43 部屋の隅に

「はいどいたどいた、こっちは関係者だ」


 野次馬を押し除け、曽根崎さんが黄色いテープをくぐる。そんな彼の後ろでぺこぺこと頭を下げながら、僕も続いた。


「田中さん!」


 そうして見つけた和装のロマンスグレーの背中に声をかける。男は振り返り、僕と視線を合わすなり銀縁眼鏡の涼やかな目を細めた。


「おや、ガニメデ君。昨日はよく眠れたかい?」

「ええ、なんとか」

「それは上々。今ちょうど表の君が穴に飛び込んだ所だよ」


 煙草をシルバーの携帯灰皿に押しつけ、田中さんは自分の背後を顎で差した。太いワイヤーが巻きついた見上げるほど巨大なローラーの周りには、財団関係であろう複数の人が待機している。

 ワイヤーの先は、昨日よりは一回り小さくなった穴へと続いていた。

 ……あの先に、表の僕がいるのか。そう思うと、なんだか胸の辺りが苦しくなった。


「……ロールが止まっている。既にワイヤーは切れているようですね」


 ローラーを観察していた曽根崎さんが帰ってきた。田中さんは頷くと、同じく機械に目を向ける。


「さっきまで実に勢いよく回っていたんだがね。ある地点を境にピタッと止まってさ」

「でしたら、もう表の景清君は過去に飛んだと見ていいでしょう。部隊及びローラーを撤収させても問題無いかと」

「あら、いいの? ボクはちょっと性急だと思うけど」


 話し込む曽根崎さんと田中さんの間に、ニョキッと美女の頭が生える。柊ちゃんだ。


「なんだよ、何か文句あるか」

「文句というか……もし良かったらなんだけど、機械だけでも残しといてもらえないかしらと思って」

「その根拠は?」

「万が一ってこともあるじゃない。もし何か上手くいかなくって、また表の景清とワイヤーが繋がったらどうすんのよ。歴史的に見ると裏の景清は無事にここまで来てるけど、何か起こる可能性だってゼロじゃないわ」

「……あー、どうかな。なぁ景清君、穴に落ちた後、一時的にワイヤーが再度繋がるような事はあったか?」

「覚えはありませんが、黒い男も絡んでいたので絶対無いとも言い切れず……」


 つい、もごもごとした返答になってしまった。

 ……確かに、未知数の力を持つ黒い男と会った事が僕の判断を曖昧にさせているのは間違い無い。けれどそれにも増して歯切れが悪いのは、僕自身穴に落ちる直前に柊ちゃんから言われた事をはっきりと覚えていたからだ。


 “穴が閉じるまでは、見守っててあげるわ。だから、安心してシンジに会ってきなさい”


 ――優しいこの人のことである。例えもう僕がいなくなったと分かっていても、自分の言葉を守ろうと動いてくれているのだろう。


「……ま、ローラーの一つぐらい全然いいよ。しばらくそのままでも」


 懐手をした田中さんが言った。


「何が起こるか分からないから、部下は一旦引き上げるがね。君が言うなら、ガニメデ君引っ張り機はここに置いておこうじゃないか」

「あのローラー、そんな名前がついてたんですか」

「最初は“ゼウスの利き手”という名前で呼んでいたんだが、滅法不評でねぇ。ロック君を筆頭に皆“引っ張り機”と呼び始めるもんだからもう」

「あ、それで良かったと思います。“ゼウスの利き手”の方がカッコいいですが、覚えやすいのが一番ですし」

「え、カッコいい?」


 田中さんが嬉しそうにこちらを見たが、曽根崎さんが「早く行くぞ」と言うので慌てて返事をした。そうだ、穴だってあまり放置しておくと次に何が起こるか分かったものじゃないのである。

 僕ら四人は、昨日のビルへと急いだ。










 だが、ビルの前まで来た時である。僕と曽根崎さんは同時に足を止めた。


「どうしたの?」


 柊ちゃんが振り返る。けれど僕らは、ビルの四階の窓を見たまま少しも動けなくなっていた。

 そちらに視線を置いたまま、曽根崎さんが張り詰めた声で言う。


「……景清君。もしかして君も?」

「……はい」

「クソ、だとしたらただの幻覚じゃないな。まったくどうしたものか……」

「ちょっと、何があったのよ。急ぐんじゃなかったの?」


 柊ちゃんの焦れったそうな指摘に、僕はやっと窓から目を離して曽根崎さんを見た。……すっかり、彼の不審者面から血の気が引いてしまっている。だけどきっと、今の僕も似たような顔をしているのだろう。


「……“脅し”? もしくは“拒絶”か? なんだ、この圧は……」

「……分かりません。ただ、ものすごく嫌な感じがします」


 それでも、行かなければならないのだが。田中さんと柊ちゃんは訝しげな顔をしていたが、僕らは黙って階段へと向かった。

 部屋が近づくにつれ、嫌な気配と予感は濃厚になる。霊感なんてあるわけじゃないけれど、例えば未だホルマリン漬けの死体が放置されている廃病院の地下に夜一人で行けと言われたら、こんな気持ちになるんじゃないだろうか。

