22 黒い夢

 息が苦しい。何も見えない。体が思うように動かない。

 曽根崎が見る夢は、常にそうした重たい闇に包まれていた。

 この世界において、闇と彼は同等の存在であった。最小の粒子であり、広がるほどに場を満たす空間物質。

 指を動かす。自分の意思を確認する。腕を大きく振ると、澱んだ闇がついてきた。


 ――マズいな。


 舌打ちをする。その音は闇の中で反響し、不気味な笛を鳴らした。


 ――早く彼の元に帰らねば。


 あの時、私は無理矢理呪文の力を引き出す黒い霧に飲まれ、気を失った。そこからどれぐらいの時間が経ったのだろう。なんせ爆発物を残してきてしまったのだ、大事に至っていないといいのだが。


 闇との同化から抜け出すには、ここではない場所のことを頭に置かねばならない。得体の無い今の体を一旦忘れ、曽根崎は自身を構成する“曽根崎慎司”を思い描く。


 ふいに光が満ちる。

 気がつくと、彼は覚えの無い天井を見上げていた。


「……」


 いや、私はこの天井を知っている。

 アルバイトとして雇っている、竹田景清のアパートだ。


「あれ、起きましたか、曽根崎さん」


 明るい声に顔を向ける。すっかり目に馴染んだ人の良さそうな顔が、眉尻を下げてこちらを見ていた。


「ああ、まだ起きないでください。アンタいきなりぶっ倒れたんですから」


 上体に力を入れようとした所、彼に制され布団に戻された。しかし心配されるほどの事ではない。それより、あれをやらなければ……。

 だが、目の前の青年は首を横に振る。


「今は何も考えずに休んでください」


 優しい声だった。それに絆され少し間を置いた後、曽根崎は問う。


「ならば進捗だけでも聞こう。状況は?」

「それもしないでくださいと言ってるんです。曽根崎さん、貴方今すごく疲れてるんですよ?」

「……」

「寝といてください。また後で起こしてあげますから」

「なぁ、君」


 声をかけ、整った顔に手を伸ばす。黙って差し出された彼の頬を撫でるように、指先を這わせた。


「……」


 優しくなぞり、確かめる。


 肌の感触。体温。輪郭。

 どれを取っても、竹田景清そのものである存在に。

 従順に撫でられる、彼の頬に。


 ――曽根崎は、突如あらん限りの力で爪を突き立てた。


「ッギャァアアアアッ!!?」


 悲鳴が部屋を満たす。裂かれた皮膚から垂れた血が指を濡らす。それでも曽根崎は更に力を込め、唸るように言った。


「誰だ、貴様は」

「ア、ア、ア」

「竹田景清の皮を被ってどういうつもりだ? さぁ、言え。さもないと……」

「ひ……酷い……何の事……!?」

「ハッ、私の目を誤魔化せると思うなよ」


 身を起こし、力任せに床に引き倒す。馬乗りになり、口角を上げて“景清”の首に手をかけた。


「……髪の長さ、微細な目の色、通常時の脈拍、無意識の癖、その他諸々。――まったく、どれを取っても本物には遠く及ばない。私を舐めるなよ」

「……」

「おや、黙った。痛いんじゃなかったのか?」

「……。……ヒヒ、ヒ」


 ドロリとした感触が、片手で締めた首からあふれる。それはみるみるうちに床一面に広がり、這い上って壁を腐らせ始めた。

 だが、それで心を乱してやるほど曽根崎は繊細な人間ではない。天井から肩に垂れた黒い粘液を払い、立ち上がった。


「……“誰だ”、なんて私とした事がとんだ愚問だったな。こんな悪趣味を敢行する奴なんざ、一人しかいない」


 腐臭を放つタール色の部屋で、粘液が凝縮する。それは瞬く間に、曽根崎の前で一人の男の姿を形作り、優雅な一礼をさせた。


「――なんというおぞましき観察眼。いっそ見事なまでの執着。嗚呼、まさに怪異の掃除人の面目躍如といった所ですねぇ」


 “黒い男”である。

 ニヤニヤと嘲笑うその顔に、曽根崎はできるだけ冷たい目をくれてやった。可能なら唾も吐いてやりたい所であったが、今はやめておく。

 曽根崎は鼻で笑い、歓迎するかのように両手を広げた。


「お褒めに預かり実に光栄。帰ったら赤飯でも炊いて、てっぺんに箸を突き立ててあげよう」

「ククク、しかし何故偽物と分かったのです? 私の変身は完璧だったはずですが」

「ハン、答える義務があるとでも?」

「……」

「……」

「……」

「……ええいクソッ。貴様のその気になる事があったら絶対的優位を保ったまま黙る癖、本当にタチが悪いぞ!」


 しかし、いくら悪態をつこうともこの場を支配しているのは黒い男である。苛立たしく思いながらも、曽根崎はタネを白状することにした。


「……簡単な事だ。竹田景清なら、こんな切羽詰まった状況において『ゆっくり寝ていろ』なんて悠長を言うはずがない。叔父の命さえ危ない今、全てを助けたい彼が私の眠りを促すわけがないんだ」

