第11話 羽化する神
とりあえず景清の窮地は脱したようである。曽根崎は息をつき、壁にもたれた。
「……で、ここからどうすんだ」
阿蘇に尋ねられ、曽根崎はチラリとドアを見る。箕洲の部屋までドア一枚隔てただけの距離まで接近したものの、ここから先をしくじれば、またヤツは姿を消して景清ごと逃げてしまうだろう。
さて、どの手から打ったものか。
曽根崎が考え込んでいると、気の利く異母弟が足がかりになりそうな話題を振ってくれた。
「そういや兄さん、アイツのロッカーから本を見つけたっつってたな。あれは何だったんだ?」
「あれか。あれは、今回箕洲に取り憑いている怪異に関する本だったよ」
「俺も見ておいた方がいい?」
「やめとけ。悪意をそのまま文字にして並べたような、世にもおぞましい本だった」
「でも兄さんはそれを読んだんだろ。平気なのかよ」
「まだ大丈夫」
その時のことを思い出し口元を手で押さえる曽根崎の方を、阿蘇はあえて見ないでいるようだった。……口角が上がってしまっていることは、察しの良い彼にはバレているのだろう。
あまり時間もかけていられない。曽根崎は決断した。
「……よし、作戦を決めた」
「はいよ。何すりゃいい」
「まずはお前一人で乗り込め。できるだけかっこよく堂々とな。そして、警察が大量にここを取り囲み、連続殺人事件の犯人として顔写真も出回っていると伝えろ」
「わかった。兄さんは?」
「私は、あの男からバケモノを引き剥がす」
「そんなことできるのか」
「多分。本を読んだ限りだとなんとかできそうだ」
「そうか。じゃあそっちは任せるわ」
「しかし一抹の不安は残るねぇ。ヤツは姿を消すことができるんだろう?」
「そこは、逃げる直前にこの激臭つきの塗料をかぶせます。完全な対策ではありませんが、多少怯ませることぐらいはできるでしょう」
「なるほど、警察犬を持ち出したハッタリにも使えそうだね」
「……」
「……」
曽根崎と阿蘇は、いつの間にやらシレッと会話に加わっていた和装の男を、ゆっくりと振り返った。
「……田中さん、どうしてここに」
「警察が到着したよ。今スタジオ周りを囲んでる」
「ありがとうございます。いやそうじゃなくて」
「ガニメデ君が人質なんだろう?ならば、事情が分かる大人が一人でもいる方が救出にあたり心強いじゃないか。ほら、阿蘇君、銃」
「うわ、どうも。そんでガニメデって誰だ兄さん」
「景清君の名前すら覚えられない生理的劣化の進んだ男の戯言だ。無視していいぞ」
「相変わらず辛辣だねぇ。まあこんな状況なら無理もないか」
唇を歪めて笑い、田中は自分の銃を構える。……どうやら、阿蘇と共に乗り込む気満々のようだ。
「……田中さん、腰は?」
「コルセットを装着済みさ。暴れるよ僕は」
物騒な男を前に、曽根崎は早々に観念することにした。
「介護を頼む、忠助」
「断りてぇ」
「最悪事故を装って背中を狙え」
「分かった」
「言うねぇ君達。そういうとこ好きだけどさ」
言いながら、田中は懐から取り出した煙草を口に咥える。阿蘇が何か咎める前に、彼はさっさとオイルライターで火を付けた。
煙草の匂いが辺りに満ちる。田中は、心底楽しそうに口の端から煙と共に言葉を漏らした。
「――さあ、懺悔の時間をくれてやろうじゃないか」
言うなりドアを蹴破らんばかりの勢いで開け放った田中を、兄弟二人は止めることすら出来なかった。
「……煙草の匂い?」
僕の演技指導に近くまで来ていた箕洲が、急に体を強張らせて呟いた。しかし彼が何かしらの行動を取る前に、ずっと閉め切られていたドアが勢いよく開かれる。
そこに立っていたのは、拳銃を構え煙草を咥えた、和装のロマンスグレーであった。
「だ、誰だあなたは!」
人質である僕の腕を乱暴に掴み、箕洲は叫んだ。箕洲の体は白熱し、膨張を始める。熱さと痛みに、僕は思わず呻き声を上げた。
間髪入れず、銃声が鳴り響く。戸惑ったような箕洲の悲鳴と同時に、僕の体に自由が戻った。
「……僕が誰か、だって? こんな場所にこんな素敵な呉服屋さんが来ると思うかい?」
銃声の主は、煙草を口の端に追いやりながらバリトンボイスで減らず口を叩く。眼鏡の奥の涼しげな目が、弓の形に冷たく曲がっていた。
「僕は正義の味方さ。諦めるがいい、既に君の手配書は出回り、このスタジオは百の警官が囲んでいる」
「なんだって……!?」
「残念だったねぇ。そこの彼も、こちらに寄越してもらうよ」
差し出された田中さんの手を無視し、箕洲はグラグラとする頭を両手で押さえて、ブツブツと呟き出した。その隙に、僕はそろりと田中さんの方に這っていく。
しかし、箕洲の呟きの内容に、つと足を止めてしまった。
「……いえ、まだです。まだ自分はやれます、神よ。まだ自分には利用価値があります。だから、どうか、自分から出て行かないでください……!」
……神?
