第7話 資料館

「よし、この辺りまで来たらもういいかな」


 一つ角を曲がった所で、急に曽根崎さんはシャンとした。よれた浴衣を手で軽く整え、背筋を伸ばす。

 重荷から解き放たれ少しよろけた僕は、彼を恨めしげに見つめた。


「……演技でしたか」

「あれぐらいの量で私が酔うものか。さ、一旦部屋に戻って着替えたら資料館に行くぞ」

「せっかくお風呂入ったのになぁ」

「また入ればいいだろ。付き合ってやるよ」

「そういや藤田さんとお風呂行ってましたけど、大丈夫でした?」

「大丈夫なわけあるか。沈めて帰ってきたわ」


 何をされたか知らないが、大体想像がつく所が恐ろしい。曽根崎さんは一度トイレに寄ってから部屋に戻り、予備のスーツに着替えていた。聞けば、あらかた胃の中のものを吐いてきたという。


「一応な。酔っちゃいないが、これで多少酒臭いのも無くなるだろ」


 そういう事らしい。こうして僕らは、資料館に向けて出発したのである。










 資料館から少し離れた場所に車を止め、徒歩で昼間に目をつけていた窓の前まで行く。そこで曽根崎さんは窓枠を掴むと、ガタガタと揺らし始めた。


「このタイプの窓なら、これで外れる」


 半信半疑だったが、本当に鍵が開いたのでは何も言えない。細長い体を窮屈そうに持ち上げる曽根崎さんを押し込みながら、僕も後に続いた。


 資料館の中は、図書館独特の本の匂いで満たされていた。それほど広さの無い部屋に、所狭しと古臭い品々が置かれている。

 それらを懐中電灯で照らしながら、曽根崎さんは言った。


「資料館というだけあって、民具なども置かれているようだな。本は……あちらか」

「どういった本を探せばいいですか?」

「そうだなぁ。民話や村の歴史資料集があれば、ありがたいが」

「わかりました。それでは僕はこちらの棚を見てみます」

「うん、よろしく」


 二手に分かれて本棚を漁る。あまり掃除されていないのか、積もった埃に咳が出た。マスクを持ってくれば良かったと後悔しつつ、口元を袖で覆って懐中電灯で本の背表紙を読んでいく。

 五分ほど探していると、“ 多間村民話集 ” との表記がなされた一冊の本を見つけた。


「ありましたよ、曽根崎さん」

「何が?」

「民話集です」

「よくやった、そいつをよこせ。私が読んでいる間に、君は歴史資料集を見つけるんだ」

「もー、バイト使いが荒い」


 暗闇の中から伸びてきた手に、表紙がぼろぼろになった本を乗せる。表紙のカスが少し手についたのが煩わしく、ズボンにこすりつけた。


 ほぉ、へぇ、という耳障りなオッサンの相槌を聞きながら、引き続き資料を探す。

 その十五分後、僕は床に座り込む彼の目の前に、ドサリと三冊の冊子を重ねて置いた。


「上から、新聞の切り抜き、多間村の年表、多間村の歴史資料集です。どうぞお好きにご活用ください」

「景清君を雇って本当に良かった」

「どうも。では僕は、僕にも理解できそうな新聞の切り抜きをザッと読んでますんで、何かご用があればお声がけください」

「景清君を雇って本当に良かった」

「さっきも聞きましたよ、それ」


 現金な人である。まあ、褒められて悪い気はしないのだが。


 それからしばらくの間、無言で僕は資料に没頭していた。時折パラパラと紙をめくる音と、やはり聞こえてくる曽根崎さんの謎の相槌だけが実に鬱陶しい。

 が、そんな些細な迷惑すら吹き飛ぶような一つの記事に、僕はつい驚愕の声を上げてしまった。


「橋野さん!?」

「うわ、びっくりした。なんだいきなり」

「あ、えっと、すいません。新聞記事に僕の知り合いが載っていたので……」

「知り合い? さっきの橋野さんとやらか」

「はい」

「見せてみろ」


 腰を上げた曽根崎さんの体が、僕に寄る。開かれたページに貼られた記事に、もじゃもじゃ髪の下の真っ黒な目が怪訝そうに細められた。


「これは、儀式の写真か?」

「ええ。一年前のもののようですね」

「一年前に、その橋野さんはここに旅行に来て、君と同じくオカエリ様の花婿になったと」

「はい。記事の内容からして、間違いないと思います」

「都合のいい偶然があるものだな。景清君、明日の朝でいいから、その彼に連絡を取ってみてくれないか。ぜひどんな儀式をしたのか聞いてみたい。明日には見られるだろうが、別の体験談があるというのは……」

