45 なんで君が

 底にいる“何か”が這い上がってくる前に、穴を塞がなければならない。

 僕は頭を振って、脳に湧いたイメージを掻き消した。そしてタブレットに向き直ると、無心で白線を引く。


「……いいぞ、代われ」


 次は曽根崎さんの二十七手目だ。

 変わらず、ローラーは回り続けている。まだ、まだワイヤーに残りはある。


「……ッ!」


 少々複雑な形だったように見えた。しかし曽根崎さんは難無く描き上げる。

 次は、二十八手目。ここから事態は少々難易度を増す。

 ひとまず白い線を描く。それから僕はくるりとペンをひっくり返した。

 タブレットの画面には、黒い線の上に赤いマークが入っている。


「……」


 そこを、“消しゴム”で消した。これは、黒い浮浪者を暴行していた男が消した線の分である。

 次の瞬間、走馬灯のように当時の光景が蘇った。男の悲鳴と逃げ惑う人達。黒い手に掴まれ、異次元に捻じ込まれていく体。男から伸びた六本指の手が、僕を深淵へ道連れにしようと迫ってくる。

 ――いや、幻覚だ。僕は手にした白いペンで、男の指の間を裂いた。


「曽根崎さん」

「ああ」


 交代する。ペンを構えた曽根崎さんが息を吸い、止める。そして寸分違わず、一部を消された黒線をなぞり直した。


「……ぐ」

「次、お願いします」

「分かっ……てる……!」


 次も、曽根崎さんの手である。

 その時の彼の目に何が映ったのだろう。一度虚空を見上げた曽根崎さんの目が、大きく見開かれた。

 悲鳴が上がる。

 だがすぐにタブレットに視線を戻す。

 殆どかじりつくような姿勢で、彼はペンを走らせた。


「あと、十手!」


 自分の番が回ってきた僕は、己を鼓舞する為に声を出す。――あと、少し。あとたった十手で、僕らはこの穴を閉じることができる。

 ロールは回り続ける。

 ペン先が画面に触れる。

 同時に、無防備な僕の首に不浄の青をまとった指が絡みついた。

 ねとりとした感触にゾクッとする。……だが、これも所詮は幻覚だ。無視する。


 しかし、隣に座る曽根崎さんがユラリと黒いペンを僕に向けてきた。……やめてくれ。それじゃまるで、刃物を握るかのような持ち方じゃないか。

 ――ああ、そうじゃない。彼は線を描こうとしているだけだ。決して、僕を殺そうとしているわけでは……。


「景清君」

「はい」


 曽根崎さんの口が開く。その目線は、僕の首に注がれていた。


「五千二百十七個の目を持った紫色の虫が君の首に無数にまとわりついているが、これは幻か?」

「……幻です。決まってるでしょう」

「だよな」


 頷くと、曽根崎さんは黒い線を引いた。

 画面を覗き込む。弾みで、僕の首から一匹の虫が落ちてきた。五千二百十七個の目が僕を見つめていたので、一つ一つ潰してやる。

 曽根崎さんも手伝ってくれた。


「すまん」

「なんですか」


 白い芋虫の背中をペンで引き裂く。剥き出しになった一筋の真っ黒な血管を、今度は曽根崎さんが切開した。


「私の見た虫は、幻覚だった」

「だからさっきからそうだと言ってるでしょう」

「そうだったか」

「はい」


 線を描く。

 虫が首から落ちてくる。

 虫が僕の腕を這い上る。

 線を描く。

 虫が笑う。

 虫に牙の生えた口などあるのだろうか。

 何を食べるのだろう。

 線を描く。

 虫が口を開ける。

 餌に狙いを定めている。

 餌?

 餌なんてどこにある?



 ――あああああああああああああああああ。



 ――餌とは、僕のことだ。



 ガコンッという激しい金属音で、ハッと我に返る。隣を見ると、曽根崎さんが黒いペンでひたすら地面を刺していた。

 ……違う、地面ではない。それに気づいた僕は、曽根崎さんに飛びついた。


「曽根崎さん、しっかり!」


 彼が突き刺していたのは、自分の手の甲だった。


「……ッは……か、景清君……」

「何してるんですか! ほんと……何を……!」

「……いや、もう大丈夫だ。それより、封印は……!」


 彼の言葉に急いで画面を確認する。

 ……タブレットは、問題なく稼働していた。それにひとまず安心した僕だったが、すぐさまさっき聞いた金属音の事を思い出す。

 この場所でそのような音を発するものといえば、ただ一つしか無い。僕と曽根崎さんは、巨大なローラーに目をやった。


「……!」


 そして、絶句した。


 ロールは、もう回っていなかった。その代わり、数トンはありそうな巨大な機械は傾き、穴に向かってピンとワイヤーを張っていた。


 ――あの無限かと思えた量のワイヤーが。

 地球何周分もあると豪語されていたワイヤーが。

 たった今、全て出尽くしてしまったのだ。


「……来ている」


 穴を注視する曽根崎さんが、緊迫した声で呟いた。


「上ってきている。何かが、ワイヤーを、伝って……!」

「な、なら早く封印を進めないと!」

「待て!」


 僕は、曽根崎さんの制止も聞かず白いペンを手にした。

 穴は、僕らの施した封印により今や大部分を閉じている。そのはずなのに、匂い漂うようなおぞましい気配はどんどん濃くなっていた。

 もう嫌だった。限界だった。はやくここから離れたかった。僕の弱さが露出して、内臓に噛み付き、そこからどくどくと出血している。体中が痛かった。不安と恐怖と後悔が、僕の命を削る音を聞いていた。


「これを……描けば……!」


 白いペンを持つ手が画面へと誘われる。

 そうだ、これさえ描けばいいんだ。だって、あとたった二手しか無いのだから。

 不思議と頭が明瞭だった。幻覚も見えなかった。これを成し遂げてしまいさえすれば僕はかの素晴らしき緑の常闇の最初の餌として呑んでいただけるのだという確信で心が満たされていた。


「君……様子が変だぞ!」


 ペン先をタブレットにつける。どうして曽根崎さんが僕を止めようとするのかが分からない。どうして真っ青なのかが分からない。


「なぜ……何故君が笑ってるんだ!!」


 彼が、何を言っているのかが分からない。


 分厚い白線を引く。





 深淵が、再びその巨大な口を開いた。

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