??? とある前日譚
奇妙な友人が自分の前から去って、一年。曽根崎慎司は、やはり淡々と毎日を生きていた。
時折、あの日のことを思い出す。両腕を負傷した彼の友人は、闇に飲まれて姿を消した。そうして余韻に浸る暇も無いまま黒い浮浪者が現れ、思った通りの手で線を引き、異次元を塞いだのである。
その後の展開は目に見えていたので、最後まで見届けることはしなかった。黒い浮浪者の手は、よっぽどのことがない限り形勢を覆すことは不可能なものだったからだ。
それに加えて、消えた友人はもう二度と自分には会いに来ないと分かっていたことも大きかった。
だから彼は、我慢する必要の無くなった煙草を部屋でふかし、飽き飽きするような平凡に身を沈み込ませて日々を過ごしていたのである。
それ故に、この日の彼は息が止まるほどに驚いた。
アパートの呼び鈴を鳴らした人物。その彼を一目見た瞬間に。
「――お前」
なんで、今更ここに。
そう言いかけた言葉を、すんでの所で飲み込んだ。……違う、コイツは……。
「藤田君」
「ご無沙汰してます、曽根崎さん」
学校帰りで学ラン姿の藤田は、へらっと端正な顔を崩して笑う。
が、その表情が苛つくやら、何かを期待してしまった自分を認めるのが腹立たしいやらで、曽根崎慎司は無表情でドアを閉めにかかった。
「やめてやめてやめてやめてください」
「帰れ帰れ秒で帰れ」
「何もしません! 曽根崎さんからお誘いいただけるまではきっと何もしませんから!」
「言葉の端々から不誠実を覗かせるのをやめろ!」
が、弟に懐いている藤田直和の筋力は、彼を凌ぐほどには強い。間も無く力尽くでドアをこじ開けた藤田は、するりと中に滑り込んできた。
「ハァッ、ハァッ……勘弁してくださいよもう」
「こっちのセリフだクソボケ」
「ほんと阿蘇のお兄さんだなぁ、その口の悪さ」
「……とはいえ、来てしまったものは仕方ない。ほら、そこ座ってろ」
「お茶入れてくれるんですか?」
「いや、警察を呼ぶ」
「そろそろ不法侵入者扱いするのやめてくれません?」
勿論それは半分冗談で、テーブルにつく藤田の向かいに腰を下ろした。……彼がわざわざ一人で自分を訪ねてくることの意味を、曽根崎慎司はよく理解していたのである。
「で、何の用だ」
その一言に、藤田は目を伏せた。普段は爽やかな瞳に、暗い影が落ちる。
「……阿蘇には、ここに来たことを言わないでもらえますか」
「言わねぇよ。いつものことだろ」
「すいません」
「……実家のことか」
「……」
藤田は、ゆっくりと頷いた。
「実はオレ、教団を抜けようと思っているんです」
意外な提案に、頬杖をついていた顎を持ち上げた。
藤田という人間が、恐ろしく厄介なカルト教団の後継者であることは知っていた。とはいえ、幼少期より生活の基盤としていた場所である。彼がそこから足を洗うなど想像だにしていなかったのだ。
少し姿勢を正し、彼は藤田に問う。
「それ、お前は問題無いのか」
「……正直な所、分かりません。なんせ、あんまり実感が無いもので」
「そうか」
「はい」
「……俺としちゃ、抜けたいなら勝手に抜ければいい、という所だがな。脱退届の代筆でも頼みに来たのか?」
稚拙な揶揄にも、藤田は微笑みすらしない。むしろ、その頬は緊張に強張っていた。
「……抜けたい、のは事実なのですが」
「うん」
「……オレには、その方法を考えることができないんです」
「は?」
意味不明な言動に眉をひそめる。
見ると、藤田の手は膝の上で拳になって震えていた。