「……無理ですよ」


 ワクワクとした様子の曽根崎さんに、僕は冷たく言う。そんな声色にするつもりは無かったのだが、この事実が僕の中で癒えるにはまだ早すぎたのだ。

 振り返った彼に、僕は記事に目を落としたままで言う。


「……橋野さんに話を聞くことはできません。彼はもう、死んだ人です」

「死んだ人って……」

「先日のお葬式は、この人のものでした。……まさか、ここに来ていただなんて」

「……そうか」


 曽根崎さんが黙り込む。しかし、自身の無遠慮を後悔しているわけではない。その手は顎に当てられ、何かを考えているようだった。

 ほどなく、彼の口から唸るような言葉が漏れる。


「……景清君、その資料を全部こっちに貸してくれ。君は、儀式の記事を片っ端から探し出し、花婿の名前とその儀式が行われた日付をメモしてほしい」

「わかりました」


 曽根崎さんの行動の意図は分からない。だが、この人の引きつったような笑みは、何の理由も聞かずに僕を動かす十分な動機になった。

 僕が新聞記事を切り抜いた冊子を手に取り、その一枚目をめくろうとした時である。


 遠くで、ドアが開くような物音がした。


 僕と曽根崎さんは一瞬体を硬直させ、同時に音の方向を見る。かと思ったら、曽根崎さんに肩を掴まれグンと引き寄せられた。


「誰か来た」


 彼は緊迫した声で言うと、懐中電灯の明かりを消し、僕の肩を掴んだまま狭い本棚の裏に身をねじ込ませる。そしてスーツの上着を脱ぐと、僕の体を抱き寄せてしゃがみこんだ。どうやらそれで覆うことで、闇に溶けようという算段らしい。


 足音が近づいてくる。曽根崎さんのスーツが僕と彼を覆い切った所で、ドアが開いた。


「……誰もいないな」


 中年の男の声だ。それは、今日聞いた誰のものでも無かった。


「ですが、旅館にいなかったんです。もしかすると、ここに来ている可能性だってありますよ」


 こちらの声は知っている。昼間に公民館で会った那巻だ。なぜ、彼がここにいるのだろう。


 ――なぜ、旅館にいなかった僕らがここにいるかもしれないと判断したのだろう。


 曽根崎さんも同じ事を考えたのか、僕の肩に置く冷たい手に力を込めた。


 対する中年は、半ば呆れたような口調で言う。


「お前は慎重過ぎるんだよ。今まで何度となく行ってきた儀式だ。心配する必要なんてない」

「万に一つという事もあります。あのスーツの男なんて、見るからに凶悪そうな顔つきをしていました。もしかすると、儀式の秘密を暴こうとしているのかもしれない……!」

「そう熱くなるな。ほらご覧、誰もいないじゃないか。資料だっていつも通りだ」


 その言葉に、僕は緊張で早鐘のように鳴る心臓を握りつぶしたくなった。……開きっぱなしの本が、彼らの立つ場所から一つ本棚を挟んだ場所に置いたままなのである。それが見つかれば、誰かがここにいた事は明白だ。


 つまり、僕らが見つかる可能性も格段に上がってしまう。


 どうか、見つけないでくれ。諦めて、立ち去ってくれ。僕は、息を押し殺しながら目を固くつぶった。


 だが、現実は無情である。


「……少し、中を見て回ってきます」

「やれやれ、心配性だな。まあいい、好きに見なさい」


 那巻の足音が動き出す。覚悟を決めたのだろう曽根崎さんは、僕のすぐ隣で静かに深呼吸をした。恐らく、見つけられた瞬間に呪文を唱え、那巻の体の自由を奪うつもりなのだろう。しかし、その代償は決して小さいものではない。彼の体が震えているのは、見つかる恐怖よりも、訪れる己の狂気への恐怖が大きいのかもしれない。


 いよいよ那巻の姿が目に入る位置まで近づく。懐中電灯の明かりが、僕らの隠れ場所をよぎるように照らした。

 ――万事休すか。僕は、焼け石に水だと分かっていながら、曽根崎さんを抑えるよう彼の膝に手を置いた。


 ふいに、電話の鳴る音がする。


「はい、那巻です。……え? 旅館で、酔っ払いが暴れている? いや、自分が行かなくても……。いえ、はい、わかりました。すぐに戻ります」


 足音が遠ざかる。僕は、まだ状況が飲み込めないでいた。


「電話がありました。旅館で泥酔した男どもが暴れているようです」

「それは大変だ。早く戻ってやろう」

「はい」


 ドアの閉まる音がする。しかし、それでもなお僕と曽根崎さんは動けないままで、そこに座り込んでいた。――あれは罠で、数秒後にまたドアノブが回るかもしれない。そんな悪夢が、どうしても捨てきれなかったのだ。


「……いつまでこうしていても、仕方あるまい」


 僕の真横で曽根崎さんが言う。彼は立ち上がると、僕らを覆っていたスーツを手に取り、腕を通した。


「とはいえ、あまり時間も無いようだな。景清君、あと十分だけ時間をくれないか。最低限の情報だけ頭に叩き込む」


 言うや否や、曽根崎さんは資料の元に行き腰を下ろした。懐中電灯の明かりをつけ、凄まじい勢いで資料のページをめくっていく。

 置いてけぼりをくらった僕は、ようやく自分が間一髪助かった事に気づき、ため息をついた。


 ――儀式の秘密とは、何なのだろう。僕は、一体何に参加させられるのだろう。


 不穏な胸騒ぎに、僕は動くことすらできないでいた。

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