第34話 阿蘇と藤田の過去(3)信仰

 どんな顔をして会えばいいか、どんな言葉をかければいいか。

 グダグダと考えるも答えは出ず、気づけば病室の前まで来てしまっていた。


「……」


 いつまでこうしていても仕方ない。俺は、意を決してドアの取手に手をかける。


 だが開けた瞬間、見事に全てが吹き飛んだ。


「……確かにオレは高校生だけどさ、もうすぐ卒業するし。それでもしお姉さんみたいな綺麗な人と一緒にデートできたらなー、なんて夢見ちゃったりして」

「ええー、どうしよっかなぁー」


 看護師の反応に、熱っぽい視線を送る美形の男。柔らかく微笑み手を握るその姿は、やたら手慣れたものである。


 ……。


 俺は、アホがいるベッドまでスタスタ歩いて行った。


「……藤田」

「一日だけ、ちょっとお試しでさ。記念だと思って、ほら」

「藤田」

「卒業って節目じゃないですか。おめでとうって言葉もやっぱ直接聞きたいし」

「藤田さん」

「あ、そうだ。ところでお姉さんはどこ住み……」

「オルァッ!!」


 こちらを完全無視する藤田の顔面に、水平チョップをくらわせる。

 ヤツはベッドに沈み、看護師は気まずそうな顔で病室を出て行った。


 ……さて。

 両手の指の骨を鳴らし、俺は藤田を見下ろす。


「……なんともまあ、ご機嫌な入院ライフをお過ごしだったようで」

「あはは……ご無沙汰しております、阿蘇さん」

「そんなに元気ならもう三発ぐらい耐えられるな?」

「どうか拳をお納めくださいませ。代わりにとんでもなくヤラシイ添い寝をご提供いたしますから」

「どういう贖罪だよ。前世ボノボか?」


 布団も服も捲ろうとした藤田を止める。その際、左腕に巻かれた包帯に目がいった。

 適切な処置がなされ、しっかり縫合もされたのだろう。派手に巻かれた布には、一滴の血も滲んでいない。

 結構深く刺していたようだったが、神経は大丈夫だったのだろうか。そんなことを思っていたら、ふいにチクリと自分の左腕が痛んだ。


「……?」


 顔をしかめ、手で押さえる。ちょうど藤田の怪我と同じ位置だったが、自分は怪我などしていないはずだ。

 藤田も、不思議そうに俺を見ていた。


「どうした?」

「や、別に……。それよりお前こそどうなんだよ、体」

「あー、多少はだるいけど元気いっぱいだよ。お陰様で」

「お礼は兄さんに言え。俺は何もしてない」

「いやぁ、傷口押さえてて貰わなかったらヤバかったらしくてさぁ。本当助かったよ。ありがとうね」


 端正な顔を崩して笑う藤田を、表情を固くしたまま見つめる。

 最初は変わらずヘラヘラとしていた彼だったが、やがて俺には通用しないと分かったらしい。次第に笑みを引っ込め、最後には目を伏せてしまった。


「……幼馴染の勘が鋭いって、メリットばっかでもねぇな」


 諦めたような声で呟く。

 やっと、胸の内を話してくれる気になったようだ。


「……教祖様の血が無くなって、オレの体には不浄たる他人の血が入った」

「うん」


 ぽつり、ぽつりと語り出す。

 多分、目が覚めて初めて、コイツは本音を話しているのだろう。


「だからオレの体は今、不浄の血によって生かされている。……勿論それでいいんだ。これは、オレが望んだことだから」

「うん」

「体を傷つけ、輸血してもらって、オレは教団から追放された。これで“血束の儀”は行われず、きっと景清の命も助かる。……全部うまくいった。阿蘇にも、曽根崎さんにも、病院の人にも、血を提供してくれた人にも、感謝してもし足りない」


 ――けど、なのに。


 藤田は、右手で自分の左腕を掴んだ。

 同時に、俺の左腕もズキリと痛む。


「――ダメなんだ」


 何がダメなのだ、とは聞けなかった。包帯をむしりとりそうなほど力を込めた指が、俺の愚問を阻む。


 藤田は、小さく震わせる体から声を絞り出していた。


「オレは、オレの血が汚らわしい。体中を這いずり回るこの血を、不浄を、一滴残らず口から吐いてしまいたくて堪らない」

「……」

「オレの体なのに、もうオレのものじゃないんだ。思考も、視界も、中も、全部、全部が、気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い」


