第29話 挑む前に
藤田は、埃っぽい床に伏していた。
――頭の奥で、何かが掻き回っている。
苦痛とも快楽ともつかない、奇妙な感覚。脳の神経に沿って虫が這っているかのようなその違和感に、いっそ頭蓋骨ごと潰してくれと叫びたかった。
「――まだ、俺の言葉は分かるか?」
阿蘇の声がする。オレは僅かな理性をもって、なんとか右手を挙げて返してやった。
あれからオレ達は、某所の空き家に転がり込んだ。しかしやっと落ち着くかと思ったのも束の間、ほどなくして急激にミートイーターの浸食が始まったのである。
激しい吐き気と、まばたきするたびに網膜に現れるおぞましい姿。何度も意識を手放しそうになるオレに、阿蘇はずっと呼びかけ続けてくれていた。
『藤田、大丈夫か』
『う、うう……!』
『しっかりしろよ。まだ、耐えろ』
『……あ、あそ』
『なんだ』
『……オレが、助かっ、たら……どう、か……』
『あ?』
『何か……す、すんごい、ご褒美、を……!』
『嘘だろ、この状況で。なんてメンタルしてんだ』
『……たの、む』
『……ああ、分かった!』
服を握りしめて息も絶え絶えのオレを見て、阿蘇は力強く頷いた。
『――無事にお前が助かったら、先日景清君が女装した時の写真を見せてやる!』
『え、何それオレ初耳なんですけどオレの知らない間にそんなレア展開あったの嘘だろちょっと今すぐ見せてくれほんと後生だから』
『いきなり流暢に喋り出しやがった。景清君ごめん』
……まだ、あの時は色々と余裕があったのだ。なんだかんだで食事もとれてたし、阿蘇とも話せていた。
だが、今はもう駄目だ。
体がどこかへ行きたがっている。呼ばれている。そこに行けば、自分はこの苦しみから逃れられるという確信がある。
それに抵抗しようとすればするほど、頭の中の虫は気味悪く這いずり回っていた。
「ぐっ……う」
「藤田」
頭を抱えて悶えるオレに、阿蘇はまた言葉をくれる。
「もう少しだけ頑張れ。あと少しで、夜明けがくる」
「……ッ……!」
「分かってる。でも耐えろ。そうでなきゃ、お前が……!」
ブツリ、と何かが千切れる音がした。
途端に辺りが真っ暗になり、静寂が訪れる。
――遠くの方で、ほのかな光が瞬いていた。
ああ、そこに行かねば。そこに行けば、目の奥の植物を落としてしまえる。オレは解放される。
救われるのだ。
すんなりと立ち上がる。途中自分の腕に絡みついてきた何かを力任せに引き剥がし、オレは唯一の救いに向けて歩き出したのだった。
カーテンの隙間から差し込む薄暗い光で、僕は夜明けを知った。
空はどんよりと曇っていて、今にも泣き出しそうな気配である。普通だったら折り畳み傘でも持って行こうかなぁなんて思うような、そんな他の人にとってはなんでもない朝。
そんな今日という日に、曽根崎さんは死ぬ。
とはいえ現在の彼はまだバリバリ生きており、何なら茶碗を箸で叩いて朝飯の催促をしていた。とても三十路とは思えない行儀の悪さである。
よって僕は、ヤツの冷蔵庫から引っ張り出した具材で味噌汁などを作り、曽根崎さんと食べることにした。
「……味噌汁にご飯に卵焼き。昨日の朝食と同じだ」
「アンタんち食材無いんだから仕方ないでしょ。事務所に行けば買い置きもありますが」
「わざわざ行って食べるのもナンセンスなんだよな。変わり映えしないメニューだとしても、ここで食べてしまう方がいい」
「一言多い。没収」
「すいません」
ワイシャツ姿の曽根崎さんは米をかきこみ、味噌汁を一気飲みした。大雑把な食べ方である。ちゃんと噛め。
