41 受け取るもの
冷たい空気の塊が、動いたような気がした。
暖かな布団の中で身を縮めた後、僕はうっすらと目を開ける。……まだ暗い。唯一の光源である街頭の灯りだけが、カーテンの向こうでぼやけていた。
なんだって、こんな時間に目を覚ましてしまったのだろう。少し考えて、そういえば何か物音がしたんだったと思い出す。
体を起こし、曽根崎さんがいるはずの床を見た。けれど、きちんと畳まれた毛布が残されているだけで、肝心のもじゃもじゃ頭はそこにいない。
「……曽根崎さん?」
僕が名を呼ぶのと、ドアが開く音がしたのはほぼ同時だった。
「曽根崎さん!」
「……なんだ、景清君。起きたのか?」
僕の声に反応してドアが閉まる。……どうやらギリギリの所で引き止めることができたらしい。
僕はベッドから温度の無い床に降り、急いで玄関へと向かう。
背の高いパジャマ姿の男が、靴を履いて立っていた。
「どこ行くんですか」
「家に帰るんだよ。今日一日パジャマで出歩くわけにもいかないし」
「その格好でですか?」
「君の服を借りられれば良かったんだがな。残念ながらつんつるてんで」
「それはアンタの図体がでかいのが悪い」
「だからタクシーで一度家に帰って、着替えてこようと思うんだ。心配すんな、すぐ戻ってくるよ」
「心配しますよ。この付近、結構警察の人が見回りしてるので……」
「私が捕まる前提で話すんじゃない」
「とにかく僕も行きます。ちょっと待っててください」
部屋に戻るついでに、時計を見る。時刻は、午前三時半。何故だかデジャヴを感じて、僕は眉を潜めた。
……なんだろう。前にも同じことがあったような気が……。
「あ」
とある朝の情景が蘇る。目蓋の裏に映るのは、曽根崎さんの事務所。
一人目を覚ました僕は、彼がもうこの世のどこにもいないという事実に吐くほど動揺した。
その時、ドアをノックする音と共に届けられた曽根崎さんのスーツ。
――そうだ、アレをしなければならないんだ。
一瞬で眠気が吹き飛んだ閃きの後、僕は曽根崎さんに向かって言った。
「曽根崎さん、ちょっと手伝ってください!」
「なんだ、突然どうした」
「あまり時間が無いんで、準備しながら説明します! とにかく、僕らは今すぐ曽根崎さんのスーツを血まみれにして六時過ぎに事務所へ届けないといけません!」
「何それ怖い」
僕は雑に顔を洗うと、引越しの荷物の中に紛れていた絵の具セットを探す為クローゼットを開けた。
疲れ過ぎていて洗濯すらせずに寝たのが、功を奏した。
部屋にかけていた曽根崎さんのスーツは概ね乾いており、絵の具で作った血糊を遠慮無くぶちまける事ができたのである。
「へぇ。じゃあ君は荷物に入ってなかったネクタイを見て、私が生きていると判断したのか」
絵の具を乾かす工程に入った曽根崎さんが、顔を上げずに尋ねる。
……ドライヤーの音で分かりにくかったが、なんとか聞き取って返事をした。
「ええ。絶対外さないと言っていたものだけがわざわざ除かれているなんて、いかにもアンタが好みそうなメッセージじゃないですか」
「実際は君のメッセージだったけどな」
「こうやって作業してる時点で共犯ですよ。あれは曽根崎さんからのメッセージでもあったと僕は断固として主張します」
「うちのアルバイト、ほんと譲らない」
曽根崎さんはドライヤーを置き、スーツを広げて乾き具合を確認する。
しかし、そこでふと思い出したように僕に顔を向けた。
「一つ、いいかな」
「どうぞ」
「私はてっきり、このグレーのネクタイをもって君がスーツの持ち主を断定したと思ってたんだ。けれど、そうじゃない。なら君は、一体何を見て判断基準としたんだ?」
「あー……」
そりゃ、その疑問は出てくるよなぁ。
