40 風呂

 ――今思えば、やはりあの時の僕はどうかしていたのだろう。

 曽根崎さんは病院に預けてもいい状態だったし、僕だって一人で帰っても良かった。

 別に、こうしてわざわざ面倒を見てやらなくても。


「さぶっ」


 家に帰るなり、あまりの寒さに身震いをした。

 ツクヨミ財団の人に乗せてもらった車には暖房がついていたが、家となるとそうはいかない。僕は動きの鈍いオッサンをその辺に捨て置くと、さっさと自分の服を一枚脱いで靴下と一緒に洗濯機に突っ込んだ。

 それからお風呂に湯を張る。とにかく今は体温を上げなければならない。


「曽根崎さん、動けそうですか?」


 バスタオルをかけてやりながら、尋ねる。しかし返事は無い。


「一番風呂は譲ってあげますから、せめて服ぐらい自分で脱いでくださいよ」

「……」

「……あー、もう!」


 動かない曽根崎さんを仰向けにし、スーツのボタンを外してやる。流石に洗濯機に突っ込むのはいかがなものかと思ったので、その辺のハンガーにかけて吊るしてやった。

 続いてスラックスも同じくしてやろうかと思ったが、濡れているせいで足に張り付いてうまく脱がせられない。そうやって数分悪戦苦闘している内に、お風呂が沸いた。


「よいしょ」


 やむなくそのまま曽根崎さんを抱き上げる。疲れているのもあって、この時の僕はだいぶ面倒くさくなっていた。

 風呂の戸を開ける。そしてそのまま、勢いよく湯船にぶち込んだ。


「わーっ!?」


 ザブンと上がる水しぶきと三十路の悲鳴。自分にかかったお湯がやたらと温かくて、そこはなんだかホッとした。


「か、景清君……」

「はい、僕ですよ」

「これはなんだ」

「お湯です」

「お湯……」


 お風呂に沈む曽根崎さんが、弱々しく視線を泳がせる。

 ……それすらもよく分かってないのか。これはだいぶやられてるな。

 僕は、洗面器でお湯をすくって頭からかけてやった。


「ぶぶぶぶ」

「ワカメの妖怪って感じですね」

「……あー……うわ、なんだこれ。なんで服着たまま風呂に入ってんだ私」

「あ、やっと気がつきましたか。まあいいじゃないですか。昔はよくあったでしょう、そういうこと」

「昔って……」

「ほら、温まったなら早く出てくださいよ。僕も寒いんですから」

「……」


 少し間を置いた後、曽根崎さんが腰を浮かす。出てくれるのかなと思ったら、次の瞬間僕は両腕を掴まれ浴槽に引きずり込まれていた。

 とぷんと温かい世界に包まれ、ゴボゴボという水の音しか聞こえなくなる。水を吸ってしまった鼻の奥が痛い。僕は急いで顔を上げると、無表情を気取るワカメ頭を引っ叩いた。


「何すんだ曽根崎!」

「いや、寒いと言うから」

「だからって普通こんな頭の悪いことします!?」

「まあまあ。経済的というならいっぺんに入る方がいいだろ。せっかくだし温まっていけ」

「いやどの立場からの発言だよ。ああもう、この浴槽めちゃくちゃ狭いんですよ。ほら見て床すっごい。僕まで入ったせいであんなに溢れて……」

「アルキメデスの原理だっけか。風呂に入って思いついたという……いかん、ド忘れした」

「知りませんよ。うわー勿体ない。二人で入ると分かっていたら水嵩二センチぐらいにしといたのに」

「それもう無い方がマシじゃないか?」


 狭い風呂の中で、服を着たままの男が二人お湯に浸かっている。なんだよこの状況。

 だけど温かい。皮膚に熱がしみ込むようだ。ずっと濡れっぱなしだったもんな、今日。

 体を丸めて強引に肩まで浸かり、僕は長く息を吐いた。


「……曽根崎さん」

「ん」

「今日は、疲れましたね」

「うん」

「……計画は、成功したんでしょうか」

「少なくとも私はそう思っている」

「……なら、阿蘇さんと藤田さんは、またいつも通りの生活に戻れるでしょうか」


 心が落ち着いてくると、それにつけ込むようにまた別の不安が出てくるものだ。僕の問いに、水面に無精髭の残る顎をつけた曽根崎さんは頷いた。


「戻れると思う。二人とも、彼らを日常たらしめる場所は残っているからな。人は精神的な非日常を経験したとしても、物理的に日常を感じる場が残っていれば割合早く元の生活に戻れるもんだ」

