第22話 狭間にて
気がつくと、僕はまたあの“何も無い空間”に来ていた。
どういうわけか、あんなに酷かった腕の傷は綺麗に治っている。それどころか、何故か慎司の家に忘れてきたはずのゴーグルまで装着されていた。
服も彼のものではなく、僕が元々着ていたものた。
まるで、長い夢から覚めたようである。僕は口の中に入っていた水晶を、傷一つ無い手のひらに吐き出した。
「ええ、貴方のご想像の通りです」
男の声がする。
「貴方は、長い夢を見ていたにすぎない」
そちらの方には目をやらず、僕は首を横に振った。
「夢なんかじゃない。僕が確かにこの目で観測して、確定させた歴史だ」
「貴方の為に、私が擬似的に作った面だという可能性は考えないのですか? あの世界、あの場所にいた人物は、役目を終えた今全て消えてしまったと」
「光と始点と終点は、神から矮小に与えられし確定なんだろ。ならあの面が消えたとしても、始点が与えられた人々は各々の終点まで生きられるはずだ」
「ほぅ」
「つべこべ抜かすな。早く、僕をこの水晶の観測点にまで連れて行け」
唾液で湿った水晶を荒っぽく服で拭い、声のする方向に突きつける。
男は呆れたような声で言った。
「せっかちな人ですねぇ。傷が治っていることや服装が戻っていることについて、疑問や違和感は無いのですか」
「無くはないけど、僕はもう一秒もアンタと同じ空間にいたくないんだよ」
「そうですか」
「……」
「……」
「……な、なんだよ」
「……」
「……お、お前の目的は何なんだ? どうせ人間じゃないんだろうけど、ならなんで人間に関わってこんなことをするんだよ? 意味分かんねぇ」
「おや、質問をしていただけるんですね」
「しないと解放してくれそうにないからな」
込められるだけの皮肉を込めて言ってやる。だが、その程度で傷つくヤツではない。黒い男は僕の背後に立ったまま、答えた。
「目的ですか」
困っている、といった様子ではない。むしろ、散々その質問をされてきて、もういい加減飽き飽きだとでも言いたげな風だった。
「そうですね……。例えば、貴方は今、とてつもなく面倒で、かつつまらない仕事を任せられたとしましょうか」
「はぁ」
「しかもそれは終わりのない作業です。退屈で退屈で、堪らない。そんな時に、手元にいくつかの人形が転がっていた」
僕の目の前に、球体関節のデッサン用人形がいくつか浮かぶ。その中の一つは、黒いスーツを着ていた。
「戯れに、動かしてみるでしょう」
黒スーツの人形が、ポキリと真っ二つに折られた。
「そしてその人形は、やがて意思と思い込んでいるものを使って自ずと動き始めた。ならば、次はその性能がどんなものか気になるものです。坂道を作って登らせてみたり、谷を作って落としてみたり」
男が言葉を進めるたびに、他の人形もバラバラになって散っていく。
「すると、やがて多少抵抗する者も現れ始めた」
さっき真っ二つになったスーツの人形が、再び起き上がった。
「その者は、私の作った坂を崩し、穴を埋め立てた。どうやらそれなりの知能はあるようだ。であれば、その知能がどれほどのものかを試してみたくなる」
「……」
「迷路を作り閉じ込めてみる。到底敵いそうにないモノの餌にしてみる。一本足をもいでみる。逆に一本与えてみる……。反応は様々で、最初は威勢が良くともたった一つの刺激で折れたり、一年も持ちそうにないと思った者が案外長く生き延びた例もありました」
「……」
「しかしその光景は、概ね私の描いた道筋の上で起こるものです。だから私は……」
言葉が途切れる。少しの沈黙の後、何事も無かったかのように彼は続けた。
「その点曽根崎慎司は、とても良かった。彼はなかなか壊れませんでしたから」
「壊れない……?」
「ええ。試練を与えても、明晰な頭脳と強靭な精神力、何より生への執着によりギリギリで切り抜ける。今まで関わってきた者達の中でも、抜群に優秀な素材でした」
「へぇ」