 ガリガリ、ガリガリと左腕を掻く。掻き毟る。

 包帯がほつれ、破れ、皮膚が見える。赤黒い、血まで。


「不浄の血がオレの血管を流れる音が聞こえる。目を閉じられない。眠れない。一人になれない。音が、音が、ずっとその音だけがして、僕を、深淵に連れて行く、と……!」

「……藤田」

「だけど、僕の心臓は、これを身体中に行き渡らせるために動いてるんだ! こんな、こんなことがあるか!? 不浄が、いずれ来たる死の際に深淵へと導く為に僕を生かしているって、そん、な、ことが、僕は、僕、は――!!」


 絶望に染まった瞳で、藤田はオレの顔を見上げた。

 左腕に爪が食い込み、血が滲んでいる。俺の左腕の痛みも、皮膚が千切れそうなほど酷くなった。


「……生きていけない」


 ズルリ、と、言葉が爛れ落ちた。


「教祖様も、神様もいない世界で、不浄に生かされ続けるなんて、無理だ。どうせ深淵に沈むのに、何故、こんな責め苦に耐えないといけない?」

「……」

「僕は、弱い。……生きていけるはずなかったんだ。教祖様を裏切ってまで。教団を離れてまで。でも、今の僕には、赦しを乞える神さえ、いない。……赦されない、のが、こ、こんな、怖い、なんて」


 ボロボロと泣き出した藤田の体を支える。

 右手を左腕から剥がし、強く握った。


「……ごめん。せっかく、君に助けてもらったのに。僕も、この血を、不浄と、思うべきじゃ、ない、のに」

「わかってるよ」

「ぼ、僕は……なんで、こんなことに。ごめん、ごめん、本当に……僕が、弱い、せいで」


 ――誰が弱いかよ。


 握り返さない手を掴んだまま、俺は言った。

 だが、藤田は泣きじゃくるばかりで聞こえていないようだ。


 ――自分の甥を守る為に体張るような人間が、弱ぇはずあるか。

 弱さのせいじゃない。ただ信仰が、心臓に根を張り精神の柱となるほど、大きな存在だったというだけだ。


 そして、その確固たる柱が今、根こそぎ無くなってしまったのである。だから彼の精神には風穴が開き、危うい状態になっている。


 時間をかければ癒えていくだろう。

 カウンセリングにかかり、新しく始めた生活の中で、また自分を支える柱を作り上げていけるのなら。


 けれど、今の藤田にその時間を耐えるだけの余裕があるかと問われれば――。


「……ナオ」

「……何」

「提案があるんだ」


 だから、俺はもう一度覚悟を決めようと思ったのである。

 今度こそ、コイツを助けられるように。

 今度こそ、無力に打ちのめされないように。


 ベッドに腰を下ろし、藤田の暗い目を真正面から見つめる。握る手に力を込め、俺は言った。


「――ここを退院したら、俺と一緒に暮らそう」

「………………ほん?」


 ほん?


 ほんってなんだ、ほんって。


 それぐらい驚いたのだろう。口も目も大きく開いた藤田は、首を傾げた。


「プロポーズ?」

「なわけあるか。マジな話、お前退院しても住むとこねぇだろ」

「う、うん。勘当されたし」

「だから俺んとこ来いってんだよ。しばらく住まわせてやるから、そこで生きてく地盤整えろ」

「えー……悪いよ。里子さんにも迷惑かけるし」

「母さんの事は気にしなくていい。大学に入るのを機に一人暮らしする予定なんだ。部屋ももう借りてる」

「わ、わー」

「だから、お前が退院するのに合わせてそっちに住んでもいい」

「君……!」

「何」

「その人の良さ、いつか絶対メンヘラにつけ込まれるよ……!」

「言うに事欠いてお前」


 いつもの軽口に少しだけ笑みが戻った藤田である。

 が、すぐにまた目が曇った。


「……でも、ダメだ」


 声も、より深く落ちている。


「今の僕は不浄だ。そんなことをして、君まで深淵に沈ませるわけにはいかない」

「いや、普段からお前のトラブルの尻拭いしてる俺がなんで地獄堕ちんだよ」

「ほんとだ、堕ちない。いつもありがとうね」

「だから大丈夫だよ」


 そうは言ってみたものの、藤田の手はまだ震えている。口調も幼少期の頃のものに戻ったままで、なんとも心許ない。


 ……うーん……。


 ……なんかアレだな。じれったくなってきたな。


「お前さ、さっきからどういうワケ?」

「え?」


 ので、説教することにした。

 姿勢を正し、藤田を見据える。


「不浄だの何だの言ってるけどさ、結局それってあのジーサンが言ってるだけの話だろ。そんなら俺の言葉も一緒じゃねぇか。お前ジーサンと俺を並べてあのジーサンの方を選ぶの? マジで?」

