第35話 呼び続けた名の意味を
飄々として生きながら、拭い去れない深い闇を抱えていることを知っていた。
自分が手を離してしまえば、笑いながらこの世界のどこからもいなくなると知っていた。
だから、俺は決して折れない“柱”になろうと思ったのだ。
阿蘇は、ミートイーターを除去される苦しみに身をよじらせる友人の体を、より一層強く押さえ込んだ。
彼の悲鳴は、もう聞こえない。代わりに、掠れた声が漏れている。
声を出してくれるのは、いい。生きていることが分かるからだ。
雨が体を濡らす中、阿蘇は全神経を張り巡らせて、藤田の状態を観察していた。
「――。――」
呪文を唱え続ける。頭痛も、吐き気も、益々酷くなる。けれども、阿蘇は藤田から突出した肉色の不気味な植物から手を離さなかった。
「――。――。――」
心配するな、と言いたかった。
耐えてくれ、とも。
本当は、ずっとただの友達でいたかったんだろう。俺を神様なんかにせず、アホなこと言って、バカなことをやって、昔と何ら変わらずにいられたなら。
それでもお前はあの時、生き続ける為に、なりふり構わず俺にしがみつく事を選んでくれた。
訪れる夜に悲鳴を上げ、幻聴に怯えては俺にすがり祈って。多分お前は、こんな歪な関係性になった事を悔いていたと思うけど。
――俺は、心底ホッとしてたんだ。
「……ッ! ぁ……あ」
藤田は、なおも辛そうに呻く。植物は、既に半分ほど摘出されていた。
きっと、これでもうミートイーターが花開くことはないだろう。力を込めて、阿蘇は植物の先端を握りつぶした。
「――。――……ッ!」
ぐわん、と視界が揺れる。口だけは動かし続けていたので呪文が途切れることは無かったが、一瞬力を緩めてしまった。
その隙に、苦しみに耐えかねた藤田が拘束から逃げ出そうとする。だがそうはさせまいと、阿蘇は咄嗟に腕を掴んだ。
「ああああああああ!!」
骨が砕ける音と、絶叫。呪文の影響で筋力のタガが外れていた阿蘇は、加減ができず握り潰したのだ。
けれど取り合わない。そのまま引き寄せ抱え直し、阿蘇は藤田の右腕を治癒する。
迷ってはならない。躊躇ってはならない。
僅かな弛みが全てを狂わせてしまうと、阿蘇は確信していた。
……つくづく彼は、自分の無力を憎んでいたのである。
その無力を越える為なら、努力を努力とも思わなかった。ただ、自分にとっての当然であると、己を律し続けて。
雨で滑らないよう、植物を指に巻きつける。気の遠くなるような注意深さで、少しずつ引き抜いていく。
絶え間なく神経細胞を千切られては治される藤田は、開けっぱなしの口から赤い液体を垂らし喘いでいた。
「……ぐっ、あ、……が」
「――。――」
――すまん、耐えろ。耐えてくれ。
祈る神を持たない阿蘇は、ひたすら藤田に願うしかなかった。
――頼む。どうか。
生きてくれ。生きてくれ。生きてくれ。
俺は、お前が、生きられるなら
いくらだって、何度だって
ここに、お前を、繋いで……!
藤田の首がガクンと上に反る。雨音に混ざる阿蘇の呪文は、今や殆ど悲鳴のようだった。
「――。――」
……もう少し、あと少しだ。
ミートイーターを掴む自分の右手に、殊更意識を集中させる。
……大丈夫、まだ生きている。ちゃんと生きている。
このままいけば、今度こそコイツを助け――。
「がっ……ごぼっ……」
「――。――。――……」
藤田が、咳き込む。吐いた血が、包帯を巻いた阿蘇の左腕にぼとぼとと落ちた。
その瞬間、制服を血に染めた藤田の姿が脳裏にフラッシュバックした。脊髄を抉るような恐怖に、全身が一気に凍りつく。
それでも痛み出した左腕にかろうじて理性を繋ぎ止め、阿蘇は呪文を紡ぎ続けた。
――違う。あの時とは違う。
俺は、助けられる。コイツを、まだ、今なら。
彼は、必死で自分に言い聞かせていた。
だが、いよいよその正気にとどめを刺す事態が起こる。
「……ッ」
今まで本能的な暴れ方しかしていなかった藤田が、突然ゆっくりと左腕を持ち上げたのだ。
「……」
阿蘇の左腕に、藤田の赤く汚れた手が乗せられる。阿蘇を制す動きではなかった。苦しさをごまかす為のものでもなかった。
ただ、意思を持った手が、優しく添えられた。
「……!」
ごぶ、と口から血がこぼれる。しかしなおも、彼は息に言葉を乗せようとしていた。
「……ア」
藤田の声に、阿蘇の呪文が震える。――聞きたくなかった。今の藤田に、そんなことをして欲しくなかった。
想像を絶する苦しみを押してまで、彼がそれをしようと思ったことの意味に気づきたくなかった。
しかしその願いも虚しく、微かな声が阿蘇の耳に届く。
「……あ……」
「――。――」
いつも通りの、柔らかな声が。
すぐ、近くで。
「…………あ……そ……」
「――ッ!」
――その慈愛に満ちた呼びかけは、かろうじて堰き止めていた阿蘇の狂気を引きずり出した。