「――ですが、一度彼は私との契約更新を拒もうとしました。……あれは実際、残念に思ったのですよ。つまらないテレビ番組でも、遊び飽きた玩具でも、あると無いとでは大違いですから」
黒い男の言葉が、どこまで本当かは分からない。だけどいずれにしても、クソみたいな話だった。
虫唾が走る。何人がお前に人生を狂わされたと思ってるんだ。
「おや、それは心外ですね」
僕の考えていることを読み取った男は、嘲笑する。
「人の死は、生が始まった瞬間に決定されている。私が手を下そうと下すまいと、辿る運命は同じではないでしょうか?」
「アンタの与える死が最悪のシナリオでさえなきゃな」
「どうでしょう? 彼ら彼女らは、“望み”を叶えていたではありませんか」
「そいつらに殺された人もいる」
「同じことです。かの者らもまた、決められた死に沿っているだけに過ぎない」
――埒があかない。僕は苛々と舌打ちした。
よせばいいのに、負けず嫌いの僕は何か言い返してやりたくてまだ言葉を吐く。
「……でも残念だったな。曽根崎さんの死は、少なくとも三十一までは訪れていない。アンタがちょっかいをかけ始めた時期は知らないけど、何をやってた所でこの歳までは無意味だったってことだ」
「……」
初めて、黒い男が黙る。それに調子を良くした僕は、更に続けた。
「そうだ、アンタのやってることは無意味なんだ。どんなに偉ぶってても、所詮神の定められし確定の中でしか遊ぶことができない。そんなら、その点僕らと同じじゃないか。アンタのバカにする、人間である僕らとさ」
だが、言い終わるか言い終わらないかの内に僕は男に襟首を掴まれた。グンと後ろに強く引っ張られ、締まる首の苦しさに目玉が飛び出しそうになる。
「――同じだと」
低く恐ろしい声が、脊髄を震わせる。
「同じではない」
不気味だったのは、なおも声は面白がっている響きを持っていたことだ。
僕の体は、男の手によりどこかへと連れていかれる。
「……さぁ、眼下を見てみてください、景清君」
言われて、いつの間にか閉じていた目を開ける。
そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
――僕がいる。無数の僕が、所狭しと蠢いている。だというのに、僕は彼らを一度に余す所無く観測できていた。
大怪我をしてチューブを取り付けられベッドに横たわる僕も、神の器となり廃人になった僕も、死んだ目のまま虚ろに生きる僕も、全身に返り血を浴びて佇む僕も、全て。
その光景が何なのか。僕にはとても形容することができなかった。処理能力の限界などとうに超え、僕は目に入る景色をただ脳に送り続けることしかできなかった。
「――私にとって、人を紐づけられた面から引き剥がすことは容易い」
戻してくれ。
僕を早く、面に戻してくれ。
体が、脳が、全細胞が、行き場の無い恐怖に叫んでいる。
「私にとって、神の定められし確定から人を逸脱させることは容易い」
怖い、怖い、怖い、ごめんなさい。
僕を、僕の中に返して。
あの場所から、僕を遠ざけないで。
赤子のように、腕を伸ばして、もがく。
しかし、僕の襟首を掴む手は微動だにしなかった。
「君達が“観測者”と呼ばれる存在であるとするならば、私は“俯瞰者”だ。全ての事象を知り、全ての事象を渡り歩く唯一の者」
僕は、やっと男を振り返った。
その顔は真っ黒で、開いた口すらも闇しか無くて。
男は僕の引きつった顔を見て、けたたましい笑い声を上げた。
「人よ」
「自惚れろ」
「傲慢であれ」
「のぼせ上がり」
「身の程を知らず」
「己が能力を過信し」
「我が身を唯一と錯覚し」
「愚かで哀れなる子羊たれ」
男の手が、離される。
僕の体は、人形のように落下していく。
ゴーグル越しに見た男は、おぞましき巨大な闇の化身だった。
「――それが、神の無為無聊を慰める玩具として、最も有るべき姿なのだ」
僕は叫び声を上げる余裕すら無いまま、大きく開いた緑の目の中に落ちていった。
第5章 完
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