「日常を感じる場って、仕事とかですか?」

「それもそうだし、人もだな」


 人も?

 湯気を片手で払いながら、僕は首を傾げた。


「……人という存在は、時として“場所”にもなる。見知らぬ土地に行ったとしても、家に帰って気安い人間がいれば多少落ち着くだろ?」

「それは……そうかもしれません」

「忠助なんかは特に、自分の帰る場所を人に置く人間だった。……故に、彼の前から一人でも失われようものなら、それこそ再起不能の事態に陥る恐れもあったんだ」


 ふいに、僕は曽根崎さんの声色がいつもと違っている事に気がついた。しかし横を見ても、濡れた髪で覆われた顔では表情を読み取ることはできない。


「――今回の策において、人を生かす為私は一切の手を抜かなかった。当然手段も選ばなかった。……その上で、ピアノ線で綱渡りをするような馬鹿げた賭けに、被害者である藤田君を勝手に乗せた。……本来は関係の無い立場であった、君でさえ」


 曽根崎さんが天井を見上げる。反動で、波紋が水面に広がった。


「後悔はしていない。時間が巻き戻ったとしても、あれが最も生存率の高い方法だと断言できる限り、私は同じやり方を繰り返すだろう。だが、それでも各人にかかる負荷の大きさは自明のこと」


 曽根崎さんの目がこちらを向く。


「なぁ」


 その漆黒の目を見て、ようやく僕はこの人が懺悔をしていたのだと知った。


「――その辺、君ならもっと上手くやれたのかな」


 ――笑ってみせたかったのか。

 僕の前で、見慣れた不審者面が不器用に歪んだ。


「……曽根崎さん」


 それに、僕は何度か目をしばたたかせる。

 ……ああそうだ。数時間前に僕も、この人に対して同じような事を思ったばかりだったのだ。


 何となく、彼の言いたいことは理解していた。

 自分が間違っていたとは思わない。ただし、最善かと問われるとそれも分からない。

 けれどもし、今の曽根崎さんの中に無いものが充足していたとしたら。曽根崎さんには無くて、僕にはある何かが判断材料として含まれていたとしたら。


 ただ、それだけのことなのだ。狂気に削られきった精神状態の隙間で、一つの“もしも”がよぎっただけのこと。


 髪から落ちた水滴が、音を立てる。狭い浴槽では、互いの肩が触れるほど距離が近い。


 ひたすら温かな空間で、僕は反響する声に気をつけながら言葉を返した。


「……僕にとって、誰かが傷つくかもしれない判断は下し辛いものです」

「うん」

「だから正直、僕では今回の曽根崎さんのような指示ができたかどうかは分かりません。……無理寄りかなとは思いますが」

「そうか」

「……いや、うん。僕じゃできないな。やっぱできない」

「いきなり弱気に傾いた」

「だって、曽根崎さんだったからこそあの計画を立てる事ができたわけじゃないですか。加えて、様々な手段の中から一番生存確率が高いと判断できた。……僕では、そう上手くいかなかったと思います。曽根崎さんみたいに頭が良くて、手段の為にかかる負荷を割り切れるほどの決断力があればと思いますが、そうじゃない」

「……」

「でも、曽根崎さんは、僕であればもっと上手くできたかもと思ってくれたんですよね」


 ……あれ、なんだか話がこんがらがってきたな。ちょっともう一度考えてみよう。

 もし、僕が曽根崎さんの立場であればどうしていたのか。あんなすごい計画を立てられるかどうかは別として、僕であれば色んな人にかかる負荷を少しでも減らそうと動いたかもしれない。例えば、藤田さんに事情を伝えて、一緒に乗り越えようと説得するとか……。