 だけど、足を動かしていればいずれドアの前まで来てしまう。


「……」


 ……開けたくない。怖い。悪い想像と現実が一致するのが恐ろしい。


「ねぇ、アンタらほんとどうしちゃったのよ?」


 硬直しっ放しの曽根崎さんと僕に業を煮やしたのか、柊ちゃんがとうとうドアノブに手をかけた。

 金属製の軽い音がした後、キィとドアが開かれる。


 そして、悪い予感は的中した。


 ――打ちっぱなしのコンクリートの部屋。ぽつんと中央に置かれたタブレットと、窓の外に向けて設置された機械。

 そこまでは昨日と同じだった。何も変わっていなかった。


 決定的な異質は、部屋の奥の両隅。


 ――薄汚れて、みすぼらしい布が。

 まるで、両端に存在する事で対と成すかのような黒と白の浮浪者が。


 僕らに向かって、立っていた。


「……ッ……!」


 それを見た瞬間、僕の両足から力が抜けた。腰を抜かした状態で、わたわたと手足を動かして自分の体を必死で逃がそうとする。

 ――本当は、そんな行動を取るつもりなど毛頭無かった。けれど、どうしても体が言う事を聞かなかったのだ。


 僕の本能が、全細胞が、生きたければこの部屋にだけは入るなと喚いていた。

 少しでも、遠くに走れと。

 一秒でも、早く逃げろと。


「景清君?」


 しかし、あえなく田中さんに抱きとめられてしまう。


 ――やめろ、やめて。僕を逃がして。殺される。この部屋は嫌だ。殺される。殺される。


 目だけを浮浪者達に向けたまま、何とか彼の手から逃れようと腕をバタつかせる。だが、一見細身の田中さんには案外力があるらしい。僕を的確に抑えこむと、冷静に曽根崎さんに尋ねた。


「曽根崎君、君は大丈夫か?」

「……いえ。あまり良い気分では」

「そのようだね。何が起こったんだい?」

「……不気味な人間が……いや、あれは人では無いが……とにかく、人型の何かが二体、部屋の奥に突っ立っています」

「ふむ、幻覚ではないと?」

「景清君と同じものを見ている点から考えるに、少なくともただの幻覚ではありません」

「……それらは、何か僕らに危害を加えようとしているのかい?」

「……今の所は、まだ」


 ですが……と曽根崎さんは続ける。額には脂汗が浮かんでいた。


「――このまま部屋に入れば、間違いなく私と景清君は命を落とすでしょう」


 その発言に、僕は激しく首を縦に振って同意した。

 ――思い知らされていた。どんな言葉で説明されるより、僕は強烈に理解していたのだ。


 僕らは、あの場所に立つ彼らに、何かしらの“警告”を受けているのだと。


『……』

『……』


 ぐちゃ、ぐちゃ、と肉が擦れる粘着質な音がする。黒い浮浪者と白い浮浪者の胸辺りから、絵筆のように無数の指で構成された手が突き出ていた。

 悲鳴があがる。それが自分のものだと気づくまで時間がかかった。

 しかし浮浪者達は意にも介さず、ギチギチと関節だらけの腕を持ち上げる。そして黒と白の絵筆は、同じ場所を指した状態で止まった。

 その先には、街を飲み込まんばかりの巨大な穴。


「……外でやれ、というのか?」


 曽根崎さんが尋ねる。

 だが、浮浪者達は動かない。


「……封印の儀を。ここじゃなく、あの穴の前で?」


 黒い髭と目深にかぶったフードのせいで、顔が見えない。

 長い白髪と酷い猫背のせいで、顔が見えない。


 僕は、田中さんに支えられながら言い様のない寒さにずっと震えていた。


「分かった」


 だけど曽根崎さんはしっかりと頷いた。側にいた柊ちゃんに指示を出し、タブレットを回収してきてもらう。

 柊ちゃんに浮浪者の姿は見えないはずだ。それは分かるのだが、何故か浮浪者達にも柊ちゃんの姿は見えていないように感じた。


「持ってきたわよ、シンジ。ねぇ、穴の前でやるってんならボクもついて行って……」

「いや、穴を閉じる直前に何が起こるか本当に予測がつかないんだ。柊ちゃんは安全な場所まで離れていてくれ。田中さんが認識できる範囲にいれば、問題無いはずだから」

「……そう、分かったわ」


 タブレットを受け取った曽根崎さんが、震えの止まらない僕の前に座る。そして、手を差し出した。


「さあ、敵の本丸に乗り込みに行くぞ。いつまでそうして呆けているつもりだ、君は」

「……」


 挑発的な扇動に顔を上げる。

 ――曽根崎さんは、笑っていた。

 それでようやく、この人も怖くて堪らないのだと分かった。


「……失礼な。ちょっと転んだだけじゃないですか」


 ならば、僕もみっともない姿を晒し続けるわけにはいかない。

 若干覚束ない足で立ち上がり、背筋を伸ばす。無理矢理床を踏みしめて、震えを殺した。


「行きましょう。売られた喧嘩はレイズして返してやるのが僕の流儀です」

「おや、守銭奴の君が言うと説得力が増すね」

「バカにしやがって」


 曽根崎さんを小突いて、部屋から目を逸らす。不気味な気配は未だ背後に感じたが、悪態を一つ吐き捨てて二度と振り返る事はしなかった。

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