奇妙な単語に振り返ると、ギョロリとした箕洲の目と視線が合ってしまった。
まずい!
動転しながらも床を強く蹴ったが、ぶよぶよとした白い腕が僕の足を潰さんばかりの速度で伸びてくる。
「景清君!」
ぐん、と体が前方に引っ張られる。そのまま、阿蘇さんの体に重なるようにして倒れこんだ。
時同じくして、田中さんが再び発砲する。それは見事に箕洲を捉え、膨れ上がる巨体に一瞬の隙を作った。
「くらえクソ野郎!」
阿蘇さんは僕をその場にひっくり返して起き上がると、持っていた瓶の中身を箕洲にぶちまける。鼻が曲がりそうな強烈な異臭の中、箕洲の体は真っ青に染まった。
「どこまで魔法が使えるか知らねぇが、その匂いと塗料じゃ、どんなに姿を消そうと動きにくいんじゃねぇか!?」
田中さんの隣で銃を構え、阿蘇さんはニヤリと笑う。……さすがである。ものの数分で、彼らは状況を逆転させてしまった。
一方、今や殆ど原型をとどめていない箕洲は、体にめり込ませるほど頭を強く押さえつけ、うつむきながら叫んだ。
「神よ! 足を……足を撃たれました!これでは痛くてヤツらを握りつぶせません! どうか力を……! 自分の欲望は、まだ満たされてないんです! 彼を、彼を閉じ込めないことには……せめて!!」
――ヤツは何を言っているのだろう。圧倒的にこちらが有利だというのに、本能的な胸のざわつきに、僕は箕洲の動向から目を離すことができないでいた。
突然、ヤツはガバリと体を持ち上げる。その拍子に、取れかけていた首は後ろに落ちた。
「……ああ! まだその呪文がありましたね! 感謝いたします、神よ……!」
呪文だと?
僕は、拳銃を構える二人に向かって叫んだ。
「箕洲の口を撃って!」
しかし遅かった。唯一繋がった首の皮でぐるりと前に回ってきた箕洲の口から、呪文と共にドス黒い赤色の煙が吐き出される。それは床に落ちるや否や、カーペットを滑り田中さんと阿蘇さんの体に這い上がった。
「ッ……ぐっ……!?」
「しまった、また厄介なものを……!」
その質量を伴ったその赤い煙は一瞬で二人の体に巻きつくと、蛇のように締め上げたのだ。二丁の拳銃が床に落ちる音が、景清の耳にまで届く。
それを確認した箕洲は、膨れ上がった体をゆさりゆさりと揺らし、余裕の笑みを浮かべて僕の方に向いた。
咄嗟に拳銃の一つを取り、箕洲に突きつける。だが、ヤツの表情が変わることはない。
「……撃ったことなど無いんでしょう? それでもなお、抗おうとするとは」
「うるさい! ガチャガチャやったら撃てるかもしれないだろ!」
「景清君、銃は捨てて逃げなさい! それは素人が触っていいものじゃないんだ!」
田中さんの声が飛ぶ。しかし、逃げた所でコイツはすぐに追いつき、僕をさらっていってしまうだろう。加えて、赤い煙に捕らえられた二人のこともある。暴発覚悟で箕洲に立ち向かう方が、いくらか勝算がある気がした。
ぶら下がった箕洲の首が、宥めるように言う。
「無駄なことはやめませんか? あなたにはまだまだ収録が残っている」
「だけどそれが終われば、僕を殺すつもりだろ!」
「仕方ありません。声優はキャラクターに閉じ込められなければなりませんから」
「さっきからほんと何なんだよ、その理屈!」
結局、数時間ヤツと一緒にいても理解できる点は何一つ無かった。僕は暑さと激臭に吐きそうになりながら、枯れかけた喉で言い捨てる。
