第2話 目に、食われる
絶叫系とやらが苦手である。あのヒュッとなる感覚が嫌で、好き好んであんなものに乗りたがる人の気が知れないと思っていた。
そんな僕だから、当然バンジージャンプもしたことはない。
だというのに。
――今僕はまさに、命綱とパラシュートを体に括り付けた我が身を、深い穴に投げようとしていた。
『ちゃんと紐は繋がっているかい? ガニメデ君』
インカムを通して聞こえてくるのは、今回の作戦に協力してくれている田中さんの声だ。「はい」と短く答える僕に、彼はご自慢のバリトンボイスを長々と披露してくれる。
『紐は地球何周分も用意ができるから、安心してエウリュディケをさらってくるといい。ああ、帰る時には決して後ろを見てはならないよ。古今東西、それがお約束というヤツだからね』
「誰がオルフェウスですか、誰が」
『そうそう、それぐらいの軽さで挑まなきゃだ。僕のお高いポンコツ眼鏡は穴を認識してくれやしないけど、できれば曽根崎君を釣り上げてみたいという気持ちは同じさ。ガニメデ君一人に頼むのは大変心苦しいが、いつだって救いの手は一本しかありはしない』
田中さんの言葉にどう返していいか分からず、僕は押し黙った。
――時間の流れが狂った穴に飛び込んで、曽根崎さんを助けて帰ってくる。
本当のことは言えなかったので、そう嘘をついた。けれどそんな荒唐無稽な話にも関わらず、田中さんも柊ちゃんも僕を馬鹿にせず手を貸してくれている。
……もしかしたら、全ての答えを知っているだけかもしれないけど。
「……穴が閉じるまでは、見守っててあげるわ」
少し離れた柊ちゃんが、僕の背中に向かって言う。
「だから、安心してシンジに会ってきなさい」
優しい声に、穴を見つめたまま頷いた。
振り返ったら、覚悟が揺らいでしまいそうだったからだ。
だけど、それでも僕は行くのだ。
そう決めたからこそ、深淵の縁に立っている。
「……」
昨日よりは小さくなった穴を覗き込む。阿蘇さんがここに立った時には時間が経過し髭面になったと聞いたが、今の僕にそんな現象は起きなかった。
ただ、無限の闇だけが僕を見つめ返している。
「……よし」
僕は、今からここに飛び込む。
――怪異の掃除人・曽根崎慎司を、助ける為に。
僕は深呼吸をすると、底知れぬ暗黒に向けて足を踏み出した。
風が耳元で鳴る。落ちる風圧に体が言うことをきかない。視界がぐるぐると回り上も下も分からなくなって、目を閉じた。
怖い。
怖い。
でも、曽根崎さんもここを落ちたのだ。
「……ッ!」
目を開ける。ゴーグルをつけているので、風で目がやられることはなかった。だが、開けたところで光の届かぬ闇の世界では何の意味も無い。
――いや、違う。
僕は、深淵の底に目を凝らした。
――何か、いる。
僕の落ちる先。
微かに緑色に発光する、無数の何かが。
蠢いている。
「……う」
気づかれてはならない。
見つけられてはならない。
見渡す限り敷き詰められたそれの正体を、“認識してはならない”。
けれど僕の体は、為す術もなく落ちていく。
「……!」
限界だ。
僕は、再び目を閉じた。
アレが何かは全く分からない。だけど僕の世界には許されない、絶対的に拒絶されるべき存在であるということだけは理解できた。
それこそ、一目見ただけで認知を粉々に破壊され、二度と平和だと信じている世界に帰って来られなくなるような。
――僕の目的は、曽根崎さんを助けることだ。
彼に会うまで僕自身が無事でいなければ、彼を見つけられない。
祈るような、しかし不思議と落ち着いた気持ちで僕は落下していく。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて。
ふいに、何の抵抗も無くなった。
「……?」
こわごわ、目を開ける。
