39 ここまで

 ――三手目。曽根崎さんは一息で描き上げる。


「黒い線が出力された」


 ――四手目。僕は無心で描ききる。


「白い線が出力された」


 ――五手目。ペンを持つ曽根崎さんの手が震えている。


「黒い線が出力された」


 ――六手目。僕の脳裏に一瞬汚れた白い布が映る。


「白い線が出力された」


 ――七手目。曽根崎さんが笑っている。


「黒い線が出力された」


 ――八手目。白い浮浪者がこちらに近づいてくる。


「白い布に気を付けろ」


 ――九手目。曽根崎さんが笑っている。


「それは我らが網膜の敵だ」


 ――十手目。白い浮浪者が僕の前で立ち止まる。


「決して顔を見てはならない」


 ――十一手目。「顔が見たいか。顔が見たいか。顔が見たいか」


「君は血の混ざった脂肪の塊に手を突っ込んだことはあるか?」


 ――十二手目。浮浪者の手が白いフードにかかる。じわじわと持ち上げられる。


「雨はいい。簡単に人の体内に入り込める」


 ――十三手目。僕は首を横に振る。嫌だ。そんなもの見たくない。僕は今この線を引かなければならない。やめろ。見せるな。


「君を助けることはできない」


 ――十四手目。何故、僕の目は五つに増えているんだ?


「醜い愚か者め。役立たずの穀潰し」


 ――十五手目。目はこんなにいらない。二つでいい。白いペンで腕に現れた目を潰す。青色の腐った液体が流れてそこから白い浮浪者が顔を出した。


「汚い。汚い。こっちを見るな。触ってくるな」


 ――十六手目。「顔を見ろ顔を見ろ顔を見ろ」


「顔を見ろ顔を見ろ顔を見ろ」


 ――十七手目。潰す。目を潰す。浮浪者の顔を潰す。浮浪者は次々と僕の目から現れる。キリがない。潰す。潰す。青い液体が床に広がっていく。

 顔が、顔が、顔が、顔が、僕を見る。

 その顔は、全て、全て――。

 


「景清!!」


 ――鋭いハスキーボイスと共に、僕は押し倒されていた。コンクリートの床に軽く頭をぶつけた衝撃と、間近にあるあまりにも整い過ぎた顔。それらに揺さぶられた僕の脳は、僕を覗き込もうとしていた幻の顔を一瞬にして打ち消した。


 ……柊ちゃんだ。


「柊ちゃんだ……」

「ええ、そうよ! 景清、ボクのことが分かる!?」

「は、はい……」

「良かったわ! まったく、『顔が見たい、顔が見たい』って何ワケの分かんない事言ってんのよ!? ま、どんな顔を見たかったとしても、このボクのお顔一つで十分でしょうけどね!」