それも概ね終わった後、心なしか満ち足りたような顔をする曽根崎さんに温かいお茶を入れて差し出した。
「ああ、ありがとう」
「いえ……」
しかし受け取ろうと伸ばされた彼の手を見て、僕は思い直す。湯呑みをテーブルに置き、代わりに違うものを乗せた。
「……なんだこれ」
「見りゃ分かるでしょ」
手にしたグレーの布を、曽根崎さんはしげしげと見つめる。……いや、そんな大それたもんでもないよ。
気恥ずかしくなりながらも、まだ分かっていない彼に解説してやった。
「アンタ、いつぞや僕にアンクレットくれたじゃないですか」
「あげたなぁ」
「それのお返しですよ。だいぶ遅くなりましたけど」
「へー……え!?」
いつもは鋭い曽根崎さんの目が、驚きでまんまるになった。
「これが!? このネクタイが!?」
「なんです、気に入りませんか」
「君が!? 自腹切って!? 私に!? プレゼントを!?」
「しっつれいなオッサンだな! いらねぇなら返せ!」
「いるいるいるいるいりますいります。えー……守銭奴中の守銭奴の君がどうしたんだ。なんだ今日という日は。私死ぬのか。あ、死ぬわ」
「冗談になってねぇぞ」
いちいち煩わしかったので、曽根崎さんの手からネクタイを奪い無理矢理首に巻いてやる。が、自分のネクタイを結ぶのと他人のを結ぶのではまた勝手が違うようだ。数秒フリーズし、ダメ元でやってみたり曽根崎さんの後ろに回ったりした結果、一度自分の首で結んでから彼の首にかけるやり方に落ち着いた。
曽根崎さんの首に巻かれたグレーのネクタイに、僕はフッフーンとしたり顔で胸をそらす。
「どうですか」
「どうって……ネクタイだな」
「そりゃそうですよ。大根あげたんじゃないんですから」
「あと……グレーだ」
「見たまんまですね。もっとこう、嬉しいとか何とか無いんですか」
――嬉しい、か。
曽根崎さんの口が、音を発さずに動きだけでその一言をなぞった。
「……嬉しいのか、そうか」
「いや僕じゃなくて」
「分かってる。今嬉しいのは私だと思うよ。うん、嬉しい。へぇー、私嬉しがってるのかコレ。へぇー」
「なんだそれ。どういう反応ですか」
曽根崎さんは自分の首に結ばれたネクタイを持ち上げ、へぇへぇと感心している。喜んでもらえたようで何よりだが、喜び方が気持ち悪い。自分の感情を分析すんな。
半ば呆れながらも、食器を重ねて僕は言った。
「……せっかくあげたんだから、汚さないでくださいよ」
「グレーってのも面白いな。普通青とかだろ。これを見るに、君は少し変わった色を贈ろうとしてくれたのかな。グレーは基本的に人に落ち着いた印象を与えるが……」
「聞け!」
話を聞かないオッサンを軽く蹴飛ばしたが、よくよく考えてみれば別にこんな願掛け的な思いを吐露する必要は無い。こっちを向いた曽根崎さんを無視し、僕はお皿を持ってキッチンに向かった。
「……汚したとしても、手放さないようにするさ」
だからそんな呟きも、聞こえないふりをしたのである。
「おはようさん」
事務所に着いた僕らを待ち構えていたのは、姿を消していた阿蘇さんだった。
ソファーにぐったりと沈んだ彼は、僕らを見て疲れたような笑みを浮かべた。
その両腕には、血の滲んだ包帯が巻かれている。
「阿蘇さん、その怪我っ……!」
「大したことねぇよ。ちょっと転んだだけだ」
「び、病院に……!」
「いい。……それより兄さん」
「ああ」
阿蘇さんの呼びかけに、曽根崎さんは首を縦に振る。
「とうとう藤田君を抑えられなくなったか」
――なんだって?
