第14話 大嫌い
光坂佳乃は、自宅のマンションでフライパンを振るっていた。ケチャップで適当に作るナポリタンだが、これがなかなかどうして美味しいのである。
自分をここまで送り届けてくれた柊も夕食に誘ってはみたものの、こちらが恐縮するぐらいの勢いで断られてしまったことだけが残念であった。
――柊ちゃんは、相変わらず遠慮しいだなぁ。
見た目はどんなに綺麗になっていても、そういう所はちっとも変わらない。それが嬉しくて、光坂は一人笑みくずれていた。
別の鍋で茹でていたパスタが、ちょうどいい頃合いになった時である。
出し抜けに、玄関の呼び出し音が鳴った。
「はい」
返事をし、火を止めた。こんな時間に誰だろう。
ドアに備え付けられた覗き窓から外を見ると、髪の長い女性が俯きがちに立っていた。
見覚えのある顔に、光坂は急いで鍵を開けドアノブを回す。
「奈谷さん?」
そこにいたのは、占い館の同僚である奈谷だった。
彼女の顔を見つめ、とりあえず中に招き入れる。ミステリアスで美しい女は何も言わず、高いピンヒールを履いたまま部屋に上がりこんできた。
床にヒール型の跡がつく。普段温厚な光坂ではあるが、この非常識な行為にはさすがに眉を曇らせた。
「何するんですか。床が汚れますよ」
「あら佳乃、あなたが私のやる事に口を出すの?」
やっと口を開いた奈谷は、いつものように高圧的だった。
しかしそれに臆することなく、光坂は腰に手を当てて怒る。
「当然です。やられて迷惑なことは言いますよ、私」
「久しぶりに私が来てあげたのに、どうして怒るのかしら」
「訪問は嬉しいですが、靴を脱がずに部屋に上がられるのは嫌だと言ってるんです」
「醜いあなたの汚い部屋に、何故私が靴を脱いで入ってあげないといけないの。足が汚れてしまうでしょう?」
「掃除をしてるから土足を怒るんですよ! それでも脱がないっていうなら、もう帰ってください!」
話にならない。どこか虚ろな表情の奈谷に、光坂はため息をついた。
……この人はどうしてこうなってしまったのだろう。
ほんの一年前までは優しくて、一緒にいてとても楽しい人だったのに。
光坂は奈谷を家に上げたことを後悔しつつ、彼女の背中を押してドアへと向かわせようとした。
が、ふいにその手首を強く握られ、捻り上げられる。
「痛い痛い痛い!」
「ねぇ、佳乃。聞いてちょうだい」
奈谷の蠱惑的な顔が近づく。彼女の唇の両端は、先ほどまでとは打って変わって不気味に吊り上がっていた。
「――私は、あなたより美しいわ」
「痛い、離して!」
「私は、あなたより人気があるわ」
「離して、奈谷さん!」
「私は、あなたより愛されているわ。あなたより、背が高いわ。あなたより、スタイルがいいわ。あなたより、占いが上手いわ。あなたより、全てが優っているわ」
息がかかるほどの距離で、豹変した奈谷は光坂に優越の呪詛を吐いていく。その声は甘く、うつらうつらと酔っていた。
「……ああ佳乃、なのに、どうしてあなたは」
捻られていた手が離されたかと思うと、突き飛ばされる。床に転げた光坂が立ち上がる間も無く、奈谷はその体に馬乗りになった。
「――あなたは何故、まだ笑えるの?」
身動きが取れない光坂が見上げた奈谷の瞳には、強張った顔の自分がいる。
「ねぇ、他でも無いこの私があなたを傷つけているのに、どうして平気でいられるの? ……私には、理解できない。醜くて汚いあなたは、もっともっとこの世界全てのものから拒否されるべきだわ。客も、友人も、恋人も、働く場所も、家も、服もいらない。何もあなたに似合わない。ふさわしくない」
「……奈谷さん、何を言ってるの……?」
「あなたはこの世界の誰よりも醜い。私はそれを何度もあなたに叩きつけて、一人ぼっちにしてあげたかった。……それなのに、まだあなたは平気で笑ってる。ねぇ、たったそれだけのことに、どれだけ私が堪らない気持ちになったか、分かって?」
奈谷の左手が、そっと光坂の頬を撫でた。その言葉と乖離した聖母のような振る舞いに、かえって光坂はゾクリとする。
「あなたを、ずっと見ていたの」
花弁の唇からは、まだ呪詛が漏れる。
「お笑い番組が好きなのね。低俗だわ。歌うことも好きなのね。下手くそなのに。オカルト小説が好きなのね。本当に趣味が悪い。……二ヶ月間、あなたを見続けて、たくさんのことがよく分かった」
――視線の正体は、彼女だった。
その事実は確かに光坂を恐怖させるものだった。しかしそれよりも、我が身に差し迫る一つの脅威に、彼女の目は釘付けになる。
奈谷の右手には、重量感のあるアイスピックが握られていた。
「佳乃」
光坂の目先で、鋭利な先端が揺れる。
「あなたがこれ以上私の前を歩くのを、私から離れて生きていくのを、許すわけにはいかない。……ねぇ、そうでしょ?」
――分からない。彼女が何を言っているのか、何一つ分からない。
アイスピックの隣で、長いまつ毛の女性が笑っている。
「だから、全て、全て、全て、私が飲み込んであげるわ。眼球をくり抜いて、鼻から脳をすすって、血を舐めて、あなたという全てを私に収めるの。……一つになるのよ。ねぇ、喜んでよ、佳乃。もっと早くこうすればよかったって思うでしょ? 佳乃」
光坂は否定したかった。だが、今の奈谷を刺激すれば、間違いなく自分の両目は抉り取られてしまう。
彼女は、本気だ。
だけど、彼女の行動の理由が、どうしても光坂には分からなかった。
私が何をしたというのか。
どうしてここまで、彼女は追い詰められてしまっているのか。
――私が悪いというのなら、何故その罪の名を教えてもらえないのか。
恍惚とした表情の奈谷は、光坂の唇に触れるか否かまで顔を近づけた。
「佳乃」
恋人が愛を囁くように、柔らかな吐息が頬にかかる。
「……あなたのことが、大嫌いよ」
アイスピックが振り上げられる。その瞬間、光坂は目に映る全ての時間が止まったように感じた。
――どんな音も消えた世界で、玄関のドアの開く音を聞いた気がした。
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