第26話 黒い霧
「はははは、はは、ああああははは!!」
黒い霧に包まれた男の笑い声に、僕らはなす術なく立ち尽くしていた。
どういうことだ。何が起こるんだ。僕らはどうなってしまうんだ。
何の予想もできなかった僕は、恐怖に口角を引き上げる怪異の掃除人に判断を問う。
「逃げますか、曽根崎さん!?」
「……君だけで逃げろ! 私はもう少し様子を見る!」
「……わかりました。よいしょー!」
「うわっ!?」
曽根崎さんの足の間に腕を突っ込み、戸惑う彼の体を自分の肩に担ぎ上げた。そのまま、講義室の出口を目指して一直線に突っ走る。
運ばれる曽根崎さんは、長い腕を回して僕の頭をがしりと掴んだ。
「下ろせ景清! 君っ、どこでこんな技を……!」
「うっさい! 僕に逃げろって言うことはそれなりに危ない状況なんだろ! 置いてけるか!」
「バカ! 今見とかないと肝心の事が何も分からないだろ!」
「いいから自分のスマホ見ろ! 中に置いてきた僕のスマホからアンタにテレビ電話かけてんだよ!」
「あ、ほんとだ」
分かってくれたようで何よりである。僕の機転に感謝したなら、後でスマートフォン代に色つけてよこしてほしい。
深馬の狂った高笑いは続く。どんどん酷くなる。それに伴って、黒い霧も濃くなっているようだった。
「……ぐ」
曽根崎さんのくぐもった声が聞こえる。横を見ると、彼は今にも吐きそうな顔で口を手で押さえていた。
――ひょっとして、この霧は精神にも影響を及ぼすのか?
ならば尚更、今動ける僕が何とかしなければならない。
僕は落ちそうになっていた彼のスマートフォンをひったくり、画面を見た。黒い霧に包まれた深馬は、笑いながら穴のある方角を見ている。
その笑い声に混じり、時折正気に戻ったような言葉を僕のスマートフォンが拾った。
『はははは……み、よ。神よ。ひひひひ……引き寄せ……ははははは……しに、死にたく……はは……な……い……ヒャハハハははは!!』
「……!」
まるで泣いているかのようである。途切れ途切れのその言葉に、僕は唇を噛んだ。
――元々人を殺そうとしたぐらいだ。酷い人間なのだろう。多分性格も悪いのだろう。
だが、黒い男に唆され力に溺れた彼の今の姿はどうだ。哀れ極まるその人間の悲鳴に、僕の心中はかき乱されていた。
――いや、自業自得である。後ろ髪を引かれる思いは、やっとたどり着いた講義室のドアを乱暴に開けることで打ち消した。
黒い霧から解き放たれ、明るい光が僕らを包み込む。
……ああ、ここの空気は清浄だ。
その日常の光景に、僅かに気が緩んだその次の瞬間。
僕らは、背後から放たれた衝撃に前へと吹っ飛ばされていた。
空中で咄嗟に曽根崎さんが僕の頭を抱きかかえる。守られたのだと気づく前に、僕は曽根崎さんごと壁に叩きつけられた。
「ぐぁっ……!」
「そ……曽根崎さん!」
「……っ! アッ……カ」
背中を強打したのだろう。うまく呼吸ができず、曽根崎さんは苦しそうに顔を歪めている。
「曽根崎さん! 大丈夫ですか!?」
「い、いい……な、中、を……ッ!」
曽根崎さんの手が、講義室を指す。僕は頷くと、深馬を確認する為ドアに駆け寄り中を覗き込んだ。
そして、息を飲む。
――なんということだ。
広がっていたのは、何も知らなければ小型爆弾が爆発したのかと思うほどの惨状だった。
綺麗に並んでいた机や椅子はバラバラに吹き飛び、窓ガラスは全て割れて飛び散ってしまっている。
その中央にいたはずの深馬の姿は、どこにも見当たらなかった。
「……クソッ!」
僕はボロボロの壁に拳を打ちつけた。
――逃げられた。逃げられてしまったのだ。
どうしよう。アイツは召喚呪文を重ねがけすると言っていた。きっとそれは穴の持つ効力を増大させ、藤田さんの脳に潜む植物をより活性化させるものなのだろう。
……このままでは、藤田さんの命が……!
深馬を追い詰めた時の情景が重なる。悔しさに、食いしばった歯の隙間から言葉が漏れた。
「僕が……! あの時、殺してでも……!」
殺してでも、アイツを止めていれば。
そうすれば、穴は強化されず、藤田さんの身が危険にさらされることもなかったのだろうか。
……ダメだ。そんなことを思ったところで、僕に人を殺す度胸は無い。俯き、握る拳に力を込める。
どうすべきだったのだろう。曽根崎さんの言う通り、一人で逃げるべきだったのかもしれない。だけど、どうしてもできなかった。明日死ぬかもしれないこの人を、ほんのひと時でも一人残しておくなんて、恐ろしくてできなかったのだ。
……動けない。中途半端で無力な自分が、みっともなくてたまらない。一思いに、この場所でグズグズに溶けて無くなってしまいたかった。
「――景清君」
だけど、そんな僕をそのままに許さないのが彼である。
「景清君」
いつもの淡々とした調子に、顔を上げて振り返る。呼吸困難から回復した曽根崎さんが、僕に向かって「来い来い」と手招きをしていた。
「すまんが、ちょっと背骨辺りを触ってみてくれないか。なんせ私の痛覚は鈍くてな、折れてても自分じゃ分からないんだよ」
……。
背骨?
「……いや、いくらアンタでも人間の柱たる骨が折れてたら分かるでしょうよ」
「いいからさすれ」
「横暴な介護老人かな」
よっこいしょと立ち上がり、転がったままの曽根崎さんのそばに寄る。言う通りに背中をさすってやったが、折れてるかどうかはさっぱり分からなかった。
「……よく分かりません」
「折れてるとしたら上の方な気がする」
「……分かりにくいんで、いっそ真後ろにパキッと折り畳んでみても構いませんか?」
「ああ、それはいい案だ。完全に可動域超えてるから折れてることだけは確実に……ってアホか」
「……」
「どうした」
なんだか、ふいに鼻の奥がツンとした。
多分、僕はこの人に何か言いたかったんだと思う。庇ってくれたことへの御礼のような、自分の無力への謝罪のような、あるいはただの懺悔のような言葉を。
だけど、飲み込むしかなかった。
慰めも、優しい言葉も、さっきからこの人が発しているふざけた言葉に全く敵わなかったからだ。
「……ぶぇう」
「え、何」
「なんでもないです」
出かけた涙を袖で拭う。
――そうだ、事件は終わっていないのだ。
まだ、僕たちは動くことができる。
「……曽根崎さん」
「なんだ」
「……僕にできることって、何がありますかね」
その言葉に、曽根崎さんは意図を図りかねるといった風に首を傾げて僕を見た。それから一拍置いて、「ああ」と手を打つ。
「じゃあ味噌汁が飲みたい」
「そういうことじゃねぇ」
いや、案外そういうことなのかな。
曽根崎さんの手を掴んで起こす。そうして、僕らは残された時間の使い方について話すことにしたのだった。
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