先にルールを解し、先んじて手を読もうとしたんじゃないか」
「……はい。実際、読みも当たっていました」
「ふむ、だとしたら」
曽根崎さんは、長い体を折ってタブレットを拾った。
「――それさえ“思い出せば”、私はこの図を完成させられるんじゃないかと思うんだが、どうだろう」
そう言うと、穴に向かって歩き始める。
止めようとしたが、何故だかうまく声が出てこなかった。あるいは、突如強く吹いた風に掻き消されたのかもしれない。
歩を進めながら、曽根崎さんは言った。
「この穴の付近では、時間の流れがおかしくなっているという話は覚えてるな? 時を進ませたり、戻したり。またはそれらが同時に起こる故か、人自身の時の流れが止まり、一見は何の変化も生じていないように見えたり」
「……はい。穴を覗き込んだ阿蘇さんが髭面になったという、あれですよね」
「そう。無論、そのタネなんざ分かりゃしない。だが、面と観測者、肉体と精神、それら諸々からどういった理屈なのかぐらいは推測できる」
「え、そうなんですか?」
「ざっくり言うと、その面から完全に独立した異世界に体が触れる事によって観測者が辿る可能性のある面における肉体が精神は据え置きのままランダムに表れるという……」
「分からないです分からないです」
「そうか。まぁ見てもらった方が早い」
曽根崎さんが穴のふちギリギリに立つ。
危ないからやめてください、と僕は注意しようとした。だが、喉まで出かかった言葉は、目の前で繰り広げられた光景にあえなく消滅してしまう。
僕に背を向けて立つスーツの男。
その彼のボサボサ髪が、一瞬にして真っ白に変わったのである。
驚き腰を抜かしかける僕をよそに、曽根崎さんは自身の右手の表裏を確認する。
「――案の定、忠助の時よりも“強い”な。この分なら、記憶も……」
しわがれた声だった。しかしそれも、途中でスイッチを切り替えたかのように溌剌としたハリのあるものに変わる。
「いいか、景清君。未来も過去も、その名に意味など無い。いずれにしても、それぞれ一つの“面”である事に変わりはないんだ」
「……それって、どういう……」
「会わせてやるよ。“君が観測した二十一歳の曽根崎慎司”とやらにな」
その言葉に、息を呑んだ。
一度は黒に戻っていた曽根崎さんの髪の色が、また白く変化する。
地面はまだ、揺れ続けていた。それなのに、何故この人が少しも揺らがずに立っていられるのか不思議でならなかった。
「……違う。“これ”じゃない」
曽根崎さんは、髪が短くなった頭を横に振った。髪が伸びる。白髪の混じった長髪になる。骨と見紛うばかりになった体が、ふらりと傾く。片足を踏みしめて耐えた時には、十五歳ぐらいの少年になっていた。
現実味の無い光景の連続に、全く脳が追いついていない。けれど彼が、“あの時僕が観測した慎司”になろうとしている事だけは理解していた。
「そ、曽根崎さん! 大丈夫なんですか!?」
なんせ未知数の現象である。彼の体にどれほどの負担がかかっているのか、僕には見当もつかなかった。
「……間に合えば、いいが」
声変わりもしていないような幼い声に、ドキリとする。いつもの長身が、半分ほどになっていた。
――間に合えば。
そうだ。時間を稼ぐことができればできるほど、曽根崎さんが僕の観測した慎司になれる可能性は高まるのだ。それでも、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる理論には違いないけれど。
――何か、無いか。
少しでも、この時間を稼ぐことができる何かが――!
地響きはいよいよ強さを増していく。その時、ガコンという重たい音が辺りに響いた。
体全体でそちらを向く。視線の先にあったのは、最初にあった位置から四分の三ほど穴へと位置をずらした巨大ローラー。
「……そうか……!」
ローラーに走り寄る。微力だと知りながら、僕は数トンはある機械に両手を押しつけ、全体重をかけた。
――ローラーとて、耐えきれていないのだ。
ワイヤーにぶら下がるバケモノの、その重さに。
それなら、この命綱を落としさえすれば時間稼ぎができるかもしれない。
曽根崎さんも呼んでくるべきかと思った。けれど、結局は彼に封印の手を思い出してもらう他に穴を塞ぐ手は無いのである。
一人でやるしかない。
僕は、力の限りローラーを押した。
「……ッ!!」
昨日、雨が降っていたのが功を奏したのか。少しずつ、けれど今までよりは確実にペースを上げてローラーは進む。
曽根崎さんを見る。幼稚園児ぐらいの背丈の子が、ぶかぶかのスーツを着て立っていた。
苦しそうな顔をしていた。
泣き出しそうな顔をしていた。
怖くて堪らないという顔をしていた。
――曽根崎さん。
地面が揺れる。足を取られて転びかける。なんとか耐えて、更に全身に力を込めた。
――負けるかよ。負けてたまるか。
お前なんかに、僕らのいっぺんたりとてくれてやるものか。
「こな……ックソォッ……!!」
体に熱が篭る。頭の血管が切れそうだ。それでも、押し続ける。
ローラーが、また傾いた。穴に到着したのだ。だが、何かに引っかかったのかどれだけ押してもそこから動かない。
あと少し。もうほんの少しなのに。
必死で押す僕だったが、訪れた一際大きな揺れに体勢を崩した。
「――ッ!!」
カチカチ、という音がした。
最初、僕にはどうしてそんな音が鳴るのか分からなかった。
――封を破らんとするかのように地上へと迫る、無数の触手を。
その触手にびっしりと埋め込まれた、緑の目を見るまでは。
目の一つ一つには、睫毛の代わりに白濁色の歯がびっしりと生えていた。カチカチカチカチと耳障りな音を鳴らして、第一の餌である僕をこぞって観察している。
その目を見た、刹那。
僕の中に潜んでいた感情が、爆発した。
「……ふざけ……やがって……!!」
それは、怒りだった。僕の周りの人を苦しめに苦しめたコイツに、僕はこんな状況にも関わらず激怒していたのである。
「誰が、お前の餌になるか……! 誰も、お前の餌にさせるもんか!!」
怒りはそのまま原動力になる。僕は、自分の中にある力一つ残らず振り絞って眼前の巨体にぶつけた。
「お前は……腹ァ空かせたまま巣に帰れ!!!!」
大きくローラーが動き、傾く。
急に力の行き場を失った僕の手が、宙を掻いた。
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