言おうかどうしようか迷ったが、白状する他あるまいと観念する。僕はポケットを漁り、真っ黒な石のついたアクセサリーを取り出した。
それを見た曽根崎さんが、首を傾げる。
「おや、留め具でも壊れたか?」
「いえ。……実はこれ、僕のじゃなくて曽根崎さんのなんですよ」
「ほう?」
キョトンとする曽根崎さんに体を寄せて、僕は手にしたアンクレットを近づけた。
「ほら、いくつか細かい傷が入ってるでしょう? 多分曽根崎さんのアンクレットにも、同じような傷があると思うんですよ」
「……そのようだな」
「ああ、やっぱり。……で、これが一緒に入っていたからこそ、僕はあのスーツが曽根崎さんのものだと分かったんです」
「そうか、なるほど」
曽根崎さんがパチンと指を鳴らした。
「それに加えて、この不自然な傷のこともある。そこから君は、穴に落ちた私が三日前に戻って生きているんじゃないかと推理したんだな」
「はい」
「よくもまあそんなぶっ飛んだ発想ができたもんだ」
「うるせぇ、実際合ってたじゃねぇかよ」
「褒めてるんだよ、怒るんじゃない。……しかし、私は私でアンクレットを持っているから……」
「そうなんですよ。僕も、曽根崎さんに会えたら顔面に叩きつけてやろうと思ってずっと持ってたんですが、結局渡し損ねて」
手に乗せたアンクレットに目を落とす。さっきまでポケットに入れていたせいか、まだほんのりと温かい。
僕は少し躊躇った後、絵の具が乾いたばかりのシャツの上にそれを優しく置いた。
「……多分、これは今ここで使われるべき物だったんです」
長い旅が終わろうとしている今。時を越えてなおずっと僕と一緒だったアクセサリーを、持ち主に渡してやれぬまま、またあの苛酷に送り出すのは気が引けたが。
「このアンクレットは表の僕に引き継がれ、また僕と行動を共にします。……これでこそ、僕が持ち続けていた事に意味が出る」
「……」
「さて、やっと準備が整いましたね。後は道中で適当にスーツに泥をつけて、事務所に向かうとしましょうか」
「待て」
鋭い声にドキリとする。振り返ると、曽根崎さんも自分の声の強さに気づいたらしく慌てて手を振って否定した。
「ああすまん、なんでもないんだ。ただ、少しだけ待ってほしくて」
「どうしたんです?」
「……アンクレットを、交換しようかと思ってな」
「え、なんで?」
僕の見る前で、曽根崎さんは左足首からアンクレットを外す。それを血まみれのスーツのポケットに入れると、自分は僕が置いていたアンクレットを握った。
「や、ほら、君はこれを私に渡したかったわけだろ?」
「ま、まあそうですけど」
「……君は、か細い光だけを頼りに絶望的な可能性へと自ら身を投げてくれた。その間ずっと持っていてくれたこれを、また君に渡すのはなんだか忍びないと思って」
曽根崎さんの長い指が左足首に回され、漆黒の石が嵌め込まれたアクセサリーの留め具がかかる。以前見た時より傷が増えていたが、鈍い光はちゃんとそのままだった。
「――だから、このアンクレットはここで私が受けとるべきだ。そう思う」
「……」
「それじゃ行こうか。歴史を確定させる為、聡い君に未来を提示する為に」
服をビニール袋に詰め、立ち上がる。パジャマ姿の男はスタスタと玄関に向かった。
「……おい、どうした?」
動かない僕を不審に思った曽根崎さんが、振り返る。
――曽根崎さんを追わなければならないのは、分かっていたのだが。
「……いえ、なんでも」
力の抜けた足で、無理矢理立ち上がる。
自分の胸に湧いた奇妙な安堵感に戸惑い面食らい、半分腰が抜けたようになってしまっていた事だけは、どうあっても誤魔化したいと思っていた。
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