第5章 深淵の果てにて
第1話 助ける為に
深淵の縁に立っている。
「……」
昨日よりは小さくなった穴を覗き込む。阿蘇さんがここに立った時には時間が経過し髭面になったと聞いたが、今の僕にそんな現象は起きなかった。
ただ、無限の闇だけが僕を見つめ返している。
「……よし」
僕は、今からここに飛び込む。
――怪異の掃除人・曽根崎慎司を、助ける為に。
僕は深呼吸をすると、底知れぬ暗黒に向けて足を踏み出した。
曽根崎さんが生きているかもしれないと思い至った直後。
僕はまず、現状を整理することにした。
テレビをつけて、日付けを確認する。お天気お姉さん曰く、今日は曽根崎さんが落ちてから一日目の朝らしい。
ということは、黒い男との契約更新は既に終わっているはずだ。
……生きてるならちゃんと更新したよな? あの人。
それを確かめる一番手っ取り早い方法は、曽根崎さんを介した呪文保持者である阿蘇さんに聞くことである。そうすれば、倒れていた藤田さんの安否も分かるし。
だけど……。
「……曽根崎さんの死体を見ちゃいけない理由って、何なんだ?」
そこなのだ。
曽根崎さんの死体を見るのはダメなのに、生存を確認することは問題無いのだろうか。ましてや、阿蘇さんや藤田さんの無事を確かめるなんて。
まぁそれを言うなら、阿蘇さんに忠告される前から僕は死体を見てないのだけど。僕の中の曽根崎さんの死体は全て伝聞や資料のみで作り上げられたもので、極論を言えばそんなものが無かったとしても知りようが……。
――あ、そうか。
ようやく僕は、僕の仮定から導き出される答えについて思い出した。
「曽根崎さんの死体自体、存在しないのか」
そりゃそうである。曽根崎さんが生きているのなら、死体なんて存在するわけがない。
……だけど、この仮定が事実だとしたら、曽根崎さんの死体は敢えて偽造されていたことになる。
阿蘇さんは「穴に落ちた曽根崎さんの死体を見た」と言い、田中さんは「死体を引き取って検案書を書かせた」と言った。曽根崎さんが穴に落ちるのは未来のことで、予想できるはずなんてなかったのに。
……誰かがそうするよう指示を出した? 誰が? そんな未来を見てきたかのようなアドバイスができるとしたら、黒い男ぐらいしかいないだろう。
それでもやっぱりその行為に説明がつかない。「三日後曽根崎が穴に落ちるかもだから教えといてあげるー」ってか。アイツが? ンなわけねぇだろ超親切じゃん。
けれど、他に曽根崎さんが穴に落ちることを予測できた人物なんて……。
……。
……本人、か?
そうだ、本人だ。曽根崎さんが生きているとしたら、彼は穴に落ちて過去に戻っていることになる。だから彼自身が阿蘇さん達に、「私は未来から来た」と触れ回って動いていたとしたら……!
「……うーん」
――でも、穴に落ちたら普通は死ぬよなぁ……。
実際、一緒に落ちた深馬はばっちり死んでたし……。
……むぅ。
どん詰まりになった僕は、曽根崎さんの机に向かった。どかりと勢いよく椅子に座り、顎に手を当てる。
僕は曽根崎さんほど賢いわけじゃない。が、考察を放棄するようなバカでもない。
――論理を飛躍させろ。着眼点を変えろ。離れた点と点を繋いで、無理矢理辻褄を合わせるんだ。
今回における最大の矛盾はなんだ? ――決まってる。曽根崎さんは確かに穴に落ちたのに、生きているかもしれないことだ。
順当に死んでるのではないか、という正論は無視する。そんなわけで、まずはこの矛盾が成り立つ理屈を強引にでっち上げてみるとしよう。
穴に落ちた体は、三日前に戻される。だが、曽根崎さんの死因は高所からの落下による内臓破裂だ。深馬と違って、骨も抜かれていない。
――もし、検案書すら曽根崎慎司の出したヒントだとしたら?
つまり、落下死を防ぐことができれば彼は助かるのだ、というメッセージなのだとしたら。
自力で助かるのは、多分無理だ。同じ状況で落ちた深馬の死体にも、高所から落下した形跡があったからだ。
ならば第三者の介入があったと考えてみよう。
例えば、今の僕が三日以上前に戻り、落ちてくる曽根崎さんをでっかいクッションで受け止める……とか。
「……うー」
僕は、片手で前髪をかき上げため息をついた。
……うん、まぁ、それなら助けられるけど。
それ以前にどうやって三日前に戻れってんだ?
いっそアレか。僕も穴に落ちてみるか。
いやダメだ、あの穴はもう塞がって……。
そこまで考えて、ふと目を上げる?
――本当に? 本当にもう穴は塞がっているのか?
曽根崎さんの考えでは、召喚者である深馬を落としたら穴は消滅するはずだった。
召喚するのは一瞬だったかもしれないが、消える時はそうじゃなかったとしたら?
