30 藤田直和の過去(1)一人ぼっちの蟻
「――よいか、我が血よ」
蝋燭のぼんやりとした灯りだけが、教祖様のご尊顔を照らしている。
その前に跪くのは、“五歳の僕”だ。
「人とは、愚かで醜く、汚物の中で喚く不浄である」
「はい、教祖様」
「故に、いくら我々の血に不浄を浄化する力はあれど、一滴たりとも無駄にすることはまかりならん。不浄が神聖なる炎に焼き尽くされるその日まで、神の手足である我らは共に歩む者を選ばねばならんのだ」
息がし辛い部屋だった。酸素が足りなくて朦朧としてくる頭に、それでも必死で御宣託を叩き込む。
本当は、教祖様の仰る言葉の半分も分かっていなかった。だけど、分かったふりをしていた。何故なら、僕は教祖様の“我が血”なのだから。
「つまり、怪我をするなどして無意味に血を流すこと。かつ我々の体に不浄の血を入れるなどもってのほかである。不浄は我らと近しい見目をしているが、その実は腐臭の泥と毒が詰まったただの肉袋なのだ」
「はい」
「証拠を見せよう。……隣の部屋に一つ不浄の成れの果てを用意している。我が血よ、其奴に触れてみるがよい」
教祖様に言われ、僕は立ち上がって隣の部屋を目指す。
ドアを開けた瞬間、鼻の曲がりそうな匂いに咳き込んだ。その部屋の中央には、どんよりした赤色の皮膚をぶくぶくと膨れ上がらせた人間が横たわっていた。
近づきたくはなかった。けれど、教祖様の言葉は絶対なのである。恐る恐る歩み寄り、僕はその人の隣にしゃがんだ。
手のひらが上を向いたその指に、人差し指で触れる。
途端に、僕は悲鳴を上げて飛び退いた。
――それは、自分の体とはあまりにも違っていた。ブヨブヨとしていて冷たくて、吐き気を催すほどに醜くて――。
うずくまって頭を抱える。その体が自分と同じ人間であるなんて、考えただけでどうにかなりそうだった。
「――これが、不浄の正体である」
ガタガタと震える僕の前で、教祖様が不浄の肉体にナイフを突き立てる。首から、どろりと黒い血が流れた。
「どうだ、醜いだろう。どうだ、おぞましいだろう。人間共に流れる不浄の血は、肉袋に収まっている体をここまで変えてしまうのだ」
「あ……あ……」
「しかし心配しなくてよい。……我々はな」
そう言うと、教祖様はご自身の腕をナイフで裂いた。そこから、尊き真っ赤な血がぼたぼたと流れる。
不浄の体から垂れていた黒い血とは、似ても似つかない。
「ほら、この通りだ。穢れの無い、美しい赤色をしているだろう」
「……は、い……」
「我が血よ、儂と血を分けたお前にも同じ血が流れている。……そう、此奴らは我々とは違うのだ」
「あ、あ……!」
声が思うように出てこない。だけど息を吸おうとすると不浄の空気まで吸ってしまう。耐えられなくなった僕は、部屋から飛び出した。
教祖様によって清められた水の入ったバケツを、頭からかぶる。足りなくて、片手ですくって飲む。髪の毛を、頬を、喉を、冷たい水が濡らしていく。
震えが止まらなかった。寒くて怖くて、不安でたまらなかった。
――あんなものが、あんな汚らわしいものが、この地球上のあらゆる場所でうじゃうじゃ歩いているなんて。
「……必ず、その日は来る」
教祖様の御手が僕の肩を抱く。温かな手にそこから体が浄化されていくような気がして、ホッとした。
「不浄の血を拒みたまえ。不浄の血を蔑みたまえ。神が不浄を焼き払う、その日まで」
神様から教祖様に託されたお言葉に、僕は自分の体を抱き締めて何度も頷いていた。
それでも、“その日”が来るまでできるだけ普通の生活を送る必要があった。だから、教祖様の薦めで僕はとある幼稚園に通っていたのである。
正直に言うと、辛くてたまらなかった。“ともだち”はみんな黒い“フジョウ”の詰まった“にくぶくろ”に見えたし、先生から伸ばされた手はあの部屋で見た醜い“フジョウ”を思い出させた。
僕は、人から遠ざかり続けた。
そうして、気づけば周りには誰も寄ってこなくなっていたのである。
「……」
それでよかった。その方が気が楽だった。
