第20話 お守り

 白い浮浪者の動向を、僕ら二人は瓦礫の影に隠れ固唾を飲んで見守っていた。


「……そうだ、その位置でいい。そのままだぞ……」


 僕の真横で、興奮を抑えた慎司が呟いている。

 左の隅に立った浮浪者はボロ布の隙間から腕を取り出し、複数ある関節をギチギチと鳴らして絵筆を伸ばす。


 そして、筆先を壁に押しつけた。


 次の瞬間。

 白線が、壁を一直線に横断した。


 途端に一面が真っ黒に変わる。続いて、そこを埋め尽くさんとばかりに緑の目が一斉に湧いた。


 ――心臓が止まりそうだった。一つの例外もなくこちらを見つめてくる目に、僕はもう腰が抜けたようになって慎司にしがみついていた。


「こ、こ、こ、これ」


 ――読み違えたんじゃないか?

 白は、黒に勝ってしまったんじゃないか?


 違う、僕はいいんだ。異次元を通らなければならないんだから。でもここに残される慎司はどうなるんだろう。こんな恐ろしい空間が口を開けた世界で、これからも生きていかなければならないのに。

 僕の時代にはこんな場所は無かった。だとしたら、やはり慎司は、あの曽根崎さんとは遠く離れた存在だったのだろうか。


「落ち着け」


 混乱した思考に目を回す僕の肩に、慎司の手が置かれる。見上げた彼の唇には、薄い笑みが広がっていた。


 ……え? 笑ってる?


