第32話 阿蘇と藤田の過去(1)発端

「もう抜ければ?」


 それは、なんでもない一言だったのだ。


 いや、実際しんどいだろうなとは思っていたのである。修学旅行は行けないし、怪我をする可能性がある体育の授業にも参加できない。

 そんな到底普通の生活とは言い難い毎日が、コイツが“教団”を抜けない限りはずっと続いていくのだ。

 少なくとも俺であれば耐えられない。教祖を殴ってでも即刻脱退しているだろう。


「あ、なるほどね」


 しかしこんな当たり前の指摘に、当時中学生だった藤田は目が覚めたような顔をしていた。


「その手があったか」


 むしろ今まで気付いてなかったのか、お前。


 俺は呆れ返ると共に、藤田の頭を小突いた。


 それからすっかり忘れていたのだ。藤田に言った言葉も、その際のコイツの反応も。

 時は経ち、俺達は高校生になって、なんやかんやと賑やかな時間を過ごした。


 そうして進学先も決まり、卒業式まであと数日といった頃か。


 俺は、藤田に呼び出された。


「教団を抜けようと思う」


 日も暮れかけた薄暗い高架下。スッキリと整った顔をこわばらせて、ヤツはそう言った。


「だから申し訳ないんだけど、ちょっと協力してほしい」

「そりゃ別にいいけどさ。何する気だよ」

「さっすがぁ。内容言う前からやってくれる前提で話してくれるとか男前」


 藤田は鞄をゴソゴソと漁り、細長いものを掴んで取り出した。巻かれた布を解かれ露わになったステンレスが、灯り始めた街灯に照らされ鈍く光る。


 それは、刃渡り十センチほどのナイフであった。


「……」

「……えーと、この包丁でですね」

「……」

「……まず、オレの体に切れ込みを入れます」

「おバカか?」


 お前バカか? と言いたかったのに、動揺で短縮されてしまった。

 いやそこはどうでもいいわ。何言ってんのコイツ。

 俺は、藤田からナイフを取り上げる為、掴みかかった。


「ああん、やめてこんな所で! 人が見てる! 人が来ちゃう!」

「変な声出すなや! それをよこせ!」

「マジでやめてマジで。マジ危ないから」


 ナイフを取り上げようとするが、こういったものの扱い方に慣れた藤田相手では指すら触れられない。

 彼は後ろに下がって距離を取ると、両手を突き出して俺を制した。


「まずはお話から、ね?」

「聞くだけ聞いてやるよ」

「えーと……オレの実家の宗教団体“生ける炎の手足教団”ってのが、何より教祖様の血を重んじる集団だってことは知ってるよな」

「まぁな」


 短い俺の返答に、藤田は困ったように微笑む。


「オレの父はもう死んでるから、教祖であり始祖であるお祖父様の後継者はオレしかいない。だから怪我をするなんてもってのほかだ。それで清浄たる血を外に流すことがあってはならないからな」


 知っていた。行事や体育の授業に参加できないのも、そんな理由があってのものだと理解していた。


「そんな教団が、教祖様の血を継ぐオレを易々と手放すはずが無い。だけどそれでもオレが、教団を抜けたいとあらば……どうすればいいか」


 ナイフの切っ先が、剥き出しになった藤田の左腕に軽くあてられる。


「答えは簡単だ。“血の価値”を失えばいい」

「……は?」

「つまり、オレの体内に流れる血をできるだけ排除するんだ。そんでもって、代わりに不浄たる他人の血を輸血してもらうんだよ」

「……」


 ――“輸血”、だって?


