32 藤田直和の過去(3)信仰

 けれど、退団を思いついたとしてもすぐに実行できるわけではない。

 大人になって就職するまで。せめて、高校を卒業するまで。

 その日まで、オレはできるだけ強くならなければならなかった。


 とはいっても、どうすればいいのかなんて分からない。

 なのでとりあえず、友人の阿蘇を巻き込んで特訓することにした。ほら、健全な精神は健全な肉体に宿るっていうし。少年漫画とかでもそういう展開はよく見るし。


 しかし、それで阿蘇の方が強くなってしまったのは完全に誤算であった。未だ何度やっても素手じゃ勝てない。なんだよあの人間ゴリラ。


 そしてその間にも、景清は成長していく。なんとなくだけど、会うたびにオレに馴染んでくれて、少しだけなら笑顔も見せてくれるようになった。

 けれど、見えにくい場所につけられたアザだとか、時々目に落ちる暗い影だとか。そういった本来なら守られるべき家族に身も心も傷つけられる景清の姿に、オレは歯痒さでじりじりとしていた。

 (児童相談所には通報した。)


 それでも、なんとか変わりなく日々を過ごせていたのである。


 あの日、高校卒業を間近に控えたオレに教祖様が声をかけるまでは。


「――“血束の儀”、ですか?」


 聞き慣れない言葉に顔を上げる。教祖様は、オレを見て頷いた。


「そう。“我が血”が成人した暁には、その血をより濃いものとすべく血族の血を注がなくてはならぬ。――喜べ。全教団員の前で、“我が血”は更なる力を得るのだ」

「……お言葉ですが、血族の血とは……」

「お前の姉に子供がいただろう。確か、今は小学生ぐらいだったか。その者の血を全て搾り取り、全身に浴び、飲み干すのだ。さすればその子供の血は“我が血”に入り込み、教団はより盤石なものとなる」

「え……!?」


 止めようとした。いくら教祖様とはいえ、その命に応じることはできない。受け入れられないと。

 だがオレの行動はあっさりと阻まれる。教祖様が呟かれた言葉を耳にした途端、がくりと全身の力が抜けたのだ。僕の脳の動きは極端に鈍くなり、そこを狙うように教祖様のお言葉が入り込んでくる。


 すばらしきぎしきのためにちたばねのぎをわがちはよりこいものとなりすべてはきたるべきひのために。


 教祖様のお言葉は絶対だ。教祖様のお言葉に間違いはない。教祖様のお望みのままに僕は血を差し出さなければならない。


 ――でも、だけど。


 ……あの子、だけは。


 僕の脳裏を、虚ろな幼い笑みがよぎった。









 もうグズグズしてはいられなかった。景清が殺される前に、オレは一刻も早く教団を抜けねばならなかった。

 何故かは分からないが、教祖様から血束の儀について聞いたあの日以来、オレの頭は少しおかしくなっていた。今まで以上に教団が尊く思えて、教祖様が一層かけがえの無い存在に感じられたのである。何より、景清を助けたいと感じるのはおかしい事だと脳の一部が叫ぶようになっていた。


 そんなはずはない。そもそも、景清に限らず人の命を奪っていいわけがない。


 そう思ったオレは、何度か教祖様に直談判しようとした。が、結果は芳しくなかった。むしろ会えば会うほど、オレの脳の中にある何かが壊されていくようだった。


 ――このままでは、オレの中からオレが消えてしまう。


 根拠も無くそう直感した自分は、とうとう阿蘇の兄である曽根崎さんに頼ることにした。彼はオレの事情を知った上で一切の情を挟まず案を出してくれる人で、以前より時々こうして力を貸してもらっていたのである。


『……一つ、妙案がある』


 オレの話を一通り聞いた彼は、冷たい笑みをたたえて言った。


『だが、これを実行するというなら忠助を巻き込むことが条件だ。例えば、目の前で自傷した後に救急車を呼んでもらうとかな』

『え……な、なんでですか。オレ、阿蘇には何も知らせたくないのに……』

『自惚れるな。今のお前の精神状態でこの案が耐えられるかよ』


 曽根崎さんは、フンと鼻を鳴らした。


『……俺が思うに、藤田君を構成する柱は教団と忠助の二つだ。その一本が崩れたというなら、もう一本に縋るより他無い』

『……そんな、柱なんて大袈裟な』

『いいから言う通りにしろ。君だって生きていたいだろ?』


 ――その言葉は正しかった。

 オレの精神は、自分で思う以上に教団と同化してしまっていたのである。


 オレは、阿蘇の見る前で自分の腕を切った。切る場所は間違いないはずだったが、緊張で手元が狂ってしまったのがいけなかった。

 噴き出す血が止まらない。真っ赤な液体が腕を濡らし、服を濡らし、地面にこぼれて吸い込まれていく。


 教祖様の“我が血”が。僕の唯一絶対の価値が。

 瞬く間に、自分の体から失われていく。


「あ……阿蘇」


 急に、とてつもなく怖くなった。

 ――これを失っても、本当に彼は側にいてくれるのか。逃げ出さないでいてくれるのか。


 目が覚めた時も、そこにいてくれるのか。


 薄れゆく意識の中、僕は恐怖に目を見開く友人に手を伸ばした。











 そこから先の記憶は、断片的である。


 目が覚めた時、病室には誰もいなかった。やがてやってきた教団員には“血を汚し者”として蔑まれ、唾を吐かれ、暴行を受け、強制脱退を申しつけられた。看護師の人が気付いて割って入ってくれたからよかったものの、そうでなければ本当に危なかったのかもしれない。

