第6章 ミートイーター・裏

1 多分、ただ会いたかったんですよ

 落ちる。

 僕の体が、落ちていく。

 どうすることもできない状況の中、僕はまぶたの裏に焼き付いた無数の僕の姿を見ていた。


 ――面から外れてしまった。外されてしまった。どうすればいい。どうしよう。真っ暗闇の中でたった一人ぼっちになって。

 怖い。嫌だ。こんな僕では何もできない。

 一人では。

 たった、一人では。


 混乱と不安に泣きそうになる。アテも無いのに手を伸ばす。

 誰か、誰かいないか。一人にしないでくれ。

 こんな場所で、一人でいるなんて……!


 ――ふいに、手のひらが痛んだ。


「……?」


 傷を確かめようと、目を開ける。そうか、真っ暗だったのは目を閉じていたからなのだ。

 そうしてゴーグル越しに見上げた世界は、赤と青、藍のグラデーションに染まっていた。


 ――……空? 夜明け?

 え? どこここ? 僕はどこに向かって落ちて――。


 困惑する僕は、状況を把握しようと不自由な体を捻って周りに視線を巡らせる。そしてギョッとした。


 僕の真横で共に落下していたのは、他でもない三十一歳の曽根崎さんだったのである。


「えええええええええええええええええええ!?」


 ここで!?!?

 このタイミングで再会すか!?!?


「曽根崎さん!!」


 声を上げる。だけど落下の風圧で声がかき消されているのか気絶しているのか、曽根崎さんからの反応は無い。

 そうだ、パラシュート!

 僕は腕を伸ばして曽根崎さんを引き寄せると、ベルトで体を密着させた。


 地面――というか、川がどんどん迫ってくる。事前に田中さんからパラシュートの着陸指南は受けていたが、あまりの飲み込みの悪さに「もう君は川を見つけてそこに落ちてろ(要約)」と言われていた僕である。

 まさに、言葉通りの展開じゃないか。

 多少モタつきはしたが、なんとかパラシュートの紐を引く。途端に落下速度はグンと落ち、僕らの体は空に宙吊りになった。

 だがタイミングとしては危ない所だったらしい。一度風に煽られた後、僕らは川の真ん中に着水した。


「ぶはっ! ……そっ、曽根崎さん!」


 水面に顔を出して名を呼ぶが、彼はぐったりしたままで動かない。僕は一旦パラシュートと曽根崎さんを体から切り離し、浮き輪代わりになると教えられた肩のベルトに手早く空気を入れた。

 泳ぐのが得意でよかった。水を飲んだし、曽根崎さんもだいぶ沈ませてしまったが、どうにか川岸にたどり着くことができたのである。


「ハッ……げほっ、ハァッ……! クソッ、よく水を吸うオッサンだな!」


 曽根崎さんの服を掴み、ズッシリと重たい体を地面へと引き上げる。しかし、どんな悪態をつけど彼は何も言わない。


「……」


 ゴーグルを捨て、随分と久しぶりな気がする姿を見下ろす。うつむいた前髪から、ポタポタと滴が落ちた。


「曽根崎さん」


 河川敷に倒れる曽根崎さんは、目を閉じて口を半開きにしている。……気を失っているのだろうか。

 両手で体を揺すってみる。けれどやはり無抵抗に揺さぶられるだけで、起きる気配は無い。

 骨は……触ってみた限りではちゃんとあるようだ。外傷も特に見当たらない。

 しかし、ここでやっと僕は黒い男の言葉を思い出した。


 ――“穴に潜む神の眼前を、生きたままで通ることはできない”。


 そうだ、そうだった。

 僕は青ざめ、急いで冷たい首筋と口元に手を当てた。……脈拍も、呼吸も感じられない。生きていれば当然あるはずの生体反応が、彼から確認できない。


「……!」



 ――死ん、でる?



 え、嘘だろ?

 マジで死んだの!? え!?