そこは、何も無い空間だった。
本当に“何も無い”としか形容しようがなかった。辺りの景色には色すら存在せず、ひたすらに無限だけが広がっている。
「……ここは?」
明らかに先ほどまでの場所とは違う光景に、ゴーグルを外して声を上げる。
そんな僕の疑問に応えるかのごとく、上から丸い塊が落ちてきた。
「――やぁ、景清君」
それは、黒い男の生首だった。
「ヒッ……!?」
飛びのこうとするも、僕の体は浮かんでいるだけで自由にならない。
それでももがいていると、足元に落ちた男の首は馬鹿にしたように口角を吊り上げた。
「そんなに怯えなくてもいいではありませんか。互いを知らない仲ではないでしょうに」
「な、な、何しにきたんだよ!」
「何しに来たも何も、私は貴方の行いを幇助しに来たのですが」
にゅるりと首から体が生える。
いつもの姿に戻ったところで、男は仰々しくお辞儀をした。
「――この通り、景清君の奮励努力にご褒美を差し上げようと思いまして」
「そ、そんなわけ……!」
「無い、と? しかし、このまま穴に落ち続けていれば、貴方の身は神に喰われてペラペラになっていたでしょう。……いくら時間が無かったとはいえ、この短絡は嘆かわしい。貴方はもっと頭を使うべきでした」
がっかりしたような言葉と共に、男は黒い人差し指でツンツンと己の頭を叩く。なんとも人を小バカにした仕草に腹が立ったが、それより男の言い分が気になった。
「……幇助って、何してくれるんだ」
「おや、存外素直に聞き入れてくださるんですね」
「未解決の点が残っていることは僕も承知していたからな。曽根崎さんと僕じゃあ、穴に落ちた時間にもズレがあったし」
「ふむ」
そう、この展開は半分僕の狙い通りなのだ。
男を睨み、言い放ってやる。
「だから僕は、全ての辻褄が合う不思議な出来事が穴の中で起こるだろうと予測してたんだ。そんな事態でも起こらないと、曽根崎さんを助けられるドンピシャのタイミングで過去には戻れないからな」
「無謀ですねぇ。貴方の場合、それは予測とは言わず単なる期待、もしくは他力本願とでも呼ぶべきものでしょうに」
「なんとでも言え。アンタが出てきて手助けするって言ってる時点で、僕の考えは当たってるんだよ」
実際男の言う通り、僕の計画は穴ぼこだらけだったのである。
無事に穴を通り抜けられる保証も、曽根崎さんを助けられる確証もない。ただ、できるだけ曽根崎さんと同じ条件で穴を通り抜け、パラシュートで不時着したらその先で曽根崎さんを助けようとしていただけで。
ちなみに紐は、穴の途中で曽根崎さんをキャッチできた時に引き上げる為のものであった。僕の合図一つでバンジージャンプ化する恐ろしいブツである。加えて、元の世界に戻る命綱、あるいは不測の事態が起こった際の緊急避難用というか……。
まあ、この男に呆れられても仕方のない杜撰さではある。うるせぇ、これでも頑張って考えたんだよ。
僕はフンと鼻を鳴らし、宙に浮きながら腰に手を当てた。
「で? アンタは僕を助けてくれるんだろ? それじゃあ早速、曽根崎さんを助けられる過去まで僕を連れてってくれよ」
「……簡単に言いますねぇ」
「アンタならできるだろ。つーか、手助けってソコ以外何があるんだ」
「仰る通りです」
男の口がかぱっと開く。歯の無い、真っ暗な闇が僕に向けられた。
「ですが」
口の中のたくさんの目が、こちらを覗いている。
「“過去に戻る”ということは、貴方の思考のように単純なものではないのです」
目の中にある細かい歯が、カチカチカチカチと音を鳴らす。ゲタゲタと、男のイヤミに下卑た笑い声を立てながら。
……アメリカのコメディドラマかよ。ムカつくな。
