44 蜘蛛の糸

 昨日は、状況を教えてくれる田中さんがいた。ずっと近くにいて、助けてくれる柊ちゃんがいた。

 けれど、今日はいない。

 僕と曽根崎さんは、たった二人でこのバケモノの潜む穴に挑まねばならない。


「……やっぱり、アンタを張り倒してでも手を進めておくべきでしたかね」

「それはそれで向こうも何かしてきてただろ。昨日時点での君の判断は正しかったよ」


 巨大な穴を前に、曽根崎さんはタブレットを置く。この位置からだと、穴の見えない普通の人は僕らを見ることができない。

 つまり、僕らが穴に落ちようがバケモノに食われようが、その末路を知る人は誰もいないのである。


「……曽根崎さんも、あの部屋で白と黒のオバケを見たんですか?」

「まぁな」

「……奴らの目的は何なんでしょうか」

「知らん」


 沈黙を恐れるが故の問いに、しかし曽根崎さんは誠実に答えてくれる。


「ただ一つ言えるのは、あの場で私達が抱いた死の直感は決して間違ってなかったという事だ」


 タブレットを起動させた曽根崎さんは、僕に白いペンを手渡した。


「人の体は、“思い込み”という脳の判断に対し殊の外従順に反応する。プラセボ効果という言葉を聞いた覚えはないか? 小さな砂糖の塊を「これは難病に効く薬だ」と患者に伝えて毎日飲ませると、本当に症状が改善するというものだ」

「へぇ」

「ところが、だ。もし、君がこれと反対の現象を起こそうと思えば一体どうする?」

「え? それって、ただの砂糖を毒と言って飲ませるってことですか? ……しませんよ、そんな酷いこと」

「そうだな、君は決してしないだろう。だが、あの部屋の両隅に立っていた不気味な人型は、少なくとも“その類い”を実行できる力があった。我々は部屋に一歩でも踏み入れば、殺されると思い込んでいたのだからな」

「……」

「つまり、部屋に入った瞬間、奴らは私達の脳が“死んだ”と判断し、疑わぬほどの、幻覚を、見せ、てき、た可能性、が……」


 曽根崎さんの手が止まった。僕が軽く背中を叩いてやると、また動き始める。古いロボットみたいな挙動だが、今の僕はとてもそれを笑い飛ばす事ができなかった。


 それほどまでに、ここは妙な場所だったのである。


 背中を冷たい汗が伝う。昨日よりは小さくなっているはずの穴なのに、嫌な気配は明らかに濃くなっていた。


 ――何かが、ずっとこちらを窺っている、ような。


「……流石、本丸といっただけはあるか」


 穴を見ていた僕であるが、肩を掴まれ曽根崎さんの方に向かされた。彼は黒いペンを握った手を掲げ、ニヤリとする。


「さぁ、早く終わらせるぞ。我々の正気が刈り尽くされる前に」


 画面に黒い点線が表示される。それ目掛けて、黒い腕が払われた。










 耳鳴りがする。息が切れる。腕が重い。澱んだ空気に内臓が引っ掻き回されているかのようだ。


 ――だが、動ける。

 

