38 まずは二十手

 そのビルの四階には、窓に設置されたゴテゴテとした機械、田中さんと柊ちゃん、そして床に転がされた“僕”がいた。


「……あの、もう一人の僕が気を失ってるんですが……」

「致し方ナシね! だってめちゃくちゃシンジの名前呼んで暴れてたんですもの!」

「ほう」


 要するに黙らされちゃったらしい。

 そんで柊ちゃん、どうか余計なことは言わないでくれないだろうか。もう少し聞きたそうに身を乗り出すオッサンの足を踏んづけ、僕は冷たく牽制した。


「聞き間違いでしょう。曽根崎さんの名前じゃなくて、桜の開花状況を叫んでたんです。“五分咲きじゃん五分咲きじゃん”と言ってたんです」

「“曽根崎さん曽根崎さん”じゃなくて?」

「錯乱してたんじゃないですかね。それより穴を塞がなきゃ。装置はどこですか」


 そう言うと、少し遠くにいた田中さんが僕に声をかけ手招きしてくれた。彼の足元には、大きめの液晶タブレット。

 柊ちゃんが渡してくれたタオルで頭や手を拭きつつ、曽根崎さんと僕はその前にしゃがみこんだ。


「田中さん、準備はできてますか」

「一応、僕の方で抜かっている描き順は無いかなどの確認はしたがね。念の為、君も見ておいてくれ」

「ええ、ジイさんの認知力に人類の命運をかけるわけにもいかないですし」

「驚いたよ。君はこんな状況ですら減らず口を叩くのかい」

「減らず口は心の余裕、と教えてくれたのは貴方でしょう。……景清君、五分くれ。すぐに最終チェックを終わらせる」


 曽根崎さんが、資料から描き順を照らし合わせ始める。その間、手持ち無沙汰になった僕は何となくもう一人の“僕”を眺めていた。


 僕と同じ顔の男が、静かに胸を上下させて眠っている。けれど眉間に皺が寄っている所を見るに、あまりいい夢は見ていないのかもしれない。

 頭を撫でる。少し硬めの髪が、手の平に刺さる。ちっとも起きる気配の無い僕に、少しため息をついた。

 ……きっと、肉体的にも精神的にも疲れ果てているのだろう。張り詰めていた三日間と、目の前でボロボロになった阿蘇さんと藤田さん。とどめに、僕を庇って穴に落ちた曽根崎さんのこと。