「確かに」


 自分の腕を見る。さっきまで埋め尽くすように目が現れていたというのに、綺麗さっぱり消えてしまっていた。耳を澄ませても、もう幻聴すら聞こえてこない。

 ……いやほんとすげぇな、この人。美貌だけで僕の幻覚全部打ち消したぞ。

 じわじわとはっきりしてくる頭を一振りし、柊ちゃんから貰ったペットボトルの水を飲む。そこでふと、そのラベルが最後に飲んだものと違っていると気づいた。


「……柊ちゃん。さっきまで僕が飲んでたペットボトルは?」

「ん? 何言ってんのよ、アンタさっきからずっとそれを飲んでるじゃないの」

「……え?」


 ペットボトルに目を落とし、それから思いついてスマートフォンを取り出して時間を確認する。

 驚愕した。一筆目から、既に三時間以上も経っていたのだ。


「しゅ、柊ちゃん!」

「なぁに?」

「今何筆目ですか!? ……そ、それより曽根崎さんは……!?」

「シンジなら、そこ」


 柊ちゃんが指を差した方向を見る。……部屋の隅で、頭を抱えた曽根崎さんがガタガタと震えてうずくまっていた。


「……途中までは、むしろアンタよりしっかりしてたのよ。でも突然笑い出して、怒り出して、叫んだかと思ったら……」

「……あんな感じになったんですね」


 無理もない。ミートイーターを引き抜く為の呪文を唱えていた時から、彼の精神状態はギリギリだったのだ。恐らく、僕より酷い“何か”を見たに違いない。

 多少フラついたが、なんとか立ち上がって曽根崎さんの元に行く。彼の側についている田中さんが、穏やかな笑みで僕を見上げた。


「あと四筆で、今日の分は終わりだよ」


 曽根崎さんの背に手をやりながら、彼は言う。


「その為には、もう少し曽根崎君に頑張ってもらわにゃならないんだがね。見ての通り、ペンはおろか僕の手を払いのけることすらできやしないようだ」

「……ジジイ……離れろ……!」

「ま、かろうじて憎まれ口は叩けるようだが」


 ……正気は残っているらしい。

 僕も隣に座り、曽根崎さんの腕に手を添えた。


「……曽根崎さん」

「……かげ……」


 体が冷たい。雨に濡れたまま数時間放置されているのだ、それも当然かもしれない。

 もう一度スマートフォンの時計を見る。少し考えて、僕は提案した。


「……ねぇ曽根崎さん。もう、今日はここまでにしときませんか」

「……」


 いつにも増して酷い人相になった曽根崎さんが、ゆっくりと顔を上げる。真っ黒な目だけが、いつも通りだ。


「今日は、色々な事が起こり過ぎました。僕も貴方も、それで随分と消耗しています。……でも、一晩休むことができればだいぶ回復すると思うんです」

「……」

「このままでは、下手をすると明日のパフォーマンスにも影響が出るかもしれません。目標数値には達してませんが、僕らが再起不能になっては何の意味も無い。だから、今日は切り上げられませんか」

「……それ、は」

「できますか?」

「……でき、る。ここで切り上げても、特に問題は無い、と思う」

「では、もう帰りましょう。田中さん、柊ちゃん、ここってこの状態のまま置いておけますか?」

「ああ。ビルの持ち主に許可は取ってあるし、邪魔者が入り込まないよう交代制で部下に見張らせるつもりだよ」

「ありがとうございます。……曽根崎さん、立てますか?」

「……」


 立ち上がろうとはするが、足に力が入らないらしい。

 なら、仕方ないな。

 僕は一度自分の肩をぐるりと回すと、曽根崎さんの腕の下に頭を潜り込ませた。


「はい、せーの」


 左足で踏ん張って、でかい図体を持ち上げる。それなりに重たいが、まあ歩けないほどではない。

 体勢を整えると、僕は柊ちゃん達を振り返った。


「それじゃ、僕はこのオッサンの介抱を引き継ぎます。すいません柊ちゃん、明日の朝、表の僕から電話が来たらどうか付き合ってやってください」

「ええ、事前に聞いた通りにすればいいのね。任せなさい」

「田中さんも、ご面倒をおかけします」

「なんの、お安い御用さ。最後の仕上げと思えばね」

「ありがとうございます」


 頭を下げ、「曽根崎さん」と声をかける。どんな精神状態なのかはいまいち判別つかないが、小さく返事をした後口の中でブツブツと何かを呟き始めた所を見るに、あまり良くはなさそうだ。


「構わんよ、もう休ませてやりなさい。表のガニメデ君はこちらで事務所に運んでおくから」

「すいません。では、お先に失礼します」


 田中さんの言葉に甘えることにする。僕はもう一度頭を下げると、ずるずると曽根崎さんを引きずってドアを開けた。


「……あの子、至極ナチュラルにシンジを連れ帰ったわね」


 ドアを閉める直前に耳にした柊ちゃんの発言は、早々に忘れることにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る