 最悪だったのは、彼らの訪問により、オレはオレの体に他人の血が入ったのだと否応無しに自覚させられた事だった。

 気づいた瞬間、その場で吐いた。でも、いくら吐いても血だけは出てこない。一番吐き出したい血は、内臓にしがみついて離れなかった。


 それでも顔を上げ、心配そうにこちらを見る看護師のお姉さんに笑いかける。――平気ですよ。大丈夫ですよ。それより貴女めっちゃ美人ですね。今度お茶でもどうですか――。


 そんなことをしていると、阿蘇が病室を訪ねてきたのだ。


「――」


 多分、誰より会いたい奴だったと思う。なのに、うまく顔を見られなかった。うまく、声が聞き取れなかった。脳の一部は痺れたようになって思考がまとまらず、変に饒舌になったオレはぎこちない笑顔を振りまいていた。

 しかし、こういう時無駄に鋭いのが阿蘇である。虚勢はすぐに見抜かれ、オレはぽろぽろと本音を吐かされる事となった。


 ……なぁ、阿蘇。

 そんでもさ、オレは本当に平気だったんだよ。


「――ダメなんだ」


 ――大丈夫だ。全然平気だ。オレは人が好きだし、ちゃんと愛すことだってできる。

 人は不浄なんかじゃないし、何ならオレも彼らと同じ存在で……。


「――オレは、オレの血が汚らわしい。体中を這いずり回るこの血を、不浄を、一滴残らず口から吐いてしまいたくて堪らない」


 頼む、これ以上喋らせないでくれ。

 自分が救い難いほどどうしようもない人間であると思い知ってしまうではないか。


「――僕の心臓は、これを身体中に行き渡らせるために動いてるんだ! こんな、こんなことがあるか!? 不浄が、いずれ来たる死の際に深淵へと導く為に僕を生かしているって、そん、な、ことが、僕は、僕、は――!!」


 助けてくれ。助けて。頼む。

 苦しいんだ。頭が、うまく働かなくて。

 僕は、“我が血”でも“後継者様”でもない“ただの人間”なのに。

 ようやく、望んだ“ただの人間”になれたのに。


 お前と同じ場所に、行きたかっただけなのに。


「……生きていけない」


 ――生きたかっただけなのに。


 無意識の内に、怪我をした腕を掻きむしっていた。その手を阿蘇に取られ、握り締められる。


 同じ赤色の液体が流れる手は、温かかった。強過ぎるぐらいの力から阿蘇の意思が伝わって、胸が締めつけられる。

 ――優しいヤツだ。強いだけじゃなくて、本当に優しい、いいヤツだ。


 僕は、君のような人になりたかったんだと思う。


「……」


 なのに、情けないほど弱いままの僕は、曽根崎さんの言った通りこうして縋り付くしかできない。そしてそれを、彼も振り払わずにいてくれているのだ。


 普通なら、突き放されて当然の事だった。

 もう面倒は見切れない。もう巻き込まれるのはごめんだと、そう言って。


「……俺は、お前に生きてて欲しいんだよ」


 なのに、彼はまだ僕の手を離さない。


「赦してやるからいくらでも生きろ、ナオ」


 まだ、僕に笑ってくれるのだ。


「……ふふ」


 その笑みに、つられて自分も笑ってしまう。

 本当に、どこまでも人がいい。そういう所が、必要以上に厄介事を引き受けてしまう所以だろうに。


 ――ずっと、その姿が眩しかった。


 少しでも、追いつきたかった。走って、走って、いつか隣に並びたかった。

 胸を張って、友達だと言える自分になりたかった。



 でも、ここまでだ。



「――本当にいいんだね」

「いいよ」



 他でもない僕自身が、今、阿蘇忠助という存在を友人でも人でもない何かに追いやろうとしている。


 失望していた。

 彼に縋らないと生きられない自分の弱さに。

 そうまでして生きていたい自分の浅ましさに。


 けれど、ここで自分が消えてしまえば、誰より苦しむのは巻き込まれた阿蘇自身なのだ。昔からの友人が、自分の手を振り払い、死へと向かってしまったらどれほど傷つくか。それが想像できないほど、僕は人でなしではなかった。

 だからもう僕には、阿蘇から差し出された手を取るしか道は残されていなかったのである。


 ――ここまで見越していたというのなら、曽根崎さんは本当に残酷な人だ。


 繋いだ手に力を込める。

 真っ青な空と、草の匂いと、膝小僧から流れる血。とある夏の日の記憶を浮かべて、愛しくなぞって、目を開けた。


 それでも少し迷ったが、なんとか自分から手を離す。


「……神様には、触れられない」


 ベッドから降り、片膝をつく。両指を絡ませて、頭を垂れる。

 僕を救う為だけに。

 僕が生きる為だけに。



 ――今でも時間が巻き戻るなら、オレは迷いなくこの瞬間を選ぶだろう。奇妙に歪ませた顔を上げて、それに気づいた阿蘇から強めのビンタを食らって、全てを悪い冗談にしてしまって。


 だが、オレはもう選んでしまった。そうして生きてきてしまった。


「――」


 ――それでお前は今、どこにいる?


 藤田は、真っ白な光の中で目を開けた。

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