31 藤田直和の過去(2)甥っ子
それから時は経ち、僕がもうすぐ小学生になろうかという頃。
歳の離れた姉に、子供ができたと知らされた。
初めて会った甥っ子は、小さくて、赤くて、細くて、ふにゃふにゃしていて、目を離したらすぐに死んでしまいそうだった。人はこんな未完成のまま産まれてくるのかと、酷く驚いたのを覚えている。
こわごわと手を伸ばす。僕は、頬を撫でてやろうと思ったのだ。
すると赤ちゃんの手が動いた。あ、と思う間に、僕の指は柔らかな手に握りしめられていた。
生命たる熱を持った手。赤ちゃんのくせに、やたらしっかりとした力。
どれも確かな存在感なのに、この子はほんの一年前までこの世界にいなかったらしい。
「――いい子」
僕は、彼が生まれてきたことがとても嬉しくなっていた。
「……この者も、薄くではあるが儂の血を継ぐ者だ」
教祖様の血を顔に塗ることで洗礼としながら、偉大なる祖父は言う。
「価値はある。来たるべき日まで生き長らえさせるがよい」
少し変な言い方だなとは思ったのだ。だけどこの時の僕は、景清と名付けられたその赤ちゃんの笑顔をどうにか見たいとあやすのに必死だったのである。
だから、その意味を知ったのは、随分後になってからだった。
景清が五歳ぐらいになった頃、姉が彼を教団に連れてくることになった。
久しぶりに会えると分かった僕は、ワクワクして立ち会ったのである。
姉に頭を撫でられる景清は、小さな手をついてお辞儀をした。
「きょうそさま、こうけいしゃさま、これからよろしくおねがいします!」
だが、持ち上げた顔を見て仰天した。
景清は、子供の目をしていなかった。
礼儀正しい態度の中に精一杯の可愛げを振りまいて、教祖様や僕の顔色を伺っていた。余計な事は一切喋らず、初めて来た場所だというのに僕らの顔以外見ようとしない。
まるで、無理矢理大人にさせられた子供が、今一度ただの子供に戻れと命じられたかのような。
僕があの日見た赤ん坊は、そんな不気味な子供になっていたのである。
「……」
僕は、何か声をかけようとした。けれど教祖様への謁見中に喋ることはできない。口をつぐんで、景清の空っぽでくりくりとした目を見つめていた。
「うむ」
教祖様はあまり興味が無さそうに一つ頷くと、立ち上がってその場を後にした。……この方は忙しいのだ。祈りの時間も控えているし、これから信徒達の前で神託も述べねばならない。
けれど、姉はそれが我慢ならないようだった。教祖様に猫撫で声を出し、すがり、最後には喚き散らしていた。
でも、僕には都合が良かった。その隙に景清の元へと向かえたのだ。
「景清」
「はい、こうけいしゃさま!」
「僕のこと、覚えてる? 君が赤ちゃんの頃にも会ったことがあるんだよ」
「はい、ありがとうございます!」
子供のものだというのに、酷く空虚な言葉に背筋がゾッとする。……会話ができている気がしなかった。安いロボットに向かって話しかけているみたいな違和感に、僕はつい眉をひそめてしまう。
するとその時、初めて景清の表情が変化した。
彼の目は、僕の感情を敏感に察知し恐怖に揺れたのである。
それを見た僕は、余計に悲しくなっていた。
――ああ、この子はこんな感情だけに反応するのだ。
この子は、ずっと“自分が生かされている事”ばかりを突きつけられているのだ。
お腹の中がムカムカするようなよく分からない気持ちに、唇を噛む。
だが、何と返せばいいか迷っている内に、姉が帰ってきてしまった。
後継者となってから、僕は殆ど姉と話していなかった。こちらとしては仲良くしたいのだが、なんとなく向けられる敵意にいつも怯んでいたのである。
姉は、さっきとは打って変わって冷たい目で景清を見下ろした。
「――役立たず」
景清の肩が、ビクッと震えた。
そういうわけで、僕は“景清スマイル大作戦”を決行することにした。
「おじさんが甥っ子にしてやれること? なんかよく分かんねぇけど、お菓子とかあげたらいんじゃね?」
「そっか!!」
お菓子美味しいもんね!