 これからの彼は、何も助けられなかった己の無力を全部一人で受け止めなければならないのだ。


 彼の未来を知る僕は、死んだように眠る自分に言いようのない同情を覚えていた。


「……いい子よ、この子。最後までシンジを助けようとしてたもの」


 そんな僕の様子に気付いたのか、柊ちゃんが隣に来てくれた。タブレットに集中する曽根崎さんの邪魔にならないよう、小声で耳打ちしてくれる。


「だからこの景清も、絶対シンジを助けに行ってくれるわ。ボクだって、ちゃんとこの子が穴に落ちるまで見守ってあげる。安心なさい」

「……ありがとうございます」

「なんてことないわよ。だってこれから一番頑張るのは景清なんだもの」


 柊ちゃんは美麗な顔でにっこりと微笑んだ。


「大丈夫、ここまで来れたアンタとシンジならできるに決まってるわ。ボクも一緒にいてあげるから、しっかりやんなさい」


 柊ちゃんから向けられるまっすぐな信頼に、戸惑いながらも頷く。それから、「よし」と気合いを入れ直した。

 この美しくて強い女性の期待に応える為にも、僕はもうひと頑張りしなければならない。


 曽根崎さんから白いペンを差し出される。どうやら確認作業は終わったようだ。

 僕はそれを受け取り、上空から映した穴が表示されているタブレットの画面を見つめた。


「――枚数、順番に不足は無かった。やるぞ、景清君」


 先攻である曽根崎さんは息を吸い、黒いペンを器用にぐるりと回す。


「事前に言った通り、この作業は今日一日で完遂させることはできない。まずは、半分。二十手まで。そして続きは、明日君が穴に落ちた後だ」

「承知しています」

「うん。そして恐らくだが、これはとても精神的に辛い作業になると思う。故に、少しでも違和感をあればすぐにペンを置け。焦る必要は無い」

「はい」

「ただし手をつけたというなら話は別、その時は最後まで描ききってくれよ。でないと封印の効力が失われてしまうから」

「分かりました」

「……よし」


 一通りの注意を終えた曽根崎さんが、タブレットに向かう。人差し指で一つタップすると、黒い点で囲まれたグレーの横線が現れた。

 ペンを握る彼の手に力が入る。呼吸を整え、一気に真横に線を引いた。


「――黒い線が出力された」


 窓の外を見る田中さんが、僕らに状況を教えてくれる。穴は見えなくても、誤作動無く映像が出力されたかどうかは確認できるのだ。珍しく緊張しているのか、ご自慢のバリトンボイスが少し震えていた。

 曽根崎さんに目をやる。目眩がしたのか片手で頭を押さえてはいるが、とりあえず問題は無さそうだ。


 けれど、それが甚だしい見当違いだとすぐに僕は思い知らされることになる。


「次は、君の番」


 低い声で促され、僕は曽根崎さんに代わってタブレットの前に行く。白い点で囲まれたグレーの線は、大きな円を描いていた。


「……」


 白いペンを画面につける。……大丈夫、全然大したことじゃない。ただ気をつけて線を引けばいいだけだ。

 震えないようしっかり握る。点線からはみ出ないよう、慎重にペンを滑らせていく。


 だが、それが四分の三まで到達した瞬間である。

 突然、ドクンと僕の心臓が大きく鼓動した。弾みで僅かに手が揺れるも、なんとか耐えてペンを持ち直す。

 汗が噴き出る。目の前が暗くなる。感覚が無くなっていく手先は、決して雨に冷えたせいではない。


 ――深淵に触れてはならない。

 続けてはならない。

 命が惜しいのなら。

 まだ人として在りたいのなら。


 知らない僕の声が、僕の思考をじわじわと侵していく。僕の中の正気が、ペンを手放せと必死で声を上げている。


 ――嘘だろ。

 まだ、一筆目なんだぞ。


「……やれ、景清君」


 硬直した僕の体の隣で、曽根崎さんが冷たく言った。


「言っただろ。一度描き始めたなら、描ききらなければならない。線が途切れると図の意味が変わってしまう。やり直すことはできない」

「……」

「描け。この一筆だけでもいいから、早く。これは君の選択した結果だ。ならば責任を、使命を果たすべきだ」

「……」

「捻じ伏せろ。狂気を上回るほどの君の倫理を執念と変え、喰らい尽くせ。君は何故ここにいる。君は何故こうしている。思い出せ。思い出したなら血が滲むほど胸に刻むんだ」

「……ッ」

「描け、景清」


 彼の言葉に、僕はギュッと唇を引き結んだ。

 ――そうだ、もうここまで来てしまったのだ。

 曽根崎さんを助ける為、藤田さんと阿蘇さんの運命を変える為。

 そして今は、これ以上の犠牲者が出ないよう穴を塞ぐ為。


 ペンを握りしめる。息を止め、ブレないよう勢い良く残りのラインを引く。画面は見ていなかった。見ることができなかった。


「……よし」


 田中さんの声がする。


「無事に白い線が出力された。ガニメデ君、曽根崎君に代わりなさい」

「は、はい」


 ぷはっと息を吐く僕の肩に手が置かれ、後ろに引かれた。柊ちゃんに背中を支えられる僕の代わりに、今度は曽根崎さんが前に出る。


「苦労をかけるな、景清君」


 ペンを持った腕をぎこちなく持ち上げて、背中越しに彼は言った。


「あと、十八手だ」


 余裕の無い声色である。しかしそれにすら僕は返事できず、柊ちゃんから差し出されたペットボトルに口をつけるのがやっとだった。

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