 僕の視線に気づいた慎司は、右手でピースサインを作ってみせた。


「心配すんな。ちゃんと俺の読み通り、白はアホだったぞ」

「アホ……アホて。じゃあ、なんであの壁は異次元に繋がって……」

「だから白の打つ手は異次元が開くヤツだっつったろ。ほら見てみろ。下の方はまだ少し元の壁が残ってる」

「あ、ほんとだ」

「俺の推測が正しければ、あの場所を黒線で埋めりゃまた元の壁に戻る。だから大丈夫だよ」

「マジか」


 あのだだっ広い異次元がたった一筆で埋まるとは信じられなかったが、慎司が言うならそうなのだろうか。

 つーかあんなに規模でかいなら事前に言えよ。びっくりするだろ。

 僕は唾を飲み込み、彼の服から手を離した。


 ――これから僕は、水晶で慎司を見て曽根崎さんを観測し、現れるだろう四つ足を引きつけて異次元に飛び込まねばならない。

 パラシュートを確認する。必要かどうかは不明だが、念の為持っておくに越したことはない。ゴーグルは……慎司の家に忘れたな。取りに帰る時間は無いから、諦めるしか無い。

 そして最後のおまけに、ポケットに潜ませた曽根崎さんのアンクレットも、指先で確かめた。


 ……よし、これで僕の方の準備はオーケーだ。そうなると、あと一つ足りないのは……。


 白い浮浪者を眺める慎司をつつき、僕は言った。


「慎司、水晶」

「述語がねぇなぁ」

「意地悪言うなよ。もう行くんだから、いい加減返してくれ」

「……」


 慎司はポケットに手を突っ込んだまま、動かない。じっと白い浮浪者を見ている。


「慎司」


 僕の呼びかけに、彼はやっと水晶を取り出した。

 だがホッとしたのも束の間、僕がそれを受け取ろうと伸ばした手は、水晶ごと慎司に掴まれてしまった。


「な、何だよ」

「……」


 驚いたが、ヤツに目を向けて更にギョッとする。

 慎司は鋭い目を見開き、困惑に唇をひん曲げていたのである。


「どういう顔!?」


 僕の問いに、彼は小さく首を傾げた。どうやら、自分自身が一番この行動を信じられないでいるらしい。

 その戸惑いきった目につられて、僕まで動揺する。

 手を離そうとしたが、慎司は掴んだまま離してくれなかった。


 そして彼は逡巡した挙句、苦しそうな声を絞り出す。


「……これを返したら、お前は行くんだな」

「……」


 慎司の問いに抵抗を止め、頷く。そうするより仕方なかった。

 この時、僕はどれほど情けない顔をしてたのだろう。強張っていた彼の頬が、僕を見て少しだけ緩んだ。


「勿体ないな。お前が来てから面白いことばかり起こってたのに」

「……ごめん」

「なんで謝るんだよ。その必要はない」


 慎司は、目を伏せた。


「……ただ、ここで別れたら、もう二度と“お前”に会うことはできなくなる」

「そんな……そんなことはないよ。この時代にも、ちゃんと僕はいる」

「だがそれは、今ここで俺が観測している景清じゃない」


 水晶が手に食い込む。慎司が強く手を握っているせいだ。当然痛んだが、僕は振り払えなかった。

 ――一週間、ずっと僕に向かって伸ばされ続けていた、友人の手を。


「……行くなよ」


 唐突な言葉と夜にも似た瞳が、ふいに僕を射抜いた。


「異次元に飛び込んだ所で、未来に帰れる保証も、そもそも助かる保証も無い。だったら、もうここにいればいいだろ」

「……慎司」

「案ずるな、戸籍ぐらい俺が何とかしてやる。こちとら金だけはあるんだ」

「待て。なんだそのそこはかとなく犯罪の予感しかしない提案」

「戸籍は、買える」

「断言すんな。やめろやめろ」

「だから……」


 一呼吸おいて、慎司は言う。


「ここにいろよ、景清」


 ――人の心など、僕に読めるはずがない。

 でも、今の慎司は、きっと本気で僕と向き合ってくれているのだと感じていた。

 真剣な目は、もう笑っていない。


 僕は驚いていた。コイツがこうやって僕を引き止めてくれるなんて、思いもしなかったからだ。


「……」


 だが、その言葉には応えられない。

 それを言うなら、僕だって最初からずっと本気だったのだ。


「……ありがとう、慎司」


 僕は、やっと彼の手を握り返した。


「でもごめん。僕は行くよ」

「……」

「僕は、僕の観測した曽根崎さんを助けたい。勝手だけど、多分そうすることが別の面で生きるお前の寿命も伸ばすことにもなると思うんだ」

「……」

「だから……」

「いいよ、もう言うな。……元々、お前とはそういう約束だったんだ」


 繋がれた慎司の手から、力が抜けた。


「俺が止めてもお前が行くってんなら、きっとこれで正しい」

「……うん」

「それに、俺ももうだいぶ“足りた”しな」


 ――“足りた”とは、どういうことか。

 この言葉に、僕はふと彼と出会った時の事を思い出していた。


 埃っぽい廃墟。口を開けた異次元。無数の緑の目。あの時、それらに魅せられ一歩踏み出した僕を引き止め、慎司は「まだ足りない」と呟いた。

 ……日常に飽き、刺激を求めてこんな場所にまで来るような男である。それがこの一週間で「足りた」と言ってくれるのなら、僕は少しでも彼に何か返せたのだろうか。


 ゆっくりと慎司の手が離れる。僕の手に、部分的に赤く染まった水晶を残して。

 見ると、僕と慎司の両方の手から血が滲んでいた。


「景清、もう片方の手も出せ。同じ傷をつけてやる」

「なんで?」

「“お守り”だよ。俺からお前にやる餞別だ」


 左手を取られる。


「なぁ、覚えてるか? 異次元から出てた腕のことなんだけどさ」

「うん」

「あの時のお前は、俺が男を見捨てた罪悪感に苦しんでると思って、色々フォローしてくれてたけど」


 ――実はあれ、違うんだ。

 そう言うと、彼はもう一度水晶を僕の手から取り上げる。


「本当は、こう考えていた。――俺があの時見捨てたのは、チンピラ男ではなくお前の腕だったんじゃないのか、と」

「……!」

「異次元なんだ。何が起こるかなんて分かったものじゃない。皮膚を剥がされて裏返しにされるかもしれないし……あるいは、肉体の時間遡行も」

「なら、慎司はあの腕が今から異次元に行く僕の成れの果てだと考えてたのか?」

「ああ。だからそうならないように、“お守り”をつけてやるんだよ。あの手のひらに傷は無かったからな」


 そうだ。腕が確定した歴史だとしたら、僕らの手のひらに傷がつけられることで絶対的に別のものになるだろう。

 ――つくづく、頭が回るやつである。

 それに引き換え僕は、衣食住を世話になった上に足を引っ張ってばかりで、最後まで何もできなかったな。


 それを謝罪すると、慎司はニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。


「衣食住を世話に? お前、何甘っちょろいこと言ってんだ」

「え?」

「貸してるだけだからな。後で費用諸々全額耳揃えて返済して貰うぞ」

「え? ……え?」


 嘘だろ?

 僕一文無しなんだぞ?


「まさかこの時代の僕に請求しないよな? やめてやれよ、まだ十一歳なんだぞ」

「アホか。ちゃんと二十一歳のお前に要求するわ」

「で、でも、この時代の僕はお前の観測する僕じゃないんだろ? 二十一歳になったからって僕はお前のことは……」

「残念、俺は執念深いぞ、景清」


 それはよく知ってる。

 慎司は、強い口調で僕に言った。


「もう決めたんだ。俺は、意地でも“お前の曽根崎さん”の足取りを追ってやる。同じ面を観測して、確定させて、一つも間違いなく連ねて、必ず俺は俺の観測した竹田景清に辿り着いてやる」

「……」

「だから、景清」


 手のひらに痛みが走る。傷つけられた場所から、血が滴った。


「……またな」


 その慎司の言葉に、僕はなんとか「うん」と頷いた。


 ――実現は、まず不可能だと知っていた。目の前の慎司が、僕の観測した曽根崎さんと全く同じ歴史を辿り、また未来で出会うなんて。

 無数の面の連なりを、何一つ間違うことなくなぞらねばならないのだ。限りなくゼロに近い可能性を、頭の良い彼が理解していないわけがない。


 それでも。


 ――そう分かっていてもなお、僕はまた慎司に会えたらいいと思っていた。


「……またね、慎司」


 返事をして、立ち上がる。

 白い浮浪者の姿はもう無かった。ならば、もうあまり時間は残されていないだろう。

 二人で部屋の中央に行く。それから僕は異次元の前に向かい、慎司は少し遠くに離れた。


 水晶を覗いて四つ足が現れてしまえば、きっと言葉を交わす余裕は無いに違いない。だから僕は、今感謝を伝えることにした。


 振り返り、すっかり見慣れた彼の仏頂面に笑いかける。


「ありがとう。慎司といられて、楽しかったよ」


 そして僕は、“お守り”の傷がついた手で水晶を、眼前に持ち上げた。

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