 ……いや、まだだ。まだ分からない。

 何故なら、僕は曽根崎さんの脈拍など測ったことが無いからだ。元々生まれつきめちゃくちゃ弱いのかもしれない。あり得る。コイツならあり得る。


「曽根崎さん! 曽根崎さん!」


 抱き起こす。揺さぶる。じれったくなって頬を叩く。けれどそれでも何も返ってくるものが無くて、段々と腹が立ってくる。


「よいっしょ! よいしょ!」


 ひっくり返し、掛け声をかけながら背中を叩いてみた。我ながらバカみたいな行動だが、こうすれば弾みで息をし始めるんじゃないかと思ったのだ。

 しかし彼は起きない。多少口から水が零れたぐらいか。


「息をっ! しろっ! 曽根崎っ! 慎司っ!!」


 もう殆どパニックになっていた僕は、言葉を区切る毎に力任せに曽根崎さんを叩いていた。適切そうな処置など何一つ頭に浮かんでこなくて、どうか起きて、起きてくれと、そればっかりで。


 ――だって、やっとここまで来たんだ。やっと僕はここまで辿り着いたというのに。

 それなのに、肝心のアンタがまたどこかに行ってしまうなんて。


 ダメだ、そんなの許さない。

 絶対に、絶対に許してやるものか。


「……ッ!」


 ぐったりとした彼の体を仰向けにする。それから、ネクタイを掴んで引き起こした。

 眼前に近づいたその人に、僕は肺いっぱいに吸いこんだ絶叫を吐き出す。


「――起きてください!! 曽根崎さん!!!!」

「ぶわっ!?」


 突然、後ろに垂れていた不審者面が跳ね上がった。

 あまりの勢いに避ける暇も無く、彼と僕の額は正面衝突する。


「〜〜〜〜ッ!!」


 ――しばらく、何が起こったかさえ分からなかった。僕らは頭を押さえて崩れ落ち、しばし痛みに悶絶した。


 ……が、やがてその痛みも収まってきた頃。

 冷たい地面に手足をついた僕は、びしょ濡れの体の隙間から恐る恐るその景色を見た。


 曽根崎さんがいる、景色を。


 ……曽根崎さんが、僕と同じように額を押さえて転がっていた。

 動いていた。

 もじゃもじゃ頭を抱えて、呻いて。

 僕の前で、確かに、息をして、熱を持って。


 ――生きていた。


「……ッ!」


 それが分かった瞬間、僕の視界は一気にぼやけた。


「……景清君?」


 キョトンとした声がする。

 けれど今度は僕が、それに答えることができなくなっていた。


「どうして君がここにいるんだ?」


 漏れそうになる声を抑える。地面に顔を向ける。それでも目を離したらまたいなくなりそうで怖くて、やむなく頭を上げた。

 曽根崎さんは消えていなかった。滲んだ黒い輪郭が、心配そうに僕を覗き込んでいる。


「え、なんで君、泣いて……」

「ぶるぎゃああああぁーーーーっ!!!!」

「がふっ!?」


 僕は、しゃにむに曽根崎さんの腰に飛びついていた。


 訳の分からない激情が押し寄せ、目から口から止めどなくあふれてくる。

 どうしようもなかった。どうしても、抑えることができなかった。


「ぶみゃああぶえうえええぐぶみみみうるええええええ!!」

「わあああああなんだなんだ!?」

「ぐるるるみゃぶわぁえみみぐへぇだだばあ!!」

「あ、泣いてるんだな!? そうだ君おっそろしく泣くのヘタクソだったんだっけか!」

「ばばばびゅうどべぇばみぶみゅうぐううう!!」

「おおお分かった分かった、何一つ分からんが分かった! オーケー生きてる、私生きてる! 多分生きてる!」

「どるぎゅえぐぅっ!!」

「えぶっ! なんで抉るように腹を殴る!?」


 もう、自分でもよく分からなかった。泣いている理由も、怒っている理由も、酷く安心している理由も。

 ちゃんと、曽根崎さんが生きている。

 今の僕には、それだけでよかった。そうであるなら、なんでもよかったはずなのに。


「……ぐすっ」

「お、落ち着いたか」

「あびゃうぶぇばびあぶうぐぇげぇぇぼみぃぶぎゃあああああああああーーーー!!」

「ごめん、まだだったな」


 曽根崎さんの手が、宥めるように僕の背中を軽く叩く。

 ……早く泣き止むべきだ。二十一にもなって、こんな子供みたいな泣き方をするなんてとてもみっともないから。

 だけど、そう思っているにも関わらず止まらなかった。

 このぶっ壊れた涙腺をどうにかするなんて、僕には到底できなかったのである。


 ――言わなきゃならないことがあるんです。

 聞いて欲しいことも、たくさん。

 でも、ありすぎて、全部胸の内でごちゃ混ぜになっていて。


「……ぞねざぎ、ざん」

「はいよ」


 結局僕がその中から掴めたのは、いつもと何ら代わり映えのしないクソ生意気な一言だけだった。


「……バカ野郎……!!」

「すいませんでした」


 目の眩むような朝焼けの中、僕の背中をさすろうとした大きな手を、僕は強めに払いのけたのである。

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