「――景清君、意識は保っているか」

「全然、余裕ですよ……!」


 今は、二十四手目。僕は震えて思い通りにならない手に力を込め、叩きつけるように線を描いた。

 やはり、一晩の休息は大きかったらしい。精神的な負荷はあるものの、ここまでは幻覚を見ていなかった。

 曽根崎さんも、僕が描き終えたのを見てすぐタブレットの前に来る。


「あと十七手だ」


 顔は青ざめているが、昨日ほど酷い様子ではない。


「この調子でやるぞ」

「はい」


 一息に黒い線が描かれる。そのあと体を曲げ苦しそうに咳込んだ彼だったが、間も無く顔を上げた。


「どうしました」

「いや、息の仕方を忘れてた」

「人間が忘れちゃいけないトップ3に入るやつじゃないですか。……大丈夫です?」

「問題は無い。もうちゃんと思い出し……ゲホッカハッ!」

「言ってるそばから! はい吸って! 吐いて!」


 曽根崎さんの背中をさすりつつ、僕も僕で大きく深呼吸をする。そうでなくても、なんだかこの場所は空気が薄い気がするのだ。


「……でも、まだやれますね」


 僕の問いかけに、曽根崎さんは咳き込みながら親指を立てる。

 ――僕らは、できるだけ声をかけ合おうと決めていた。誰も他に頼る人がいない今、自分を正気に繋げる者は互いを除いて存在しないのだから。


「じゃ、次は僕ですね」


 白いペンを持つ。汗で滑りそうになったが、代えは無いのでしっかりと持ち直した。

 タブレットに向かう。これで二十五手目だ。


 だが、僕がタブレットにペン先をつける寸前。


 ガタガタと重厚感のある音と、金属の擦れる耳障りな音が響いた。

 突然、僕らの後方に置かれていた巨大なローラーが稼働し始めたのである。


「な、なんですか!?」

「景清君、下がれ!」


 咄嗟に曽根崎さんが僕の腹に手を回し、飛び退いた。彼のもう片方の手には、しっかりとタブレットが掴まれている。

 目の前でロールが激しく回転している。物凄い勢いでワイヤーが吐き出されていく。


 ――底無しの穴に向かって。


「ま、さか……」


 恐怖で胃がひっくり返りそうになった。想像したワイヤーの先には、一人の男が力無く吊るされている。


 ――落ちたはずの僕が、また現れたのか?


「……いや、ワイヤーの先にいるのは君じゃない」


 僕を下ろしてくれながら、曽根崎さんが断言する。


「見ろ、ロールの動きにはムラがある。穴に落ちるだけの君が再び現れたんだとしたら、ただひたすらワイヤーは伸びるだけでああなることはない」


 指摘され、そろそろと機械に目をやる。……確かに、ワイヤーの伸びる速度には激しい時と若干緩慢になる時があった。


 ……え?

 これってつまり、どういうことなんだ?


「……最悪だ。最悪な想像をしてしまった」


 額に手をやる曽根崎さんが少しよろける。だけど、今度はすかさず僕が支えた。


「どうしました。教えてください、曽根崎さん」

「……」

「曽根崎さん」


 曽根崎さんを揺する。それで多少脳がはっきりしたのか、彼は片手で覆った顔の隙間から言葉を漏らした。


「……た、手繰られているんだ」

「手繰られている?」

「ワイヤーが、手繰られている。こう、両手を使って、交互に引くようにして……“何か”が、上がってこようとしているんだ。……穴の底にいる“何か”が、ワイヤーを伝って、ここまで……!」


 ロールは激しく回り続ける。あれほど膨大な量があったワイヤーは、既に四分の三ほどになっていた。


「……なんですか、それ」


 声が震える。

 曽根崎さんを支える腕は、濡れてもいないのに氷のように冷たい。


「なんで、そんな、ことが」

「知らん。知るものか。……糸が落ちてきたから引いてみた。穴が閉じそうだから出てみようと思った。もしくは、何の意図も無いのかもしれない、が……」


 曽根崎さんが、ハァ、と息を吐いた。


「――さながら、垂らされた蜘蛛の糸を掴み、天上へと上る罪人のようだ」


 その瞬間、僕の脳内で巨大な緑の目が見開かれた。

 それに群がる、人、人、人。皮膚を裏返された男。青い血を入れられた女。不浄、不浄、不浄。


 ――やめろ、来るな。来るな。僕らの生きる脆い世界を、お前のような不浄が乱すな。


「……糸を……切ら、ねば」


 冷たい何かが僕の手に触れる。曽根崎さんが、いつの間にか落としていた白いペンを僕に握らせていた。


「ペースアップするぞ。もう、一刻の猶予も、無い」


 正面から見た彼の顔には、壮絶な笑みが浮かんでいた。

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