愕然とする僕に、阿蘇さんは平坦に答える。
「夜明け直前に出てったよ。発信機をつけてるから、今どこにいるのかは把握してる。このペースだと、あと三十分ほどで穴に到着するかな」
「留意点は?」
「放置していればただまっすぐ穴を目指すだけだが、邪魔しようもんならすげぇ暴力振るわれるってことぐらい」
「分かった。すぐに準備する」
……もしかして、その腕の怪我も藤田さんを止めようとして受けた傷なのだろうか。だとしたら、今の藤田さんは本当に正気から遠く離れた状態に違いない。
――もう、二度とあの藤田さんと会話することはできないだろうか。
ヘラヘラしてて、下ネタばっか口走って、それなのに心根はどうしようもなく優しいあの人に。
そんな予感に、僕は怖くてたまらなくなった。しかし、今はその感情を固く目をつぶって噛み殺す。
落ち着いて事に挑もうとする二人に水を差し、迷惑をかけることなんてできなかったからだ。
唾と共に、恐れを飲み込む。そして何でもないことを装うべく、まだ阿蘇さんが知らないだろう情報について話すことにした。
「……阿蘇さん。その、ミートイーターの除去方法は……」
「知ってる。無いんだろ?」
おっかなびっくり切り出した僕に、阿蘇さんは涼しい顔で返した。あれ、誰から聞いたのだろう。
彼は僕の目を見上げて、目を細める。
「……そんな気がしてただけだよ。大丈夫、アイツは俺が何とかする」
「……」
僕の胸中を読み取ったかのような阿蘇さんは、包帯の巻かれた左手で僕の頭を撫でた。それから事務所の奥に行ってしまった曽根崎さんを確認したかと思うと、グイッと僕の頭を引き寄せる。
慌てる僕を押さえつけ、阿蘇さんは囁いた。
「……景清君、俺は君に一つ伝えておかないといけないことがある」
「え、な、なん」
「静かに。――これは、兄さんの死に関する話だ」
「……!」
信じられない言葉に、僕は驚いて阿蘇さんを見た。
阿蘇さんの真剣な目には、戸惑う僕の顔が映っている。
「もしかしたら俺は今日、駄目になるかもしれない。だから、今の内に言っておく必要がある」
「だ、駄目になるって……?」
「……」
阿蘇さんは答えなかった。説明する時間を惜しんだのかもしれない。
「……いいか、よく聞け。もし、兄さんが穴に落ちることになってしまったとしても――」
僕を掴む腕に、力がこもった。
「――君は絶対に、その死体を見てはいけない」
「……は?」
意味の分からない言葉に、背筋がぞくりとした。
「兄さんの死体だよ。葬儀が行われるかもしれない。誰かが君に兄さんの死体を見せに来ようとするかもしれない。それでも君だけは、決して兄さんの死体を視認するな」
「……そ、それ、どういう……」
「言葉通りに受け取れ。謎謎を出してるつもりはねぇ。もし、これができなかったら……」
「忠助」
突然割って入った曽根崎さんの声に、僕ら二人は跳び退いた。
そんな僕らに、曽根崎さんはジトッとした目になる。
「なんだ。いかがわしい会話でもしてたか」
「べべべべべ別に」
「まぁいい。ほら、弟。君の所望するモンだよ」
曽根崎さんが阿蘇さんに投げで寄越したのは、小さい機械だった。阿蘇さんはそれを片手でキャッチし、頭を下げる。
「ありがとう、兄さん」
「むしろこれぐらいしかできなくてすまない。他に手立てを見つけられていれば……」
「十分だ。それじゃ、俺が失敗した時は頼むよ」
そう言うと、阿蘇さんはその機械を首の後ろにつけた。恐ろしい行為のような気がするのに、彼は何一つ躊躇わない。
「……そんじゃ、穴に行くとするか」
ピクニックにでも行くように、気軽に曽根崎さんは言う。だが、つり上がった口角がどうしようもないほど彼の本音を表していた。
「……さっきのこと、よろしく頼むぜ」
そして曽根崎さんに知られぬよう、阿蘇さんはまた僕にこっそりと囁く。
その顔には、何故か申し訳なさそうな笑みが広がっていたのだった。
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