第10話 愛してる
「ここだ」
曽根崎と阿蘇は、ようやく目的地であるスタジオへと到着した。ビル群の中にあるとはいえ、妙に入り組んだ場所にあり、想定したよりかなり時間がかかってしまった。
見上げたスタジオは、閉鎖されて一年ほど経つとのことである。その割には、外観はまだ綺麗に保たれているように見えた。
やけに静かである。本当に、中で収録が行われているのだろうか。曽根崎は壁に頭を押し当てて耳をそばだててみたが、何の音も聞くことはできなかった。
舌打ちをし、ぼそりと呟く。
「……せめて、少しでも中の様子が分かればいいんだが」
「分かるかもしれねぇぜ」
「え?」
事も無げに言った阿蘇は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした兄にインカムを手渡す。それは、数時間前に曽根崎自身がつけていたものだった。
「何故これを」
「アイツの体に発信機をぶち込んだ時に、ついでに俺がつけてたマイクも引っ掛けてみた」
「……」
「まだくっついてるかは知らん。早く聞いてみろ」
「忠助」
「ンだよ」
「十秒ほど頭を撫でていいか」
「やめろ、何歳だと思ってんだ」
嫌がる阿蘇の頭を片手で撫で回しながら、曽根崎は器用にインカムを装着する。まだ電源は生きていたようで、微かに何らかの音を拾い始めた。
「……ナイスだ、忠助。上手くいくかもしれない」
しかし、どうにも音が遠い。恐らく、マイクと距離が離れすぎているためだろう。曽根崎は、耳に届く音を頼りに歩を進め始めた。
徐々に、はっきりと音が聞こえ出してくる。それは男の声で、誰かに何か怒鳴っているようだった。
……怒鳴っているということは、その対象となっているだろううちのアルバイトは、無事に生きている可能性が高い。自分の推測を疑っていたわけではないが、曽根崎はそれでも安堵せずにいられなかった。
だがホッとしたのも束の間。次の瞬間、そんな安堵を鼓膜ごと突き破らんばかりの絶叫が、曽根崎に襲いかかった。
『愛してるーーーー!!!!』
全く状況の読めない言葉を放った聞き慣れた声に、曽根崎は数秒フリーズした。
…………。
何事?
『ダメだ! 全然ダメだ!! 全く追いすがるような愛情がこもってない!! もう一度だ、もう一度、主人公の気持ちになりきってみろ!!』
『なってます! 精一杯なってます!』
『じゃあまだ足りてないんだ! この機会を逃せば、二度と彼女に会えないんだぞ! わかってんのか!』
『わかってますよ!! 文学部舐めんな作者の気持ちなんて百万回考えてきてんだよ!!』
『ならなんでできないんだ!! 逆によくそんな薄っぺらい愛の言葉を叫べるな!?』
『うううう薄っぺらくありませんよ!! 失礼な事言うな!!』
「……」
どうやらさらわれたお手伝いさんは、過酷なアフレコ現場を体験しているらしい。
完全に動きが止まっていた曽根崎を心配した阿蘇が、後ろから声をかけてきた。
「兄さん、どうしたんだ。何が聞こえた」
「……景清君に愛してるって言われた」
「は?」
「忠助も聞いてみろ。ちょっとこんな機会無いぞ」
「あぁ? ちょ、何を……!」
半ば強引にインカムをつけられ困惑していた阿蘇だったが、曽根崎と同じく一瞬キョトンとした後、じわじわと顔を歪ませていく。大方、似たような流れになっているのだろう。不謹慎だから笑ってはいけないと思っているようだが、頬が引きつってしまっている。
そして、ようやく阿蘇は感想を述べた。
「……景清君……めちゃくちゃ演技下手だな?」
そうなのである。
彼の全身全霊をかけた “ 愛してる ” は、棒読みであるくせに語尾は変に上がっており、聞くも無残な出来であった。
シリアスなシーンでこれが流れようものなら、まさに噴飯ものとなってしまうことは避けられないだろう。
――彼が大根役者であれば多少の時間が稼げるのではないかと思っていたが、ここまでは願ってないぞ、私は。
阿蘇はインカムを外しながら、どことなく遠い目をして言う。
「……早く助けなきゃな」
「私もそう思う。新手の地獄だぞ、これ」
「とりあえずコレ返すわ」
「ということは、景清君を助けるまで、私は定期的に彼の棒読みの愛を聞かせられるのか。辛い」
「シンプルに声がでかいんだよな」
「だから普通にびっくりする」
インカムの向こうから、また全力を尽くした愛の言葉が聞こえてくる。
まあ、これだけ熱心に収録してくれていれば、自分達が忍び込んでも、しばらく問題は無さそうであるが。
「景清君の喉が枯れる前に、とっとと救出するぞ」
