第33話 阿蘇と藤田の過去(2)夜を背負う男
まず一つ目の誤算は、思ったよりも出血が酷かったことだ。
噴き出した藤田の血はダラダラと、腕を、肘を、地面を濡らす。
しかし、当時の俺はそれが算段通りだと思っていたのである。藤田の様子を顧みることなく、今し方友人の自殺未遂を発見した風を装って、消防署とのやり取りを続けていた。
だからこそ、服を引っ張ってきた藤田を見た時、俺は全身の血が冷えたような恐怖を覚えたのである。
「あ……阿蘇」
見開かれた藤田の目が、血にまみれた藤田の腕が、俺の思い上がった勘違いを否応無く修正していく。
――違うのか。
――もしかしてこれは、お前の想定外なのか。
俺にすがったまま、藤田はズルズルとうずくまる。俺のシャツに、べちゃりとドス黒い血がこびりついた。
「藤田!」
携帯電話を放り出し、藤田を抱え直す。とめどなく溢れる血を止めるべく、傷口を手で押さえる。
血が止まらない。藤田の顔色はどんどん悪くなる。
血が止まらない。血は俺の手をすり抜けて噴き出す。
焦る脳の一部で、やけに冷静な声がした。
――コイツ、死ぬんじゃねぇか?
自分の心臓の音が、耳元で煩い。
――嘘だろ?
嫌だ、と思った。信じられなかった。さっきまで話していたコイツが今は死ぬかもしれない、などと。
違う、俺だって覚悟はしたつもりだったんだ。けれど全然足りてなくて。こんなに怖いなんて聞いてなくて。
なんで、コイツが、でも、だけど。
――もしかして、俺のせいなのか。
ふと思い至った事実に、首を絞められたように息ができなくなる。
俺か。
俺のせいなのか。
あの時、協力するなんて言ったから。
あの時、無理にでも止めなかったから。
「こっちへ来い」、なんて、言った、から……!
「ふじ、た」
返事は無い。血が止まらない。もはや顔すら上がらない。かろうじて息はある。血が止まらない。
嫌だ。これがコイツの最後なんて。誰か。
誰か、誰か、誰か。
俺じゃ、ダメなんだ。俺じゃ、できなかったんだ。誰か。誰か、コイツを。頼む。
誰か。
――俺ときたら、こんな事態だというのに無知と覚悟の無さ故、何もすることができなかったのだ。街灯も届かない高架下で、ただ藤田を抱え、塞がらない傷を押さえ続ける。どんどん失われていく藤田の体温に、頭がどうにかなってしまいそうだった。
その時である。
「忠助」
凛とした低い声が、俺の背後から聞こえた。
振り返ると、飲み込み難いほど唐突に現れた、夜を背負う、温度感の無い男が。
「止血はそうじゃない。どいてろ」
男は血まみれの俺を手でよけると、細く裂いたタオルで藤田の腕を縛り始めた。
迷いの無いその動きは頼もしく、また自分の情けなさをより痛感させていく。
その男とは、半分だけ血を分けた実の兄であった。
あれから、三日が経った。
兄さんの応急処置の甲斐あり、救急車が来るまでなんとか藤田の体は持ち堪えた。輸血も当然の治療として行われ、彼は一命を取り留めたのである。
しかしそこから意識が戻ることはなく、彼はずっと病院のベッドに体を横たえて眠っていた。
「藤田君は破門されたらしいな」
この一言は、何故か俺より先に情報を仕入れていた兄のものである。
兄――曽根崎慎司は俺の入れたコーヒーを飲んで、感情の無い目を向けた。
「良かったな。これでもう例の教団は二度と彼に会いに来ねぇよ。まぁ実は血液なんて、百二十日あれば全部入れ替わるんだが、お偉いお偉いあの方々には不要な情報だろうし」
「……」
「お前、まだ見舞いに行けてないのか」
兄の指摘に、黙ってうつむく。
俺は結局、一度も藤田の入院している病院を訪れていないままだった。
眠る藤田の顔を見て、あの時に抱いた途轍もない無力感をまた突きつけられるのが怖かったのである。
「今日ぐらいは行けよ」
「……口出しとか珍しいな」
「一応兄だからな。何か知らんが悩んでるらしい弟の背中を押すのも、俺の仕事だ」
「……」
いつもは無関心な男だというのに、どういう風の吹き回しだろうか。何か裏があるのではと勘ぐっていると、兄はサラリと言ってのけた。
「あと藤田君が目を覚ましたらしいし」
「それ先に言えよ!」
元気にツッコんでしまった。
ハッとする俺に、兄はニヤリと口角を上げる。とてつもなく、無性に、腹立たしい。
……違う、これは敗北感か。
――なんだかなぁ。
決まり悪さを頭をガシガシ掻いてごまかし、俺は立ち上がった。
「行くのか」
「おう」
「じゃ、行ってらっしゃい」
こちらを見もしない兄の見送りに、片手を振って返したのである。
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