第27話 過呼吸

 結論から言うと、この日僕らにできることは何も無かった。


 財団の特殊部隊は誰一人として深馬の姿を見ていなかったし、曽根崎さんが奴に取り付けていた発信器は講義室内に落とされてしまっていた。

 深馬は、完全に行方をくらませてしまったのである。


 夕焼けに染まる事務所で、僕はキッチンに立っていた。胸には焦燥がぐずぐずと燻り、僕の口を重くさせている。


 影響力を増しただろう穴。

 除去方法が存在しないミートイーターを植えられた藤田さん。

 ――そして、明日死体になる運命の曽根崎さん。


 犯人を突き止めた所で、これら諸問題は何一つ解決していなかったのである。


『明日を待つほかないよ』


 埃っぽくなったスーツをはたいて、曽根崎さんはそう言っていた。


『明日になれば、きっと奴は穴に現れる』

『どうしてそんなことが分かるんですか』

『そりゃあ、穴の影響力を強化する必要があるからな』


 ん? それをヤツは講義室でやったのではなかったのか?

 そう尋ねると、曽根崎さんは、自分の口元を人差し指で叩いた。


『呪文というものは、基本的にかけられる対象が近くにあればあるほど効力を発揮できる。特殊な音の組み合わせを響かせて作用するものだからな』

『そうなんですか』

『ああ。よって、穴から離れた神菅大学の講義室で唱えた所で、それほどの効果は得られなかったのではないかと私は踏んでいる。無論ゼロではないだろうが』

『なるほど……。だから深馬さんは、藤田さんが現れなければ明日穴の近くで呪文を唱えるだろうと』

『ザッツライツ』

『うぜぇ。……でも、どうして明日なんです? 僕だったら、二、三時間経っても藤田さんが来なかったら穴行って呪文唱えますよ』

『そこだ』


 曽根崎さんは僕を指差し、断言に近い声色で言った。


『奴はしばらく動くことができないと思う』

『何故?』

『あれだけの規模の呪文だ。あくまで私の所感だが、唱えれば反動でまともでいられるはずがない。ましてや誰のサポートも無いんだ。正気を取り戻すまで半日はかかるだろうよ』

『それ余計危なくないですか』

『危なけりゃ危ないほどいいよ。何せ目立ってくれればすぐ捕まえられる』

『そ、そんなことして民間に被害が出たら……!』

『だから財団の特殊部隊に街を張らせているんだ。君は彼らより動けるか? 動けないだろ? なら任せてしまう方がいい』


 淀みない反論にグッと黙った。悔しいが、正論ではある。

 しかし、僕にはまだ一つ懸念事項があった。


『……藤田さんはどうなんです?』

『うん?』

『藤田さんですよ。ミートイーターに浸食されてから、もうかなり時間が経っています。曽根崎さんの言う通りなら、呪文を唱えてる時点で多少の効果は出るんですよね? 少しでも穴の影響が大きくなったんだとしたら、藤田さんが耐えられず穴におびき寄せられてしまうかもしれません』

『……大丈夫だよ。少なくとも、今日はな』

『今日は?』


 そう言い切れる根拠があるらしい。曽根崎さんは、ボサボサの髪をかいて上の方を見た。


『彼には私の弟がついている。……忠助はこの私よりも執念深いからなぁ。今回ばかりは尚のこと、何があろうと絶対に藤田君を離さんだろうよ』

『……え? 阿蘇さんって曽根崎さんより執念深いんですか?』

『ああ、私はそう思……ちょっと待て、君すごい顔してるな。なんだよ。何か文句あるのか。言ってみろコラ』


 ――ジュウウという音にハッと現実に引き戻される。

 見ると、味噌汁を作る為に火にかけておいた鍋が吹きこぼれてしまっていた。


 ……二人分しか作る予定なんてないのに、なんでこんな量の水を入れちゃってるかなぁ。


 ため息をついて火を消し、半分ほど水を捨てた。


「全然いい匂いがしてこない」

「すいませんね」


 そして、夕食を待ち兼ねた雇用主が、恨めしげな顔で影からこちらを見つめていた。

 ……そもそもなんでこの人、キッチン付きの事務所なんて選んだんだろう。一人では絶対使わないのに。


 僕は何の具も浮かんでいない鍋を見て、提案する。


「……曽根崎さん、今日外食にしません?」

「断る。金なら払うから飯を作ってくれ」

「高圧的なのか低姿勢なのかわっかんない言葉だなぁ……」

「私は君の作るものが食べたいんだよ」

「それ、最後の思い出に、とかじゃありませんよね」


 口に出してしまってから、「マズい」と後悔した。


 ――“冗談”にできない。“軽口”にできない。

 今の僕の精神状態に、そんな余裕はひとつも無かった。


 心臓の動悸が少しずつ激しくなる。じわじわと指の先が冷たくなる。

 