僕は一日中、庭の隅っこで蟻を眺めて過ごしていた。
別に、この生き物達が好きだったわけではない。むしろ気に食わない所だらけだった。みんな仲良しで、会えば挨拶をするし、喧嘩する所なんて見たことがない。大きな荷物があった日には、みんなが集まって力を合わせて巣に運ぶのだ。
まるで幼稚園にいる他のみんなのようだった。仲良しで、楽しそうで、自分とは全然違っていて。
でも、それなら一人ぼっちの子だっているはずである。僕は、毎日必死で一人ぼっちの蟻を探していた。
――なので、今更こんな僕に声をかける人間がいるなんて、思いもしなかったのである。
「お前さ、いつも何見てんの?」
ぶっきらぼうな声に、振り返る。
まず目に飛び込んできたのは、赤。どこで転んだのか、その子は怪我をした膝小僧に血を滲ませていた。
驚いた。赤色は、教祖様や自分にだけ流れているはずの色だったからだ。
慌てて見上げて、次に視界を満たしたのは青である。その子が背負った初夏の空に緑の葉っぱがやけに映え、ちかちかしてよく見えない。僕は目を細め、その子が何者か見極めようとした。
……誰だっけな。ちょっと怖い顔をしてる子だ。もしかしたら、同じ組の子じゃないかもしれない。
とりあえず、質問には答えようと返事をする。
「……蟻」
「蟻? 黒いやつ?」
「黒いのも、茶色いのもいる。大きいのも、小さいのも」
「へー。こいつは?」
「名前は知らない。見てるだけだから」
あんまり興味をもたれても困る。友達なんて必要ないし、なれたとしてもどうせ離れられるのだ。
だったら、最初からいない方がいい。
でも、胸の辺りはずっとバクバクとしていてうるさかった。赤い血が流れている人が他にもいたなんて、まだ信じられなかった。
今思うと、この時の僕は混乱していたのだろう。一人ぼっちだと思っていた世界に同じ赤い血を持った子が現れて、声をかけてくれて。突然自分の身に起こった変化に、全く頭が追いついていなかったのである。
だけど、手を伸ばせなかった。後でがっかりするのが怖かったのである。
けれど、そんな僕に男の子は予想外の行動に出た。
彼は、よく日に焼けた手で僕の手を取ったのだ。
「調べようぜ」
ひまわりのような笑みが広がる。それは、初めて間近で見た“笑顔”だった。
「せっかく見つけたのに、名前知らないなんて勿体無いだろ。行こうぜ。一緒に探してやるからさ」
砂遊びでもしていたのか、繋いだ手はザラザラとしていて埃っぽい。潰れた草の匂いもする。そんな手が、土にすらまともに触れたことのない僕の手を掴んでいる。
膝小僧からは、まだ真っ赤な血が流れているのに。この子はそんなことを気にしてすらいなくて。
くらりと目眩がした。僕には、あまりにもその男の子が眩しく見えたのだ。
男の子の声はワクワクと弾んでいて、きっと彼の走る道全部で楽しいことが起こるんだろうと分かった。
――この子は、誰だろう。
僕は、人の名前を呼んでみたくなった。
「俺? 阿蘇忠助ってんだ」
尋ねると、嬉しそうに男の子は答えた。
「長いから短くして呼べよ。みんなそうしてるから」
「じゃあ……ただ君」
「ん。お前は?」
「僕は、藤田直和」
「なおかず。なんだよ、お前も名前長いんじゃん。それじゃナオだ。ナオ、行こうぜ」
ナオという響きにドキリとする。誰かに名前を呼んでもらったのなんて、本当に久しぶりだったのだ。
僕はずっと教祖様の“我が血”で、信徒達の“後継者様”だった。
自分のものじゃないような自分の名前に驚いていると、強く手を引かれる。
男の子――ただ君は、もう幼稚園の中のどこかにある昆虫図鑑で頭をいっぱいにしているようだった。彼の蹴った土が足にかかる。この子といると汚れることが増えそうだな、と思った。
「うん、ただ君」
それでも、僕は手を握り返す。自分の足で走り出す。真っ青な空の下、外の世界からやってきた友達と一緒に遊ぶ為に。
もう二度と、一人ぼっちの蟻は探さなかった。
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