「あいよ」
二人は適当な窓に目をつけると、侵入の準備を始めた。
「なんであなたは……なんであなたはこんなにも恵まれた声帯をしてるのに、演技がまるっきりダメなんですか!」
箕洲が、我を失ったように床を殴りながら嘆いている。そんな彼を、僕は途方に暮れながら眺めていた。
知らねぇよ。そして自分ではそんなに悪いとも思ってねぇよ。
「……やっぱり、声でお仕事してる人ってすごいんですよ。いかにもな才能だけじゃないんですって」
「あなたが相手だと、いくら時間があっても足りない! せっかく理想の声を見つけたと思ったのに…!」
熱烈な支持だが、そんなことを言われても無理なものは無理である。
ではもう一度やってみようかとペットボトルの水を口にした時、箕洲はふと顔を上げた。
「……あなた、愛する人はいないんですか」
「愛する人?」
「そうですよ! 胸を焦がす思いをしたり、我が身を呈してでも守りたい人! 次はその人の名を叫んでから、愛してると言ってみたらどうですか!?」
まさに最高の案だと言わんばかりの表情である。しかし対照的に、僕は焦り始めていた。
――いないよ、そんな人。
もっと言うと、まともな恋愛すらしたことが無いぞ、僕は。
「ほら、恥ずかしがらなくていいですから。単なる練習です。ではやってみましょう」
嬉々として準備を始める箕洲に、僕は何も言えなかった。――現段階で、ギリギリなのである。少しずつ膨れ上がる箕洲の体が、取れかけた首が、ヤツの苛立ちを如実に表していた。
ここで僕が同じ失敗をしようものなら、打つ手なしとして処理されてしまうかもしれない。そんな恐怖に、僕は心臓を鷲掴みにされていた。
「……愛する人ですか」
最後に付き合った子の顔ってどんなだったっけな。それすらうまく思い出せないような僕では、やはり愛を叫ぶ資格など無いのだと痛感させられる。
こんな事なら、どこかのオッサンが昔書いた恋愛に関する論文でも読ませてもらっときゃ良かったか。
いやダメだわ。あのオッサンそれ書いた上で、恋とか何一つ分からんなんてほざいてたわ。ホント三十路にもなってどうなってんだ、あの人。
とうとう、アニメーションが流れ始める。失敗と、その結果訪れるだろう未来を覚悟し、僕は震えを抑えるよう奥歯を噛み締めた。
何の音もしない五秒間。
僕の耳にだけ、届いた声があった。
『……演技をしようとするから変な力が入るんだ。気負わずに、ただ叫ぶだけ叫んでみろ』
突然、付けっ放しの補聴器型のインカムから例の三十路の声がした。驚きのあまり、僕はつい彼の名を呼ぶ。
「曽根崎さん!?」
その言葉に、箕洲の目が訝しげに細められる。それをごまかす為に、急いで僕は台本通りのセリフを叫んだ。
「あ、愛してる!!」
うわ、噛んだ。今までで一番悪いんじゃないか、これ。死ぬわ、死んだわ。最期の言葉が台本って僕の人生哀れすぎるだろ。いや曽根崎さんが悪いよ。なんであんなタイミングで声かけるんだ。空気読め。頭おかしいのか。
しかし絶望する僕の予想とは裏腹に、箕洲は初めて感心したように頷いた。
「……まだまだ合格点には遠いですが、良かったですよ」
「……は?」
「今までで一番自然でした。曽根崎というのはあなたの雇用主と聞きましたが、彼には妹さんでもいるのですか?」
「……」
……どうやら、特別な意識をせずセリフを言った事が功を奏し、それが図らずも僕の命を繋いだらしい。
『よしよし、よくできたな。その調子で場をしのいでくれ』
そして、インカムの向こうから曽根崎さんの声がする。
……え、こっち側の音も聞こえてんの?
いつから?
まるで僕の心の疑問を察したように、彼は答えてくれた。
『かれこれ十五分は君の大根演技を聞かせてもらったぞ。希望を言わせてもらえるなら、耳が辛いからもう少し音量を下げてくれるとありがたいんだが』
……。
僕は、怒りと耐え難い屈辱でその場に崩れ落ちた。
「ぶっ殺してやる!!!!」
「ど、どうしました!?」
「すいません、やっと褒められたのが嬉しくて、つい過激な言葉が口をついて出てしまいました」
「そ、そうですか……」
こんな状況じゃなけりゃ、今すぐにでもあのオッサンを探し出し殴りかかっている所である。聞こえてたんなら早く言え。いや言われた所で何も変わらないんだけど。
……無事にここから出られたら、真っ先にぶちのめしに行こう。
新しく芽生えた目標に、僕の中にあった恐怖心はいつのまにか殆ど消えてしまっていたのだった。
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