「……ッ!」
書類をはたき落とし、埋まっていた固定電話を見つけ出す。以前、曽根崎さんの机の中に散乱していた名刺をまとめたファイルが役に立った。とある女性の名刺を探し出し、僕は受話器を片手に握る。
二回目のコール音の後、張りのあるハスキーボイスが飛んできた。
『ハイこちら暁闇出版の月上! 景清!?』
なんで分かった絶世の美女。
それでもいつも通りの元気の良さに、涙腺が緩みそうな安心感を覚える。
だが、堪えた。今は急いで尋ねなければならないことがあるのだ。
「はい、景清です。柊ちゃん、昨日は助けてくれてありがとうございました」
『ほんとよ! アンタ抑えるのどんだけ苦労したと……!』
「ほんとすいません。ところで聞きたいことがあるんですが、構いませんか」
僕の突然の申し出に、柊ちゃんは快くオーケーを出してくれる。それに勇気をもらい、僕は素っ頓狂な質問を投げた。
「穴は……あの巨大な穴は、もう塞がってるんですか?」
『穴ぁ?』
柊ちゃんが答えるまで、僕は無限の時間を待った気がした。心臓はバクバクしていたし、知らない内に手は握り拳を作っていた。
勿論そんなことを知らない柊ちゃんは、今日の体調を聞かれたような気軽さで教えてくれる。
『まだよ。ちょっとずつ小さくはなってるけどね。この分だと今日の昼には消えるんじゃないかしら』
「――!!」
繋がった。
僕は、そう思ってしまった。
時計を見る。
まだ、朝の七時だ。
叶うかもしれない。助けられるかもしれない。
昼までに穴に飛び込めば、またあの曽根崎慎司に会うことができるかもしれない。
確たる根拠は無い。矛盾も山ほどある。
だというのに、僕はそう強く直感してしまったのだ。
『……景清?』
「すいません、一度切ります!」
訝しげな柊ちゃんを残し、一方的に受話器を置く。情緒の不安定な電話をしてしまったが、今は考えをまとめたかった。
――僕が穴に落ちて、過去に戻り、曽根崎さんを助ける。
それが実際に行われたかどうかを証明するのは、実は簡単だ。
阿蘇さんか田中さんに、僕と曽根崎さんが“曽根崎さんの死体を捏造するよう頼みに来たか”を確認するだけでいい。
何故なら、もしそれが可能だったとしたら、曽根崎さんの死体をでっち上げたのは恐らく“過去に戻った僕と曽根崎さん”だからだ。
では何故、そんなことをしたのか?
それは勿論、曽根崎さんを助ける行動を僕らに取らせる為に他ならない。ああ、もしかしたら、過去に戻った僕の存在を示唆する目的もあったかも。
けれど、だからといってそれを実行に移すことはできない。
僕は、今一度阿蘇さんの言葉を思い出していた。
『――死体を見てはいけない』
そうだ、ここでその言葉が意味を持ってくるのだ。
そしてそれは、曽根崎さんから教えてもらった“未来は決定しており、歴史はそれに付随し変容する”という前提と組み合わせて考える必要がある。
これらから導き出される結論は、つまり――
――僕の“歴史”に曽根崎さん達の生死が決定されるのは、僕が彼らの姿を直接認識した時点だということではないか?
「……」
……?
……いや、何言ってるんだろうな、僕。よく分からなくなってきたな。
えーと要するに、曽根崎さん達の生死を確認してしまったら、死んでいると分かるから、しちゃいけない。
それと同じで、僕が過去に戻ったかどうかも阿蘇さんに聞いてしまったら、僕は過去に戻れなかったと分かるから、聞いちゃいけない。
けれど、確かめない限りは不確定のままだ。
そして不確定であれば、理論上僕の願いが叶う可能性はゼロじゃないままなのだ、と。
こんなとこかな?
……おお、ややこしい。
そして寄る辺ない。
だけど、こんなぶっ飛び理論が全ての辻褄を合わせてしまう。
阿蘇さんが迷いなく藤田さんを助ける手段を見つけた理由。時折起こっていた不可解な出来事。突然現れた柊ちゃん。そして極めつけに、僕のもとに届けられたスーツ。
それら全部に、“過去に戻った僕と曽根崎さんが関わっていたから”という前提が加わると一応の説明がつけられてしまうのだ。
――でも、それだけじゃない。
目を閉じた僕のまぶたの裏に、雨に打たれる叔父の姿を浮かべる。
――あの時倒れていた藤田さんだって、僕がこの手で救うことができるかもしれない。
僕は椅子から立つと、曽根崎さんのスーツに近寄った。かがんで手に取り、ポケットの中を漁る。
過去に戻ると決めたなら、次は安全にあの穴を通り抜ける方法を考えねばならない。
曽根崎さんの死体は、同じタイミングで落ちた深馬と違い骨が抜かれていなかった。
だとすればきっと、そうなった理由があるはずだ。
小型ナイフっぽいものやら、よく分からない機械やらがわんさと出てくる。そんな中、僕は何か固いものを握った。
「……水晶だ」
広げた掌の上で、八面体の水晶が転がる。……前の事件で犯人が持っていた、過去を視ることができる怪しげなシロモノだ。確か、彼女が消えた車から唯一見つかったのだと曽根崎さんは言っていた。
あの穴は、時間の流れが歪んでいる。
それを踏まえると、時間に関係するアイテムを持っていたから、曽根崎さんは骨を抜かれずに済んだと考えられなくもない。
僕は、水晶をポケットに入れた。確証など無いが、何はともあれ持っておくに越したことはないだろう。
ついでに、オニキスのアンクレットも逆のポケットに突っ込んでおく。ヤツに会った時、お前が手放してどうすんだ、とぶつけてやらねばならないからだ。
さて、スーツから得られる情報はこれぐらいか。あとできるのは、曽根崎さんを“より”助けられる可能性を上げることぐらいである。
その心当たりも、一つあった。
僕は机に戻ると、迷いなく名刺ファイルのとあるページを広げて受話器を持ち上げたのである。
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