 目の前の幼馴染の言葉を、すぐに飲み込むことはできなかった。それほどまでに、高校生から出てくるには突飛で過激な発言だったのである。


「お前それ……病院側も迷惑だぞ」

「わかってる。本当に申し訳ない」


 驚きのあまり的外れな指摘をしてしまう。違う、普通にお前が心配なんだって。

 だが、コイツがここまでやってる時点で、既に相当の覚悟は決まっているのだろう。


 ……だからといって、止めないわけにもいかないが。

 俺は、イライラと頭の後ろを搔いた。


「やめろよ。他に方法は無かったのか」

「無い、と思う。むしろあったら教えてくんない? 説得も教義違反も家出もやったけど、全部なしのつぶてでさぁ」

「教義違反もって……あ、もしかして性的人類愛者とか言ってたアレも!?」

「アレは普通に性欲が開花しただけです」

「聞くんじゃなかった」


 顔をしかめる俺に、藤田はイヒヒと笑う。いつも通りのやり取りに、少し肩の力が抜けた。


「……別に今じゃなくったっていいだろ」

「というと?」

「就職とかして、ジーサンの保護下を離れてからでもいいんじゃねぇかって話。これから大学も行くし、金もかかる。成人してからならできることも増えるし、それこそ警察に頼ったって……」

「それがさ」


 俺の説得に、藤田は複雑そうに眉尻を下げる。


「……もう、時間がないんだよ」


 時間?

 尋ねると、彼は一つ頷いた。


「オレが成人したら、ある儀式が執り行われる。教祖様の血族の人間の血を、後継者たる者の体に注ぎ込む“血束の儀”。……この儀式を行うことで、後継者に流れる血がより強くなるんだ」

「なんだそれ。具体的にゃ何をするんだよ」

「……」


 一度深呼吸をし心を鎮めてから、藤田は言った。


「――景清が、オレの為に殺される」


 その顔からは、すっかり血の気が引いていた。


「成人になったオレは、全教団員の前で景清の血を浴び、全て飲み干さなければならない。……それが、“血束の儀”の内容だ」


 ……景清。

 確か、コイツの姉さんの子供の名前だったっけか。

 あまり笑わない子だと聞いた。それでも、藤田が笑っていれば、つられて少し微笑むのだと。


 いい子だと言ってたな。

 いつか思い切り笑わせてやりたいとも。


 ――そうか。だからお前は今、こんな滅茶苦茶をやろうとしてるのか。


「姉さんは反対してるけど、それで教祖様が考えを改められるとは思えない。でも、オレが抜ければその儀式は無くなる。だから……!」

「わかった」


 背筋が伸びた。自ずと、やらなければならないことも理解できた。

 ナイフを手にした藤田から、俺は一歩離れる。


「協力するよ」

「阿蘇」

「どこをどれぐらい切ればいいかは把握してるか? 俺はいつ救急車を呼べばいい」

「オレが……腕を切った後すぐに呼んで欲しい。あくまでオレが自殺してる所を、阿蘇が偶然見つけたって設定で」

「……俺の協力が教団にバレたら、報復もあり得るからか」

「察しがいいね」

「気を遣わせてすまねぇな」

「なんで阿蘇が謝るんだよ。謝るのはオレの方だ。……こんなことに付き合わせて、本当にごめん」


 頭を下げる藤田に、首を横に振る。


 本音は怖かった。

 もしも切る場所を間違えたら。もしも救急車が間に合わなかったら。


 もしもコイツが死んだら。


 だけど、俺はあの日藤田に言った言葉を思い出してしまっていた。――息をしたくない世界なら『抜ければ』いい。そう気づかせてしまったのは、俺なのだ。

 なら、その責任ぐらいは取らなければならない。


「……これが上手くいけば、オレも阿蘇がいる場所で生きられるかな」


 ぽつりとこぼれた弱音に、俺ははっきりと頷く。


「はよこっち来い。修学旅行クッソ楽しかったぞ」

「ほんと羨ましかったんだよねー! 時間よ巻き戻れ! オレも一夜限りの過ち犯したかった!」

「“も”ってなんだよ、“も”って。あたかも俺が犯してきたかのように言うな」

「体育もしたかったし、部活もしたかった! もっと激しめのプレイも色々……!」

「もう落ち着け。今から自殺未遂する人間のテンションじゃねぇぞ」


 ……この時の藤田は如何にもちゃらんぽらんで、俺もどこか楽観視している部分があったのだ。


「それじゃ、後はよろしくね」

「おう」


 ――だから、俺は見誤っていたのである。


 コイツの中に根を張る、教団という存在の影響力を。


「……それじゃまたね、阿蘇」


 そう言って無理矢理笑顔を作った藤田は、左腕に置いていたナイフを振り上げたのだった。

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