 ……でも、これだって今更口に出してどうなるという話ではないのだ。後でああだこうだ言うなんて、あまりに卑怯過ぎるではないか。


 湯気が温かい。心地よい温度に頭がボーッとする。

 手のひらで液体を掬い上げて、また戻してみた。


 ――まぁいいか。疲れているのにも加えて、ちょっと眠いんだよ僕。

 水に濡れた前髪を後ろにやって、僕はとっとと結論を言おうと口を開いた。


「……だから、その……僕思ったんですよね」

「何を?」


 湿った空気を吸う。考えるのをやめて、思い切って言ってしまう。


「……曽根崎さんが足りないと思っている部分は、これから僕が補えないかなって」


 パチャ、と水が跳ねた。曽根崎さんがこちらを向いたのかと思って、そちらに目をやる。

 だけどその顔を見てギョッとした。何故か奴はポカンと口を開け、世にも奇妙な生物でも見たかのように唖然としていたのである。


「え、なんです!? なんですか!?」

「……君」

「はい!?」

「マジで一体何なんだ?」

「何ですか。何なんだって何なんですか」

「……あー、何だろうな。ほんっと何なんだろうか、君という奴は。分からん。全く分からん……が……。何? 君が私の不足を補ってくれるというのか?」


 そう改めて口にされると小っ恥ずかしい。急に羞恥心がこみ上げてきた僕は、曽根崎さんの肩を手で押し向こうに追いやろうとした。


「もういいです。さっきのは聞かなかった事にして、五秒の内に忘れてください」

「なんだよ、恥ずべきことなど何も無いだろう。なんたってこの私の不足箇所を補えるんだ。長所の一つとして大いに自慢し……」

「5、4、3、2」

「カウントをやめなさい」

「チクショウ、何が長所の一つだよ。嫌味か? 本気か? どうせ本気なんだろ、この尊大野郎」

「まぁそうやさぐれるな。……しかし、本当になんでなんだろうなぁ。や、多分嬉しいんだよ。私は」


 僕の手をどけて、狭い浴槽でこちらに向き直る。それから曽根崎さんは、ぐしゃぐしゃと僕の髪を掻き撫でてきた。


「君が、私の不足を埋めると言ってくれたことが。そんな人間が、自分と同じ時間に生きていることが。……私の目の前で、今確かに存在しているということが」


 そしてあまりにも自然に、曽根崎さんはくしゃっと笑み崩れた。


「――私は、とても嬉しい」

「……」


 しばらく、僕は何も言えなかった。混乱し、ありとあらゆる言葉がとっ散らかって、掴めない。だけどどれを選んだ所で、今の僕の感情を正しく表せる気がしなかった。


 言葉が、胸に迫り上がる思いにちっとも追いつかなかった。


「……」


 迷いに迷って、やっと僕は喉から声を絞り出す。


「……出ます」

「え、なんで。もう少し入っていけよ」

「ご飯。ご飯を作ります」

「あ、ありがとう。味噌汁がいい。白米がいい。今日は疲れたからできるだけ消化のいいものがいい。でも味は濃い目で……」

「だからアンタそういう事言える立場じゃないからな!?」

「私は客人だぞ。もてなせ」

「どちらかというと要介護者を一時的に引き取っている心情なのですが」

「とにかく私はもう少し温まる。そして体を洗ってから出る」

「そうしてください。ちゃんと服は脱いでくださいよ」


 ザバッと立ち上がり、浴槽の縁をまたぐ。一気に水嵩は減ったが、曽根崎さんは気にしていないようだ。


「……顔が赤いぞ。のぼせたんだったら、しっかり水を飲めよ」

「うるっせぇ」


 そこは気にしなくていいんだよ!

 出る間際、オッサンを振り返りもせず洗面器を投げつけた。

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