第21話 「行け」

 ――この水晶の先に、曽根崎さんがいるのだろうか。


 推論で固めただけの根拠に、今更動悸が激しくなってくる。汗で指が滑らないよう、水晶を持つ手に力を込めた。


 ――やろう。前に進むしか、僕に残された道は無い。


 覚悟に目を開けて、水晶を覗く。

 無機質な透明の向こうに、見えたものは……。


「景清!」


 慎司の声と突然の腐臭にハッと顔を上げる。

 目の前に、四つ足の顔が迫っていた。


「くっ……!」


 咄嗟にかがんで身をかわす。四つ足は素早く身を翻すと、また僕に狙いを定めた。

 右腕を細長い舌が掠める。焼けるような痛みに、僕の指は勝手に開いてしまった。


「しまっ……!」


 水晶は硬い音を立てて転がり、僕からどんどん遠ざかる。取りに行こうとするも、四つ足の動向に気を配るので精一杯だ。


「俺が取る! お前は四つ足を引きつけてろ!」


 慎司の声に、頷く。僕は水晶とは逆の方に走り出した。

 しかしスピードで四つ足に敵うわけがない。瓦礫の影に入ったり、家具を倒して障害物を作ったりするも、すぐに追いつかれそうになる。

 その時、穴の開いた床に足を取られ盛大にひっくり返った。――間一髪だった。さっきまで僕の頭があった場所に、四つ足の舌が突き刺さったのである。


「あ、ぶ」


 危ねぇぇぇ!

 だが、それで僕の状況が好転するわけではない。むしろ動けないこの体勢では万事休すだった。


「あ」


 重さの無い四つ足が、僕にのしかかる。

 舌が振り下ろされる前に、咄嗟に右に体をよじった。


「……ッ!!」


 避けた、はずだったのだ。だけど、間に合わなかった。僕の肩は青い舌に貫かれ、焼けるような痛みと共にみるみるうちに爛れていく。

 ――おかしい。少し前に体液が皮膚に散った時はここまでにはならなかった。何故、こんなにも毒性が強く……。

 ……そうだ、変わったのだ。今やこの四つ足の体に、赤や紫の部分は殆ど無い。彼女の身から人間たる赤は消え、異形の色である青に染まってしまったのだ。


「ぐ、う……!」


 けれど、諦めるわけにいかない。僕は歯を食いしばり、身を起こそうとする。しかし、力を入れようとした右の肘関節に、青い舌が突き刺さった。


「あ、がっ……!」


 腐臭が強くなる。それが僕の体から放たれているものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 両肩から先の感覚が消えている。指を動かそうとしてみたが、ダメだった。それでもショックのせいか、思ったほどの痛みは感じない。よく分からない熱さと、気持ちの悪い脂汗が額を伝う。


 だが、更に前進しようと顔を上げて、絶望した。

 二つ並んだ空っぽの窪みが、何も言わず僕を見下ろしていたのである。


「……」


 せめて。

 せめて僕を慎司と思って殺してくれたなら、彼はもう狙われずに済むのだろうか。


 そんな諦めにも似た考えが頭をよぎった時、知った匂いが漂ってきた。


「オラ、バケモノ! こっちだ!」


 慎司だ。声のした方に顔を向けると、彼は離れた場所で煙草をふかし、うちわであおいで四つ足を誘っていた。

 あのうちわ、ここで使うのかよ。


 四つ足は僕の体から頭を上げ、煙草の匂いを探っているようだった。


「今だ! 走れ景清!」

 

 慎司が飛ばす檄に、腐臭と痛みに顔を歪めながらも僕は膝を立てて体を起こした。ただの塊になった腕をぶら下げ、バランスが崩れそうになる身を引きずって走る。


「――来い、四つ足」


 彼の声と共に、うちわが一際大きく払われる。僕の真後ろにあった気配は、慎司に向かって跳躍した。

 だが、直前で慎司は自身のコートに煙草をまとわせて放り投げた。コートに飛びつく四つ足の下をすり抜け、俊足の男は僕の前に来る。

 両腕の酷い有り様に一瞬顔をしかめた慎司だったが、すぐに真剣な目に戻ると指先で僕の顎を持ち上げた。

 そして、親指を僕の口の端に引っ掛ける。

 

「開けろ」


 言われるままに口を開けると、鋭い切っ先を持ったヒヤリとした硬いものが舌の上に押し込まれた。水晶である。


「……もう離すなよ」


 慎司は、少し笑ったようだった。


「行け」


 そして、ドンと胸を押される。仰向けに倒れていく体は、そこにあった壁に無抵抗に激突した。

 ……かと思ったが、予想した衝撃は無く、代わりにとぷりと黒い世界に飲み込まれる。どうやら知らない内に、僕は異次元の壁の前まで来ていたらしい。

 壁の向こうで、慎司は身軽に四つ足をヒラリとかわす。うちわを片手に持っていたので、それをうまく操ったのかもしれない。

 攻撃対象を失った四つ足の体は、面白いほど呆気なく異次元に飛び込んできた。


 四つ足はもう完全に慎司に的を絞ったらしい。ところが、彼の元に帰ろうとした彼女を阻む存在があった。

 緑の目である。

 びっしりと細かな歯が生えた目は四つ足に群がると、よってたかってその体を喰らい始めた。


「……!」


 だが、それを悠長に見ている時間は無かった。

 僕の体も、その無数の緑の目に喰まれていたのである。目が、僕の腐った腕を、肉を、足を、骨を、血を、啄み咀嚼している。


 途方もない激痛に耐えながら、水晶だけは離さないよう奥歯で噛みしめた。自らの目が喰われるその時まで、壁の向こうにいる慎司を見つめて。


 僕の姿は見えないのだろう。しばらく立ち尽くしていた慎司だったが、やがて何かに気付いて壁の前から走り去った。入れ替わりにやってきたのは、ボロボロの黒装束に身を包んだ一人の浮浪者。

 僕は、髭ばかり生やして何の表情も見えないはずのソイツと、何故か目が合っているように感じていた。


 黒い絵筆が引かれ、壁の下を埋める。

 その弾みで、浮浪者のフードがズレた。


 現れた見覚えのある姿に、僕は驚きのあまり声を上げる。


「……ッ!」


 だけど既に声帯は緑の目に喰いちぎられた後で、実際は何の音も出てこなかった。


 僕の目は、壁の向こうの“黒い男”を捉えたまま、闇に喰われていった。

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