「え? え?」


 戸惑い顔を上げた藤田と視線がぶつかる。その目を見つめ、ここぞとばかりに俺はたたみかけた。


「俺を取れよ、ナオ。今後一切向こうの事なんざ思い出すな。ジーサンが赦さなくても俺が赦してやるし、神様が欲しいなら俺がなってやる」

「で、でも」

「だからもう泣くな。お前はこっち側に来たんだ。これからずっと、こっち側で生きてくんだ」


 多分、説教というには、情けないほど必死な目をして。


「……俺は、お前に生きてて欲しいんだよ」


 ただ、懇願した。


 その要求に、藤田はパチパチとまばたきをする。弾みで落ちた涙を手の甲でぬぐい、小さな声で尋ねた。


「……僕は、生きていていいの?」

「当たり前だろ」

「でも、神様は赦してくれない」

「だから俺が神様になってやるっつってんだよ。赦してやるからいくらでも生きろ、ナオ」

「……い、いいのかな……」

「まぁあっちよりはいいと思うぜ? まず、俺を信仰した時点で無条件で天国に行ける。血はただの血でしか無いし、スポーツとかも怪我しないよう気をつけて好きなだけすればいい」

「……」

「あと、今なら入会金も無料」

「……ふふ」


 人差し指を立てて勧誘する俺に、藤田は一度幼く笑う。

 それからまた、真剣な顔に戻った。


「――本当にいいんだね」

「いいよ」


 正直、何にでも縋ってしまえと思うのだ。別に俺でもいいし、彼女や彼氏、セフレがいるならそっちでもいい。


 俺は、お前がいなくならないのなら、それで。


「……」


 覚悟を決めたように、藤田は一度、繋いでいる手をギュッと握った。

 そして、名残惜しそうに時間をかけて離す。


「……神様には、触れられない」


 そう言い、布団を捲る。何をするのかと思えば、足を下ろしベッドから降りた。


「君はそこにいて」


 立ち上がろうとした俺を制し、藤田は冷たい床に片膝をつく。そして、両手を組んだ。


 まるで、神に祈るように。


「……ナオ?」

「喋らないで。……神様は、信徒が祈っている間は何の予言もなされない。全てを赦し、全てを受け入れ、ただ見守ってくださるのみだ」

「……」


 ――あ、


 あ、そうか。


 そっか、そうだよな。


 なんで俺は、こんな至極当然なことを見逃していたんだろう。


「……神よ」


 簡単に提案すべきではなかった。


 簡単に承諾させるべきではなかった。


 俺がコイツの神に代わるということは、コイツの柱だった信仰そのものになることだったのに。


「……この、不浄たる僕を」


 頭を垂れ、どこか恍惚とした言葉を紡ぐ藤田にゾクリとする。その声色は、かつて俺に向けられていたどんなものとも違っていた。


 そしてやっと、俺は思い知ったのだ。

 藤田との関係が、もはや取り返しのつかないほどに変質してしまったことを。


「……どうか、お赦しください……」


 息を飲む。自分のしてしまった事に、茫然とする。

 もう戻れない。もう、無かったことにはできない。


 ――だが。


 変わり果てた光景を前に、俺は目を閉じた。


 ――これで、いい。

 もう、俺は、それで構わない。


 このまま藤田が信仰の柱を失ったままだったとしたら、彼は自傷的に人から人を歩き渡り、ある日突然フツリといなくなっただろう。

 そうすれば、二度とコイツはオレの前に姿を現さなくなる。


 そんな予感がした。

 それだけはどうしても許せなかった。


 ――ならば、こうなるのは必然ではないか。


 左腕が痛む。

 藤田は懺悔を続ける。

 病室の外を誰かが通り過ぎる。

 藤田の頬を涙が伝う。

 時計の針が時を刻んでいる。

 血に染まった藤田の姿が脳裏に蘇る。

 現実の藤田の姿に安心する。


 ――ごめんな。


 俺は、泣き続ける藤田に心の中で話しかけた。


 ――俺がお前の世界を壊したんだ。

 お前が生きられるなら、俺がお前の瓦礫の山に立つぐらい、なんでもねぇんだよ。


 夕焼けの差し込む部屋。

 友人だった人間から一心に向けられる祈りを、俺は静かに受け入れていた。

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