第31話 絶叫
しかし、窓の外に飛び出そうとした深馬の体は、いつの間にか腰に繋がれていたロープに阻まれた。
その先にいたのは、同じく体にロープを巻き付けた曽根崎さん。
「そう易々と……行かせると思うなよ……!」
威勢はいいが、今の深馬に力で敵うわけがない。踏ん張る曽根崎さんは、両手で持ったロープにズルズルと引きずられていく。
助けなければ。僕は急いでロープを握り加勢した。
「応援が来るまで頑張ってください!」
「ぐ……内臓全部出そうだ!」
「しまっとけ!」
恐らく、彼はスタンガンをくらわせたタイミングでロープを引っ掛けたのだろう。
だけどいいのかな。このまま財団の特殊部隊が来たら“大きなカブ”みたくなりかねない。
そうなれば曽根崎さんの内臓はもつだろうか。
何故そんな呑気なことを考える余裕があったのかはサッパリだが、とにかく僕と曽根崎さんは必死で深馬を繋ぐロープを引っ張っていた。
が、いくら正気を失っているとはいえ、そのまま大人しくしていてくれるはずがない。深馬はピンと張ったそのロープを両手に取ると、いとも容易く引きちぎった。
「わっ!?」
反動で後ろにひっくり返る。だか、それで良かったのかもしれない。
ほぼ同時に、財団の特殊部隊が部屋に到着したのである。
何の掛け声もなかったが、一斉に僕らの頭上を銃弾が飛んでいく。それから、獣のような咆哮も。
――深馬の体が撃ち抜かれたのだ。
「麻酔銃……っぽいものだ」
隣にいる曽根崎さんが、中腰の姿勢で教えてくれる。
「これで動きが止まってくれればいいが……!」
深馬は、うずくまった状態で動かない。
僕らの後ろにいる十数人の財団員も、銃を構えたまま息を詰めて様子を見ていた。
それが数秒続いたか、数分続いたか。肌を焼かれるような沈黙が、廃れたビルを支配していた。
しかし起爆の時は出し抜けに訪れる。
深馬は予備動作無く床から跳ね上がると、瞬く間に窓へその身を踊らせたのである。
「撃て!」
特殊部隊から放たれた男の声に、銃撃がかぶさる。
だが深馬の体は、まるで糸が切れた人形のように、ずるりと割れた窓から落ちて行った。
「銃撃、止め! ここからは私が行く!」
深馬を追い、曽根崎さんが走り出す。――まさか、ここから飛び降りるつもりか?
「三階ですよ、ここ!」
「重々承知! 行くぞ、景清君!」
腰から伸びたロープを手近な柱に巻くと、曽根崎さんは僕の腰に腕を回した。
え、何? まさか、アンタ。
「――せぇのっ!」
「だっ……あわばぁあああああ!!」
窓枠を蹴り、曽根崎さんは僕を抱えて飛び降りた。
む、む、無茶苦茶しやがる!
細身の三十路にしがみついて三階からダイブというアクション俳優も真っ青な大技を成し遂げた僕は、地上に足がつく頃には半分腰が砕けてしまっていた。
勿論、曽根崎さんは全く気にしない。彼は深馬の姿を見つけると、すぐさまそちらに向けて駆け出した。
「ま、待ってください!」
急いでその背中についていく。走るほどに雨が髪や服を濡らし、跳ねた泥が靴を汚す。
――その天候のおかげか、深馬の動きは鈍かった。麻酔もいくらか効いているのかもしれない。ヤツは不自然な位置で折れ曲がった腕をブラブラさせて、千鳥足で穴のふちを歩いていた。
とある場所を、目指して。
とある、場所、を――。
悪条件の視界の中、ぼんやりと見えた光景に、僕は愕然とした。
「……なん……で」
距離にしては、三十メートルあるか無いか。
深馬の行く先にいたのは、ミートイーターに侵食された藤田さんである。
藤田さんは、穴から数メートル離れた場所で座り込み、口を開けて虚空を仰いでいた。阿蘇さんが後ろから抱きしめている所を見るに、穴に向かうのを引き止められているのだろう。
だが、阿蘇さんの右手に握られているものに気付いた瞬間、僕は立っていられないほどのショックに打ちのめされてしまった。
――彼は、もう二度と笑わないだろう。
彼は、もう二度とあの形の良い目を細めることはできないだろう。
藤田さんの周りに飛び散った血が。
耳から、鼻から、口から垂れる血が。
――阿蘇さんが握る、藤田さんの眼球を貫いた真っ赤な植物が。
それら全てが、僕の知る藤田さんが決定的に変わってしまったことを、告げていたのである。
――それしか、方法は無いのだ。
阿蘇忠助は、雨の中ずっと自分の前を歩いていた藤田直和が、膝をついて穴を覗き込むのを見ていた。
――自分にしか、できないのだ。
息を潜めて、藤田に忍び寄る。数日前の教授の姿と、重ね合わせる。
――ならば、迷う理由など無い。
藤田を羽交い締めにし、暴れられる前に力尽くで穴から遠ざける。そして後ろから抱え直すと、彼の左目に中指と人差し指を突っ込んだ。
藤田の濡れた体が、ビクンと跳ねる。
「ア、ァ、ッギャァァァァァァア!!」
心臓が抉られるような絶叫を、阿蘇は耳の真横で聞いていた。
だが、無視する。爪で眼球を潰し、中を探って見つけた目当てのものを、二本の指で挟み込む。
滑りそうになるのを堪えて、ズル、ズル、とゆっくり引き抜いていく。
その間、夜通し叩き込んでいた、藤田の脳に巣食うミートイーターのレントゲン写真を頭に蘇らせた。
ぴったりと藤田の頭に耳をつけ、悲鳴に混ざる微かな音を聞こうとする。
――今だ。
阿蘇は、“治癒の呪文”を唱え始めた。
患部は、ミートイーターが今まさに引きちぎろうとしている藤田の脳組織。
阿蘇の思惑通り、絶叫は途切れないまま、ズル、と僅かに蔓が抜けていく。
――とんでもないやり方だった。ミートイーターが花開き身体から分離しようとするその瞬間を狙い、絶え間なく脳を、神経を、血管を、組織を治癒することで、藤田の命を維持したまま除去しようというのである。
少しでも、力加減を間違えれば終わりだ。
少しでも、呪文のタイミングがズレれば終わりだ。
少しでも、自分が狂気に陥れば終わりだ。
そうやってギリギリまで力を尽くし、完璧にやり遂げたとしても、藤田の命が助かる保証は無い。
しかし、いかに絶望に似た手段だろうと、他に手立てが無ければこれに賭けるより他無かったのだ。
慎重に。
慎重に。
決して、焦らないように。
決して、壊さないように。
もう片方の目にも指を突っ込む。
藤田の体がまた大きく痙攣する。
強く体を押さえ込む。
呪文を唱え続ける。
猛烈な吐き気を飲み込む。
襲い来る狂気をねじ伏せる。
耐えろ。耐えろ。耐えろ。耐えろ。
耐えてくれ。耐えてくれ。耐えてくれ。耐えてくれ。
どうか、
――どうか、お前を、ここに繋がせてくれ。
阿蘇は、知らず知らずの内に藤田の左腕を掴んでいた。
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