第15話 逃げる
「佳乃ーーーーーっ!!!!」
ドアを叩き壊す勢いで飛び込んできたハスキーボイスは、月上柊である。全速力で走ってきたであろう彼女は、いつもは乱れの一つも無い美しい黒髪を頬に張り付け、息を荒くしていた。
思いがけない乱入者に奈谷の手が止まる。
そして、光坂の目にも光が戻った。
「だあああいっ!!」
「キャッ」
掛け声で己を鼓舞し、奈谷の腹部に足を入れて蹴り飛ばす。自分の体から彼女が離れた所で起き上がり、光坂は柊を守るようにして立った。
「柊ちゃん、逃げて! この人武器持ってるわ!」
「え……!? じゃ、じゃあ尚更ボクが出るわよ! ちょっとぶっ飛ばすからアンタ下がってなさい!」
「ダメよ! 柊ちゃん、女の子でしょ!? 怪我でもしたらどうすんの!!」
奈谷から目を離さず言い切った光坂の言葉に、柊は目を丸くして彼女を見る。
一瞬考えて、柊は光坂の手を取り、走り出した。
「――女の子はアンタもでしょ! ボクと逃げるわよ!」
エレベーターを待つ時間も惜しく、二人は階段を選び駆け下りる。足がもつれそうになるが、そのたびに互いを支え体勢を立て直しながら一階を目指して走った。
懸命に足を動かす一方で、柊は背中に耳をすませる。
――追ってくる足音は聞こえない。あの蹴りで気絶したのだろうか? ……いや、もしもそうじゃなかったとしたら……。
「佳乃、こっち!」
三階までたどり着いた所で、光坂の腰に手を回し、方向転換させた。一階から誰かが階段を上がってくる音がしたが、その姿を確かめる余裕は無い。戸惑いつつも黙ってついてきてくれる光坂にホッとしつつ、柊はある窓へ向かった。
「いい? ここを伝って下に降りるわよ!」
開けた窓の真下にあったのは、雨樋である。塩化ビニール性の頼りない筒が、マンションの壁に沿って備え付けられていた。
柊は剥き出しの腕にハンカチを纏わせ、窓のへりに足をかける。
「ほら、ボクが先に降りるから、佳乃も後に続いて」
「柊ちゃん、ほ、本当に行くのね」
「……ああ、アンタ高いとこダメだったっけ。しょーがないわね、じゃあ他に何か方法を……」
「佳乃」
突然差し込まれたじっとりとした声に、柊と光坂はビクリと振り返る。
今しがた駆けてきた暗い廊下の向こうから、一つの影が徐々にこちらへ近づいてきていた。
「佳乃、佳乃、その人だあれ? 私の知らない人だわ。ねぇ、名前を教えてちょうだい。年齢を、住所を、家族の名前を、ねぇ」
歌うように言葉は紡がれ、その距離が詰まっていく。
奈谷の発する狂気に凍りついていた二人だったが、まず柊が正気に戻った。間髪入れず、柊は左腕で光坂の体をすくい上げる。
「柊ちゃん!?」
「佳乃、しばらく目をつぶってて!」
もう迷っている時間は無い。へりにかけていた足に力を込め、柊は光坂と外へ飛び出した。右腕を雨樋に沿わせ、その身を地に向かって落とす。
摩擦と金具で腕が痛い。だが構うものか。
しかし、あともう二メートルほどで地面に足がつくといった時に、それまで大人しくしていた光坂が急に動いた。彼女が壁に足を突っ張った弾みで柊の手は雨樋から離れ、体が宙に投げ出される。
落下する刹那、柊は柔らかな感触に抱き締められるのが分かった。
「キャアッ!」
「ぐっ!」
光坂を下敷きにする形で、二人は地面に倒れこんだ。慌てて起き上がろうとする柊だったが、ジュウと何かが溶ける音に気を取られる。
見ると、窓から頭を出した奈谷が、酸のような液体を雨樋めがけて垂らしていた。
嫌な臭いが辺りに立ち込める。光坂が助けてくれなかったら、今頃自分はあの酸に皮膚を溶かされていただろう。
――なんてヤツかしら。
「佳乃、立てる!? ゴメン、ボクが気づかなかったせいで……!」
「わ、私は大丈夫! 体に自前のクッションいっぱいあるから!」
「ちょっと面白いこと言ってんじゃないわよ! 早くここから離れなきゃ!」
「うん! ……あっ」
差し出された柊の手を握ろうとした光坂だったが、顔をしかめて腕を引っ込める。
彼女の右手首から先は、力無くプランと垂れてしまっていた。
それが意味する所を理解した柊の頬から、サッと血の気が引く。
「……アンタ、その手首……」
「走るには問題無いから平気よ! 早く逃げよう!」
光坂は気丈に立ち上がり、柊を急かす。それでも、柊の顔色は晴れなかった。
マンション前に彼女が止めていたのは、一台のバイクだったのである。
「……アンタ、その腕じゃボクに掴まれないわよね」
「……」
バイクを前に柊が言う。
光坂は、はっきりと頷いた。
「根性で掴まっておきたいけど、万が一が起きたら大変だからね。柊ちゃん、一人でコレ乗って逃げて。私は走って逃げるから」
「バカ言わないで」
柊は有無を言わさず光坂を抱え上げると、バイクに乗せた。慣れた手つきでヘルメットをかぶせ、自分もシートにまたがる。
そして一瞬目を閉じた後、首に巻いていたストールをほどくと、光坂と自分の体が密着するようぐるぐるに巻きつけた。
「柊ちゃん」
「お生憎様。ここに来た時点でね、もうボクがアンタから離れるって選択肢は無くなってるの」
マンションから出てきた誰かが、光坂の名を呼ぶ。
柊は無視し、エンジンをかけた。
「……ボク、佳乃に伝えたいことがある。ずっと怖くて、言えなかったこと」
「……」
「だけど、まずはあのヤバイのから逃げるわよ。痛いと思うけど、もう少しだけ我慢しててね!」
背中越しに、光坂が了承してくれる。そんな些細なことにすら勇気を貰えてしまう柊は、彼女の腕が自分の腰に回ったのを確認し、アクセルを回したのだった。
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