アドバイザーである幼馴染のただ君の言葉を信じ、浄財入れに入っていたお金を掴めるだけ掴んで僕は姉の家に行った。大丈夫、このお金は何かいい事に使われる為のものなのである。なら景清の笑顔の為に使ってもいいはずだ。
よって僕はとぼとぼと家に帰る途中の景清の前に颯爽と飛び出し、半強制的に近くのコンビニまで連れてきたのである。
あまりに突然のことで驚いたのだろう。あの日教団で見せた張り付いた笑顔は微塵も無く、景清はただただ泣きそうになっていた。
「こ、こうけいしゃさま! ごめんなさい、ごめんなさい! かげきよは何かしましたか!?」
「してない! 大丈夫! お菓子食べよ!」
「おかし?」
景清は首を傾げた。けれどすぐに棚に並べられた商品を目にし、首を横に振る。
「これは、お母さんから“どく”と聞きました」
「僕と食べたら大丈夫! 美味しいよ!」
「え、えっと……はい……」
「ポテトチップスとか買おう。チョコも買おうね」
「あ、あの、おかねは……」
「おかねは僕が払うから!」
景清は、終始オロオロとしていた。そりゃそうだ、本来なら、一信徒がこうして後継者の自分と会って話すなんてまずできないことなのである。ましてや、お菓子を奢ってもらうなんて。
でも僕は景清の叔父さんだ。「叔父さんは甥っ子をかわいがるもんだ」ってただ君のお母さんも言ってたし。
「ありがとうございます……。い、いただきます……」
コンビニを出て、近くの河原に二人で並んで座る。チョコレートを毒と思い込む景清は、意を決したように口を開けてかぶりついた。
途端に、パチッと大きな目を開く。チョコレートを口から離し、しげしげと見つめる。それからもぐもぐと味わい、またパチパチとまばたきをした。
「……」
どうしていいか分からないようだ。だから僕は、「全部食べて」と促してやった。
景清は一心不乱にチョコレートに口に運び、あっという間に完食してしまった。指まで舐めている所を見るに、相当気に入ったのだろう。僕は笑いながら景清の口の周りについたチョコをハンカチで拭ってやり、言った。
「家に帰ったらしっかり歯磨きをするんだよ。虫歯になったら大変だからね」
「はい」
「美味しかった?」
「……はい」
まるで美味しいと思った事に罪悪感を抱いているような返事に、頭を撫でて「良かった、僕も嬉しい」と笑ってやる。景清は、驚いたように僕を見た。
「……僕と会った事は内緒ね。でも、これからも時々一緒に遊ぼう。また誘いにくるから」
「……ですが、かげきよは、こうけいしゃさまにあげられるものがないです」
「僕は景清の叔父さんなんだよ? お礼なんて考えないで。……いつか景清も、誰かに美味しいものをあげられる子になってくれたら、それでいいから」
「……こうけいしゃさま」
うつむく景清に、そういえば自分の名前はそうじゃなかったな、と思い出す。
「僕の名前は、藤田直和だよ」
「え……」
「だからナオ兄さんって呼んでくれないかな。僕と二人で会う時だけでいいから」
「え、え、ごめんなさい」
「えーと、じゃあナオくん」
「ご、ごめんなさい……!」
胸の前で両手をブンブン振る所を見ると、よほど抵抗があるのだろう。しかし僕も粘り、なんとか“藤田さん”と呼んでもらうことで決着がついた。
「それじゃまたね、景清」
「は、はい! ありがとうございます、ふじたさん!」
景清の表情は、まだ固かった。それでも、最初会った時と比べたらだいぶ柔らかくなった気がする。
次は、何を食べさせてやろう。そんな事を考えて楽しみになっている辺り、僕はやっぱり景清の叔父さんなんだなぁと思った。
「お前、最近変顔の練習ばっかしてるな」
「……」
「フハッ、おいその顔でこっち向くな!」
「甥っ子もこの顔でよく笑う」
「えーそれ口どうなってんだよ。せっかくイケメンなのにお前」
「確かに僕はイケメンだけど、甥っ子はイケメンってだけじゃ笑わない」
「お前ちょっと変わったな」
「そうかな? でもねぇ、やっぱ人って笑わなきゃ辛いと思うんだよね」
「ふーん」
「僕さぁ、自分の教団は人を幸せにする所だと思ってた節があったんだよ。でも、甥っ子だけじゃなくて他の信徒の人も、なーんか笑わないんだよね」
「へぇ」
「僕自身、制約がちょっとキツくてさ。いくら僕の血が大事だからって、運動会や修学旅行にも参加できないなんてなぁ」
「……」
中学生の春。僕は、ただ君と教室の掃除をしながらそんな事を話していた。
今年遅咲きだった桜は、今頃満開を迎えている。窓の外のに植えられた桜を見ながら、また彼と同じクラスになれて良かったな、なんてぼんやりと思っていた。
一方の友人は、箒で床をはく手は止めずしばらく無言で何かを考えている。
暖かな風が吹き込む。花びらが数枚流されてきて、僕らの服に張り付いた。
それを契機とするように、彼は、ぽつりとある言葉を発したのである。
「――もう抜ければ?」
その一言に、息が止まった。
――それは、天変地異が起きたかのような衝撃だったのである。
自分が、教団を抜ける。後継者たる自分が。教団とその教えに身も心も染まらせてきた自分が。
いや……考えてみれば、どうして今まで思いつかなかったのかが不思議なくらいの名案だった。
教団から抜ければ、僕は制約にも縛られる必要が無くなる。もっと自由にただ君と遊びに行ける。そして景清を引き抜くことができれば、三人で遠出をして、美味しいご飯を食べにだって行けるかもしれない。
「――あ、なるほどね」
平常心を装おうとしたのに、指先が震えていた。雑巾なんか、もう持っていられないほどに。
「その手があったか」
阿蘇に頭を小突かれる。気付いてなかったのかよアホ、と無責任な言葉を吐かれながら。
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