「いいですか? 本来この世界は、無数の事象が重なり合ってできているのです。君という観測者が関わり収束させることで、ある一面を現実として確定させているに過ぎない。未来、過去というものは存在せず、“今この瞬間”しか――いえ、それすら絶対的ではなく、しかし全ての時間はこの一瞬に内包されているのです」
男は大袈裟に両手を広げて、流れるように語る。
「では、その中で“過去に戻る”ということは何か? ――それは、貴方が昔観測により確定させた地点に寸分の狂いも無く貴方自身の肉体と精神を動かすことに他なりません。だから貴方がもう一度“かつて貴方が観測した曽根崎慎司”に会いたいと願うなら、貴方は曽根崎慎司が落ちた面に同時存在しなければならない。……とはいえ、その為にはまあ……喩えとしては少し差異はありますが、現在の観測点とかつての観測点に直結する“パイプ”を通る必要がある」
「……そのパイプが、あの穴なのか」
「おやおや、貴方がこの話に追いつけているとは意外です。……まさしくその通り。あの穴は、落ちた者が観測してきた点に肉体と精神を運ぶことができるのです。……ただし、通り抜けるには二つの問題点がある。一つ目は、体を伴って通るには膨大なエネルギーが必要であること。二つ目は、神の眼前を横切らねばならぬことです」
「……」
「膨大なエネルギーは神が放出しているので、彼さえ素通りできれば貴方はパイプを通ることができるでしょう。……しかし、腹を空かせた神はそれを許さない。生きた人間が通ろうとすれば、神はその者の全身の骨を抜き去り、きれいに平らげてしまいます」
「……そうか」
つまり、タダでは通れないぞ、ということらしい。
なら曽根崎さんの骨が無事だったのは、穴を通る時点で死んでいたからなのか?
いや、彼の隣には深馬がいた。深馬が曽根崎さんの代わりに食われたという可能性もある。
けれど今は、男の提案を聞くことを優先する。その考察は置いておこう。
男は、僕に三本しか指の無い黒い手を差し出した。
「――だからこうしましょう。君は幸いにして、ある“観測点”を持っている。私の力をお貸ししますので、それを経由して目的の観測点へとお移りください。行為としてはパイプを通ることと同義故、神からのエネルギーも拝借できます」
「……観測点を? 僕が?」
「ええ。貴方の右ポケットに入っている、その水晶ですよ」
ああ、これか。
僕は、ポケットの上から水晶の感触を確かめた。
「それを持ってきたことは褒めてあげないといけませんね。でなければ、貴方は神の御前を通る為、生きたまま一度全ての骨を抜かれなければならなくなる所でした」
「それ死ぬだろ」
「どうでしょう?」
黒い男は、僕に手を差し伸べ続けている。
「……これで曽根崎を救うことができれば、貴方は彼の“恩人”になれるのです。己の存在理由の為ならば、景清君、君は自分の身を顧みることはしないはずでしょう」
「……まだそんなこと言ってんのかよ。僕はもう、あのオッサンに恩を売る気はさらさら無い。……ただ」
嘲笑う男に、僕は吐き捨てる。
そして、手を伸ばした。
「――もう一度、会って話をしたいだけだ」
男の手を取る。
真っ黒な口が大きく開き、僕を頭から丸呑みにした。
「光。始点。終点。――君のやろうとしていることは神が矮小に与えし確定にありながら、本来観測不可能の他人の観測点に無理矢理押し入るという禁忌たる行為だ」
数えきれない緑色の目が僕を舐め回す中、内臓に響くような低い声で、男は言う。
「故に、“不浄”に目をつけられるだろう。せいぜい気をつけるがいい」
――上等じゃねぇか。
ニヤリと笑ってやるも、それが男に伝わったかは分からない。
胃が捻れるような息苦しさの中、くしゃくしゃになった僕は目の一つに食われていった。
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