「フフフ……それに加えて脈拍や反応などの細やかな違い、ですか。なるほど、やはり貴方は興味深い人間だ」


 黒い男は、歯の無い口で笑う。つられる形で、曽根崎も引きつった笑みを返した。


 ……実の所、一番の決め手は彼の頬に指を這わせた時の反応であったのだが。


 あれがもし本物であれば大人しくしているはずがない。反射的にブン殴り、罵倒するぐらいはしてくるだろう。

 むしろこっちとしては、脈拍や髪の長さ云々こそがハッタリだったのだ。実際覚えているわけがないだろ。なんで信じてるんだコイツ。


 いや、あるいは……。


 ――まさか、な。


「で、今回は私に何の用なんだ」


 気を取り直し、曽根崎は男に尋ねる。

 黒い粘液の海は徐々に水嵩を増し、既に膝の高さまできていた。


「用……。そうですねぇ。強いて言うのなら、“確認”とでもいいましょうか」


 対する黒い男は、腕を組んで笑っている。


「曽根崎。貴方の目的は、“穴を塞ぐ事”、そして“私との契約破棄”。その二つでしたね?」

「……?」


 違和感のある問いに、曽根崎は眉をひそめた。


 ――契約破棄、だと?


 ああ、そうか。時間軸的に考えると、男は一昨日私が話した内容のまま認識しているのか。となると、奴はそれを聞く為だけに、こうしてわざわざ現れたということになる。


 ……本当にそうか?


 奴は、余計な事はしても無駄な事はしない男だ。ならば、ヤツの行動自体何か理由があると考えるのが自然だが……。


 そこで、曽根崎ははたと気づいた。


 ――もしかして、コイツは“まだ”、私と景清君が穴に落ちたことを知らないのではないか?


「……」

「おや、今度は君がだんまりですか?」


 タール色の水は、もう腰まで来ていた。

 黒い男は、水の上に立ってこちらを見下ろしている。


 ……どういうことだ。男は、全ての面、観測点、観測者を包括的に見られる“俯瞰者”であるはずだ。当然、我々が穴に落ちたことも知っていなければならない。

 いや、だからこそ、もし奴がそれを知らないとすれば……。


「曽根崎」


 胸まで水が迫る。……これが口まで届くとどうなるのか。多分、あまり幸せな目にはあわないのだろう。


「早く答えた方がいいと思いますよ」


 瞳の動きで動揺を悟られないよう、目を閉じる。


 嘘をつくべきだろうか? ……駄目だ、この男はそれすら見抜いてくる。

 ならば本当の事を言うか? ……いや、そこから何を引き出されるか分からない。


 答えては、ならない。


「……ッ」


 顎にぬるりとした液体が触れる。


「どうしたのです、会話を楽しみましょうよ」


 黒い男の声が、すぐ近くで聞こえた。


「折角の逢瀬なのに」


 息を止める。頭のてっぺんまで黒い海に飲み込まれる。

 肌が焼けるように熱かった。一滴一滴が意思を持っているように体に入り込もうとしてくるのが、煩わしくて堪らない。


 水の中にいるというのに、男の笑う声ばかりが耳障りである。苦しくなる息の中、曽根崎は笑い声だけでも防ごうと耳を塞ぎかけた。

 その時である。


「ぐっ!?」


 ――左頬に強烈な痛みが走り、曽根崎の首はのけぞった。

 誰かに横っ面をぶん殴られたのである。


「……ッ!?」


 目を開ける事ができないので、誰にやられたかは分からない。

 けれど心当たりはあった。

 耳を澄ます。想像が当たっているなら、聞こえてくるはずだ。


 “彼”が、私の名を呼ぶ声が。


『――!』


 ――ああ、やはりそうだ。


 意識が遠くなる。体が解放されていく。黒い男が何か呟いていたが、“彼”が曽根崎を呼ぶ声にかき消された。


 これは夢なのだ。ならば、覚める時が来なければならない。


 明るい光を目指し、今やただの水になった液体をかき分け歩を進める。声を頼りに。名を呼ばれる方へ。

 不思議ともう息苦しくはなかった。呼吸が、できていた。


「……いつまで、そちら側にしがみついているつもりですかねぇ」


 最後に、何の感情もこもらない黒い男の声を聞いた気がした。

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