「オレ、おかしいんです。教団を抜ける為の方法を考えようとしたら、頭の中が真っ白になって。まるで、ここから先に行くことを禁じられているかのように。声に出そうとしたり、紙に書こうとしたりしても駄目でした。ヤケクソになって、教祖様に脱退をほのめかしてみたり、数日放浪してみてもです。口は勝手に動いて忠誠を誓ってしまうし、体は勝手にあの場所に戻ってしまう」
藤田は、何かを振り払うように頭を振った。
「自覚はありません。……だけどオレは、もしかしたら自分で思う以上に教団に侵されているのかもしれない」
「……」
頭を抱えてそれっきり沈黙する藤田に、曽根崎慎司は首を傾げた。
無神経な男には、どうしても彼の心情が想像ができなかったのである。
「それなら、別に抜けなくてもいいんじゃないか?」
彼の遠慮の無い質問に、藤田は動かない。
「何かを信仰しながら生きている人間なんざ、世の中にはごまんといるだろ。話を聞くだに、藤田君は無意識下では脱退を望んでいないように見える。その状態で教団を失ってみろ。幼い頃から宗教漬けのお前の精神は、一気に瓦解するかもしれねぇ」
「……」
「まあそれでも、俺の所に来るってことは本気なんだろうけどさ。何なんだ? どうしてそこまでしようとするんだ」
「……それは」
藤田は、蚊の鳴くような声で言う。
「――景清が」
その名を聞いた瞬間、曽根崎慎司は小さく息を飲んだ。
しかし、俯いたままの藤田は気づかない。
「……いや、すいません。オレには、一人甥がいるんです。歳の離れた姉の子供なんですけど、小さい頃からよく知ってて。……でも、オレが成人になるまでに教団を抜けなかったら、その子は成人の儀に際し命を落としてしまうんです」
「……そんな」
「し、信じられない話ですよね。倫理的にも、法的にもおかしい。ありえない。……でも、本当なんです。その儀式の為の準備として、今甥は生活全てを過剰な規則に縛られている。飲み水も制限されているぐらいで。……あの子は、喘息だって持ってるのに」
「……」
「オレは、もう見ていられない。なのに、脱退を考えようとすると頭に霞がかかって……考えられなくなって。もう、どうすればいいか分からなくて……!」
「……」
青い顔で独白する藤田を、曽根崎慎司は呆然とした目で見ていた。
――別人、なのだろうか。
自分の知る竹田景清は、ここから飛行機を使わねば行けない場所に住んでいると言っていた。加えて、とてもではないがそんな哀れな子供とあの景清が結びつかない。
勿論、同姓同名なだけの可能性だってある。自分の聞き間違いである可能性も。
……だが。
もし、彼が本人だったとしたら――。
「分かった」
低い声に、藤田は顔を上げた。
見上げたその目は、冷たく弓形になっている。
「いいよ、俺が考えてやる。藤田君が“間違いなく”、教団を抜けられる方法を」
「……曽根崎さん」
「ただし、当然ノーリスクという訳にはいかない。それでも構わないか?」
その問いに、藤田は少し怯んだ。
だがしばらくの黙考の後、なんとか作った笑顔と共に答える。
「……分かりました。構いません」
「オーケー」
「ですが……その、可能な限りお手柔らかな方法でお願いします」
「ハハハ」
「お願いします」
「ハハハ」
まあ言質と捉えて差し支え無いだろう。最後に曽根崎慎司は身を乗り出し、人差し指を唇に当てた。
「――忠助には言うんじゃないぞ。いいな?」
藤田が頷いたのを確認し、顎に手を当てる。
そして、頭の中で計画が組み立てられていく。最も効果的で、簡単で、最小手。しかし彼の陥るだろう状況を、殆ど顧みない手段が。
――今の脳内をあのお人好しに見られようものなら、きっと激怒されるのだろうな。
彼は藤田に悟られぬよう、自嘲的な笑みを零したのであった。
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