「……アンタなんざが、僕を好きにできると思うなよ!」
狙いを定める。仕組みなんて分からないままに、ドラマで見た通りに引き金に指を引っ掛ける。
――あと一つ呼吸をしたら、撃ってやる。僕は、人差し指に力を込めた。
しかし、その拳銃から銃弾が放たれることは、ついになかった。
『……よく持ちこたえてくれた、景清君。おかげで間に合ったよ』
またしても、インカムから曽根崎さんの声がしたのだ。まるで隣に立っているかのような感覚に、僕は思わず横を見る。
当然、そこには誰もいなかった。
だが、元の位置に顔を戻した時、箕洲の様子は大きく変わっていた。
「……あ……か、神? 神よ? 何故……」
箕洲の体が、ぶくぶくと泡立ち膨れていく。それをどこかで見ているのか、僕の耳元で、曽根崎さんが言った。
『そうだ、こちらに来い、異形の神よ。新しい餌はここにあるぞ』
……餌だと?
不穏な一言に、僕は姿の見えぬ彼に尋ねた。
「曽根崎さん、何をする気ですか」
その問いに、曽根崎さんは答えなかった。ただ聞こえなかっただけかもしれない。
目の前の連続殺人犯の内側の何かが膨張し、皮膚が古びた服のごとくメリメリと破られていく。
――そして、 “ 異形の神 ” は顕現した。
それは、肥満体の人の体に酷似していた。ただ、盛り上がった肩の中央に、本来ならあるべき首が無いことを除けば。
「……この本を読み解いた者の元に、その神は現れる」
声に振り返ると、何故か頭にタオルを巻いた曽根崎さんが、開けっ放しのドアに体を預けて立っていた。その顔は真っ青で、ゼェゼェと息を切らせている。
神をその身から羽化させ全身をズタズタに裂かれた箕洲は、瀕死だというのにそれでも驚愕を露わにした。
「馬鹿、な……。あれを読むのに、何ヶ月、かかったと……」
「まあ、能力の差というものだよ」
曽根崎さんは、神に見放された哀れな男に一瞥すらくれず、鼻で笑う。
「……さて、そこの男はもう使えないでしょう。彼はあなたの悪意に満ちた欲望を満たすには、あまりにも有名になり過ぎてしまった」
「か、神よ! そん、なこと、は……!」
「悪意の深淵に立ちたる神よ。次の依り代に相応しいのは、この私です」
誘うような曽根崎さんの手に、熱を発する白色の神は一歩一歩近寄っていく。
――止めなければ。そうでなければ、曽根崎さんが取り憑かれてしまう。
僕は無意識の内に動こうとしたが、その前に赤い煙から解放された阿蘇さんに引き止められた。
「……黙って見てろ。クソな兄だが、何の考えも無く動くヤツでもねぇ」
「……」
今にも飛び出しそうな衝動を抑えた彼の言葉に、僕は黙るしかなかった。僕の肩に置かれた手が、痛いほど食い込んでいる。
「……私であれば、より絶望に満ちた歓喜をあなたに捧げることができるでしょう。私の体は夜に紛れ、あなたの目にしか映らなくなる……。まさしく、あなただけの従順なる愛すべきしもべとなるのです」
恍惚とした言葉を、曽根崎さんは紡いでいく。それに引き寄せられ、真っ白な巨体は彼の前で立ち止まった。
そして神は、曽根崎さんを抱き締めんとばかりに腕を広げ始める。その手の平には、人間の口がついていた。
「……神よ、あなたに従属します」
目を見開き笑う曽根崎さんは、おぞましいその行為を受け入れようと、優雅な動きで頭を垂れた。
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