33 どうか
雨粒が自分の顔をぶん殴る。意識が朦朧として、全ての感覚が薄い。
そんな状態にも関わらず、阿蘇はなおも黒い男に飛びかかっていた。
「――ッ! ――!」
呪文を唱え続けてさえいれば、その副作用による筋力増加を維持できる。宙に浮く黒い男の元まで跳躍可能な脚力ですら。
目の奥がガンガンと痛んでいた。まばたきをするたびに脳で増幅された激痛が身を襲う。だが、これも本当に自分が感じているのかどうかよく分からない。
……問題無い。どうせ治してしまうのだ。
それより、やりきらなければ。
おれが、こいつをひきつけなければ。
目の前の薄ら笑いに向かって拳を振り上げる。
当たるなどとは思っていない。一瞬でもこちらに注意を向けられるならそれでいい。
『頼みがある』
昨日、兄からパソコンに届いたメールを思い出す。そこには、こう書かれてあった。
『藤田君への処置が終わった後、必ず黒い男が現れるだろう。そこで忠助には、そいつの気を引いて貰わねばならない。藤田君や穴に落ちかける景清君、そして深馬に奴が介入しないように。加えて――』
そこで記憶がブツリと途切れる。雨の中、阿蘇は頭を振った。
……おもいだせない。このさきは、なんだったか。
記憶の中の文字が読み取れない。
脳の中に血が広がって、うまく情報が拾えない。
「忠助!!」
突然、聞き覚えのある声がした。
けれど応えられなかった。黒い男が深馬のいる方向に顔を向けようとしていたからである。
させるものか。それを防ぐ為に俺はここにいる。
阿蘇は、再び黒い男に殴りかかった。
しかし最小限の動きでかわされる。――いや、構わない。奴の意識さえこちらに奪えるなら……。
「このままでは忠助の命が危ない。気絶させるぞ」
だが、遠くに聞こえたその言葉で阿蘇はハッと顔を上げた。首につけた強制気絶装置の存在にゾクリとする。
――まだ、だめだ。
まだおれはやすめない。
感覚の消えかけた手で首の後ろを触る。そして小さな機器を探り当てるなり、それを皮膚ごと引きちぎった。
同時に、兄の困惑した怒声が聞こえた。ネクタイの色を確かめて、そいつが“表の兄”だと断定する。
……これ以上、彼の注意を引いてはならない。震える右手を使い、阿蘇は曽根崎に簡単なジェスチャーを送った。
兄の目が見開かれる。うまく表情を作れない彼の口角が、じわじわと上がる。
“俺を見捨てろ。”
“お前は、お前の為すべき事をしろ。”
多分、意図は伝わっただろう。阿蘇は血の味が混じったため息をついた。
……いきのびてくれ、にいさん。
そして、みっかまえのおれにあいにきてくれ。
そうしたら、たすかるかもしれない。
いきのびられるかもしれないんだ。
――だれが?
「――嗚呼、哀れ、憐れ、閔れ」
地面に片膝をついた阿蘇の前で、黒い男が嘲笑う。その背後には、巨大な手。手は拳を握ったかと思うと見る間に血を噴き出す首に変化し、無数の赤い目をばらばらとこぼし始めた。そしてそのうちの一つが鋭く尖ってナイフと化すると、呆然とする俺の左腕を掻き切ろうとして――。
頭を抱えて絶叫する。……違う、あれは幻覚だ。あんなものがこの世に存在するはずがない。
深呼吸をする。酷い頭痛と耳鳴りがする。いつの間にかぴたりと後ろに張り付いた男が手を伸ばしてきて、阿蘇の目の下をするりと撫でた。
「……その通り。全ては、貴方の脳が貴方を守ろうと見せる幻覚なのです」
「……」
「貴方はもう、思い出すことすらできない。誰を救いたかったのか。誰に応えて貰いたかったのかすら」
息が切れていた。呪文も途切れていた。思考が混濁する中、阿蘇は割れそうな頭を片手で押さえて必死で脳に酸素を送っていた。
……おもいだせ、おもいだせ、おれはなにをしていた。なにをすべきだった。こいつはだれだ。おれはだれだ。
おれは、どうしてここにいる。
――ふいに、泥が跳ねる音がした。
「……?」
横を見る。
誰かが、誰かの体を、どこかに運ぼうとしていた。
――やめろ。
その光景に、阿蘇の全身は殺気で総毛立った。
――そいつを、どこにつれていくきだ。
足に力を入れて立とうとする。だが、残った僅かな理性が動きを止めさせた。
――ちがう、だめだ。
だめだ、だめだ。おれは、ここにいなければならない。
記憶の中でセミが鳴く。皮膚に夏の暑さを感じる。それに重なるのは、所在ない幼い横顔。
爪に泥土が入るのも構わず地面を掻き握り、阿蘇はまたうなだれた。
――すまない、どうか、たすけてやってくれ。
ともだちなんだ。むかしから、ずっといっしょにいた。
いきていてほしいんだ。
黒い男が耳元で笑う。そちらに向け、阿蘇は力任せに拳を振るった。
当然男には掠りすらしない。しかし先ほどと違い目的を思い出していた阿蘇は、微かに正気を取り戻していた。
――罪悪感に縛られ続けていたのだろう。
後悔だってしていただろう。俺を巻き込んで、生きる理由としてしまった事を。
なぁ藤田。
もう忘れろよ。
阿蘇は、黒い男のコートを力任せに引き倒した。
男は少しだけバランスを崩したものの、彼の胸倉を掴んで泥の中に放り投げる。鈍い音と共に全身に走る激痛。それでも阿蘇は泥を吐き、折れた骨を治癒し、ゆらりと立ち上がった。
――過去のことも、俺のことも、全部手放していい。
お前は強い。俺よりも、ずっと。
だから、どうか。
どうか、生きていてくれ。
なんでもいい。俺のことなんか忘れてもいい。どうか、ずっと幸せに――。
走る。跳ぶ。雨に濡れた体が重い。治癒が追いつかない。目の前が暗くなる。いや、これは血か?
どうでもいい。今この体が動かせれば。
時間を稼げ。隙を与えるな。せめて、あいつが助かるまでは。
無力でたまるか。死んでたまるか。動け、動け、動け!!
「……」
それから、どれくらい時間が経ったのだろう。
次に意識が戻った時、阿蘇は黒い男に首を掴まれていた。
「……素晴らしい」
男は、空中で阿蘇を嘲笑った。
「無駄な行為を、無駄な足掻きを、ただの人間がよくぞここまで」
「……」
「しかし、それも終幕と致しましょう」
もう、何の力も残っていなかった。左腕と右足は折れ、血は大量に失い、まともに動くことすらままならない。
阿蘇は、ぼんやりと雨の落ちる空を見上げていた。
「――さぁ、覚めない眠りを」
首に絡み付いた黒い指に、力が入る。男が腕を一振りすると、阿蘇の体はプラスチック人形のように呆気なく投げ飛ばされた。
――多分、これは死ぬな。
妙に冴えた頭で、阿蘇は思った。
――まあ、こんなもんか。
そう思った途端、猛烈な眠気が襲ってきた。抵抗するのも億劫で、そのまま目を閉じようとする。
――酷く懐かしい声が、俺の名を呼んだ。
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