 もし、ここで曽根崎さんが一言でも否定してくれたなら、まだ僕は彼の顔を見ることができただろう。

 だけど、彼は何も言わない。

 だから駄目だった。これで表情を見てしまえば、喋らない彼の答えを悟ってしまうかもしれなかったからだ。


 手が震える。ごまかすためにお玉を持とうとして、取り落とす。足元で聞こえたガシャンという金属音が、耳の奥で反響した。


 ――本当は。

 ――本当は、ずっと予感があったのである。


 時折、存在感が揺らぐ後ろ姿。

 悪欲の怪物に向かって言った、「私では長く楽しめない」という一言。


 極めつけに、“玩具の試練”について話してくれた時の横顔も。


「――曽根崎さん」


 ダメだ。聞いてはいけない。気づいてはならない。


 僕の脆弱な精神はガンガンと警鐘を鳴らしていたが、それでもどうしても僕はこの人に確かめずにはいられなかった。


「一つ、聞いても構いませんか」

「……どうぞ」

「もう、あの男との契約は更新しないんですよね」

「ああ、そのつもりだ」


 やっぱりそうだ。そこは僕も知っていた。以前、ホテルで話をした時に聞いた内容だ。

 だけど、ここから先は知らない。

 僕は、恐怖に震える喉から無理矢理に声を絞り出す。


「――もしも、もしもですよ」

「うん」

「もしも、“玩具”の契約更新をしない場合……一体、アンタはどうなるんです」

「……」


 僕の問いに、曽根崎さんは答えてくれなかった。


 ああ、嫌な感じだ。僕の呼吸が、緊張と恐怖で少しずつ荒くなっていく。


「なんで、答えないんです」

「……」

「それは、アンタが、死ぬから、ですか」


 ダメだ。ダメだ。それ以上踏み込むな。

 頭では分かっているのに、僕の衝動は止まらない。


「そ、そうなん、でしょう。あ、あの男が、アイツが、無傷で貴方を、返して、くれ、るはずが、ない」

「……」

「今まで、だって、そう、だった。でも、でも、それだ、と……!」


 息ができない。呼吸の仕方が思い出せない。頭の中にある感情が膨れ上がり、今にも破裂しそうになる。

 ダメだ、怖い、無理だ、できない。

 嫌だ。だって、明日貴方は穴に落ちて死んでしまう。

 それだけでも、未だどう防げばいいか見えてないのに。その上もし、男との契約の更新をしないことまで死に繋がってしまうのだとしたら。


 ――僕の目の前にいる曽根崎慎司は、どうあっても死んでしまうのだ。



 ――そんなバカな話があるかよ。



「景清君!」


 膝から崩れ落ちた僕を骨張った手が支える。だけど、今の僕ではあまり感覚が分からなかった。

 ――この人は、いつもこんな世界に生きているのだろうか。

 怖いのかな。怖いのだろうな。触れても、触れられても、よく分からない世界で生きていくことは。


 どんどん息が浅くなる。痛む胸を両手で鷲掴みにしようとしたが、痺れた両手ではそれすらうまくできない。


「まずは楽な姿勢になれ。大丈夫だ。ゆっくりでいい」


 曽根崎さんのはっきりとした声に、床に座り込む。彼は僕の肩に手をあてたまま、声をかけ続けてくれた。


「息を吐け。うまくできなくていいから。吐いて、吐いて、苦しくなったら息を吸えばいい。私が見ていてやる。心配するな」

「……ッ。ハ……ァ……ッ」


 苦しい。苦しさの余り、涙が滲んだ。息を吐いている内に、胃の中身まで全部出してしまいそうになる。

 吐く。吐く。吐く。そして、吸う。

 それを、長い時間繰り返した気がする。


 やがて、僕は顔を上げた。すぐそこにある曽根崎さんの不審者面が、なんだかぼやけていた。


「……景清君」


 安堵したような声に、ますます曽根崎さんの姿が見えなくなる。僕は、まだ痺れの残る手で目を擦った。


「……なんですか」

「気分はどうだ」

「大丈夫……です」

「嘘をつけ。大丈夫な人間の顔色じゃないぞ」


 ……そりゃそうだよな。こんな姿を見れば誰だってそう思うだろう。

 だけど、ここまで踏み込んでしまったなら、もう無かったことになんてできない。引き返せない。

 僕は、仕事をしない肺を強引に働かせて深呼吸をした。


「……本当に大丈夫です。だから、本当のことを教えてください」

「うーん」


 それでもまだ渋る曽根崎さんに腹が立ち、その頬を叱咤するように叩いた。……つもりだったが、力が抜けた手では優しく撫でるだけになってしまった。

 ムッとしたような顔になる。多分、驚いたのだろう。


 沈黙が落ちる。その間彼は思考を吟味した後、静かに口を開いた。


「……更新をしなければ、黒い男に呪文を回収されるという話はしたかな」

「初耳、だと、思います」

「そうか。実はあれはそういうシステムなんだが、一つ重大な事項が前提にある」

「重大な事項?」

「ああ」


 不穏な声色に、また僕の不安は募っていく。

 しかし、曽根崎さんは伝えきってしまおうと思ったのだろう。僕の目を見て、彼は残酷な言葉を紡いだ。


「――呪文を引き渡す代わりに、“呪文によって防がれていた厄難”を、全て我が身に引き受けなければならない」


 そうして、曽根崎さんは自虐的に笑った。


「――でないと私は自由になれないんだよ、景清君」


 彼の声は、聞き分けのない子供に言い聞かせるような、優しいものだった。

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