左腕の痛み痺れるような恐怖血塗れの友人生温い血が指の間から噴き出す怖い怖い怖い助からない助けられない俺のせいだ俺が呼んだ俺が壊した助けて誰か冷たくなる体息が弱くなる助からない助からない助けられない俺にはコイツを藤田をナオを街灯夜を背負う兄の姿兄さん兄さん巻きつけられるタオル止まる血無力感俺は、無力、で、ずっと、俺、は
限界だった。呪文の副作用で極限まで削られていた阿蘇の精神は、もう崩壊寸前だった。
「――ッ! ――!! ――!!」
だが、それでも、唱え続けた。
「――! ――! ――ッ!!」
もはや常人では及びつかない、凄まじい精神力。病的とも異常とも呼べるそれをもって、阿蘇は藤田の脳に張っていた最後の根を引き抜いた。
「――……」
呪文にまぎれて、大きく息をする。
――もう、これで大丈夫だ。
残された作業は、抜かれる植物を追って傷を閉じていくだけである。
――やっと、藤田は助かるんだ。
安堵に泣きそうになる。しかし気は抜かない。最後の最後まで、阿蘇は治癒の呪文を藤田にかけ続けていく。
藤田の腕は、いつの間にか地面に落ちていた。声も聞こえず、あれほど暴れていた体は抵抗することなく阿蘇に預けている。
やがてミートイーターは、ズルリと音を立てて藤田の体から完全に分離した。藤田の脳の損傷は跡形も無く、目も元通りになっている。
さぁ、完了だ。
あとは藤田と一緒に、一刻も早くこの場を去るだけでいい。
「藤田」
阿蘇は、明るい声と共に藤田の体を揺さぶった。
だが、彼は目を閉じたまま動かない。
「……藤田?」
阿蘇の腕の中で、藤田はぐたりと脱力する。
雨粒が、頬に落ちては流れていく。
「……ふじ、た」
呼吸を確かめる。
……口元に当てた手のひらに、風のあたる感覚は無い。
急いで胸に耳をあて、心臓の音を確かめた。
――。
「ッ!!」
藤田を仰向けに寝かせ、両手を胸に当てる。そのまま垂直に体重をかけ、素早く丁寧に三十回、胸骨を圧迫する。
――どこだ、どこで俺は間違った。何がいけなかった。何が足りなかった。
額を押さえ顎を持ち上げ鼻を摘み、二回、口から肺に大きく息を吹き込む。
――嫌だ。違う。嘘だ。頼む。生き返ってくれ。
俺の呪文は、“治癒”しかできない。
“蘇生”は、できねぇんだよ。
両手をまた藤田の胸にあてる。体に染み付いた経験だけが、阿蘇の体を動かしている。
藤田は、動かない。
どうあっても、何をしても、動かない。
「ナオ。……ナオッ!!」
心臓マッサージの合間に、怒鳴りつけるように呼びかける。
「寝てる……だけだろ! いつもいつも、お前は……俺を、振り回して!!」
阿蘇の叫びにも、藤田は目を開けない。
体ばかりが、冷たい雨にどんどん温度を失っていく。
「誰が……誰が許すかよ! せめて一言ぐらい……謝ってから……!!」
だから、目を覚ませよ。誠意が無いのはいつもの事だろ。アホみたいなこと言いながら土下座して、また俺を呆れさせて。
そんなんでいいんだよ。いいから。だから。
「――頼む、ナオ」
心臓マッサージの手を止めない阿蘇は、悲痛に顔を歪ませた。
「俺の前から、いなくなるな……!!」
だが、阿蘇の懸命な心肺蘇生にも、藤田は指一本反応しない。
藤田の呼吸は、戻らない。
藤田の心臓は、動かない。
なん、で。
なんで。
なんでだよ。
頭の中が真っ白になっていく。絶望が胸の内を満たしていく。左腕がズキズキと痛む。雨音がやけに耳につく。
目の前の友人が物言わぬ“何か”になった事実を、受け入れることができない。
どこにも現実感の無い、視界の隅に。
――彼は、一つの黒い影を見た。
「……お、ま、えは」
ぎこちない動きで、阿蘇は振り返る。
穴の縁に立つ、真っ黒なコートを着込んで、真っ黒な帽子をかぶった、男を。
「おまえ、の、せい、で……!」
呪文の影響でまだ筋力が異様に向上していた阿蘇は、言うなり驚くべき速さで黒い男の前まで飛んだ。
拳を握り、その身を撃ち抜こうとする。
だが、手は呆気なく空を切った。
「……貴方は、よくご健闘されました」
耳元で、黒い男が嘲笑する。
「ほら、耳を澄ませてご覧なさい。藤田様の声が聞こえるようです。彼は不遇な人生ながら、最期はご友人の尽力に笑みを浮かべ、何の憂いも抱くことなく死の旅路へと向かわれました。……阿蘇様、お喜びください。これは貴方様のご功績なのです」
「――あ、あああっ、あああああああ!!」
男を殴りつける。最小限の動きで避けられた拳は地面に向かい、アスファルトを割った。
骨が折れた気がする。アドレナリンのせいか痛みは感じない。構わない。治せばいい。
なのに左腕の痛みだけが、治らない。
――もう、どうなっても、いい。
結局、俺は無力なままだった。
壊して、苦しませた、だけで
何も、何もしてやれなかった。
「……ッ!!」
――だからせめて、コイツだけは!!
阿蘇は男に狙いを定め、鬼神の如き形相で襲いかかった。
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