第12話 彼の演技

 しかし、その膨れた腕はピタリと空中で静止した。逡巡するかのごとく、白熱した巨体は身を震わせる。


「……どうなさいました、神よ」


 もじゃもじゃ頭を伏せた曽根崎さんは、嘲るように言った。


「あるいは、ようやく眼前に跪く男の価値を悟られましたか」


 ――いや、あれは、自嘲か?

 僕は、表情の見えない彼の言葉の真意を測ることができないでいた。


「あなたは、悪欲の権化たる神です。己を呼び出した人間の身に入り、その欲望の実現に手を貸し、加速させていく。そして人間の身が滅びるその時まで、渇いた獣のように罪を吸い上げ続けるのです。……なればこそ」


 言葉を区切る。ようやく頭を持ち上げた曽根崎さんは、凶相に引き攣るような笑みを浮かべていた。


「あなたはできるだけ長く一人の人間に入っていたいと思うはずだ。まともな人間が本を解読しようとすれば、そちらの男が言ったように数ヶ月要する事もある。その間、あなたは空腹だ。満たされないままに、無為な時間を送る事になる。……だから、迷っているのでしょう?」


 神は動かない。

 曽根崎さんは強烈な暑さに汗一つ流さず、淡々と理由を述べる。


「――私では、長く楽しめないと」


 ……それは、一体どういう意味なのだ。


 もはや神など、どうでも良かった。僕は今すぐこの男のネクタイを締め上げて、意味深な発言の意図を吐かせなければならなかった。

 だが、阿蘇さんの手がそれを許すはずがない。盗み見た彼の表情も、僕と同じく強張っていた。


「いずれにしても、ここであなたは終わりです」


 曽根崎さんの宣言に、にわかに神が苦しむように身をよじり始める。ハッとして辺りを見回すと、びしょ濡れの本にライターの火を近づけている田中さんが目に入った。


「あなたは私に取り憑けない。その上、自身を顕現させる本は今から灰となる。すると、あなたはどうなるんでしょうかね?」


 本に火が放たれる。たちまち不気味な緑色の炎で燃え上がる本の隣で、神も同じ色の火に包まれ蠢いていた。

 曽根崎さんにぶよぶよの腕が伸ばされる。だけどそれが彼に届く前に、呆気なく緑色の炎は神の身を焼いた。


「……非喫煙者の景清君に、喫煙者の何が最高か教えてあげようか?」


 声の方向に目をやる。

 田中さんの手には、空になったオイルライター。


「ご覧。常にこうやって、オイルと火打石を持ち歩いておけるんだ」


 吸い殻を燃える本に吐き捨て、田中さんは僕に向かって涼やかな目を細めた。


「案外重宝するよ?」


 ……まったくその通りだな!!


 危険すぎる財団理事長にドン引きする僕の前で、田中さんは携帯電話を取り出し、どこかに連絡をし始める。そうしている間にも本は燃え尽き、あれほど存在感のあった神は最後に一際大きい炎を上げて、消滅してしまった。


 床に転がるのは、全身おびただしい裂傷を負ったにも関わらず、なお死ぬことが許されない瀕死の男。箕洲は想像を絶するだろう痛みに、力無く呻いていた。


「……彼が真犯人に間違いは無いんだ。きっちり手筈を整えて、死んだ方がいくらかマシだと思えるほどには思い知らせてやるよ」


 箕洲を見下ろし、田中さんは冷たく言い放つ。僕はそれに、頷いて返した。


「兄さん」


 阿蘇さんが、曽根崎さんに呼びかける。曽根崎さんはドアにもたれたまま、ズルズルとその場に沈み込んでいた。


「曽根崎さん!」


 慌てて立ち上がり、彼の元へ行く。口元に手をあてて激しく咳き込む曽根崎さんは、それでも僕に向かって顔を上げた。


「……怪我は」

「ありません」

「そうか」

「……一体何をしたんですか」


 助けられたというのに、つい責めるような口調になってしまった。

 いや、反省は後でまとめてしよう。今は怒ろう。


 曽根崎さんは僕に体を支えられながら、首を横に振る。


「なんでもない。本を読み解いて、同調しただけだ」

「同調?」

「神の狂気に合わせると表現すればいいかな。まあ言うなれば、神を騙す演技をしたんだ」

「ああ、あのしもべ発言ですか」

「そうそう。君よりは上手くやれてたろ」

「うるせぇ。僕はあれです、時間稼ぎをしていただけですから。本気出せばもっとすごいですから」

「何にせよ、恋をした事が無くてよかったな」

「これ以上それを言うなら、もじゃ頭に火ィつけて置いて帰りますよ」


 この頭はよく燃えそうだ。タオルを巻いているのが気になったが、恐らくロッカールームでの怪我なのだろう。


 怪我はいずれ治る。だからこそ、今はそれよりも気になる事を尋ねることにした。


「……長く楽しめないって、どういうことですか」

「ん?」

「神に向かって言ってたでしょう。自分では長く楽しめないから、取り憑く意味がないって」

「……ああ、それは単に私が有名人で、目立つ風貌だからとそれだけの理屈だよ」


 嘘だ。

 瞳に影が落ちた曽根崎さんを見て、僕は更なる追及をしてやろうと息を吸い込んだ。


 が、外に待機していた警官がドヤドヤと駆け込んできて、それもうやむやになってしまった。


「田中さん! 無事ですか!」

「うわっ暑っ! 臭っ!」

「阿蘇さん、お疲れ様です!」

「阿蘇さんいるの!? おお阿蘇さん! また事件解決したんすか!」

「カッケェーっす!」

「流石っす! 阿蘇さん!」


 ……どうやら署内にも、阿蘇さんの舎弟は大勢いるようだ。偉い立場だろう田中さんそっちのけで阿蘇さんに群がろうとした警官達だったが、箕洲の姿を見てすぐ我に返ったように仕事にかかった。


 そんな彼らに、阿蘇さんは手を貸しながら声をかける。


「……救急車の手配もできていると聞いています。抵抗はしないでしょうが、細心の注意は払ってください」

「勿論です! 阿蘇さん!」

「阿蘇さん、今度ご飯行きましょうね!」

「うるせぇよ。今は仕事に集中しろ」

「はい!」


 怒られても嬉しそうである。阿蘇さんはため息をつくと、僕と目線を合わせる為にしゃがみ込み、言った。


「景清君、今回も怖い思いをさせてすまなかった。後で事情聴取をしねぇとだが、とりあえず今は兄さんを事務所に連れ帰ってくれないか」

「わかりました」

「うん。俺はあのジジイと箕洲に同行する。ザッとした説明はしておくから、君への負担は最小限で済むと思う」

「ありがとうございます」

「お礼を言うのはこちらだよ。……よく頑張ってくれたな」


 僕の頭を力強く撫で、阿蘇さんは優しく笑った。……カッケェ。これでは確かに舎弟が増えるはずだ。


「阿蘇さん! 俺も! 俺も頑張って待機してました!」

「自分も徹夜で箕洲を調べてました!」

「阿蘇さん! 阿蘇さん!」

「るっせぇな! 後で整理券配ってやるから黙ってろ!」


 警官達に怒鳴り散らしながら、阿蘇さんはズカズカ歩いて行った。その右手には、田中さんがぶら下がっている。


「景清君、それじゃあまた改めてお礼をさせてもらいに行くから」


 煙草を吸いながら、田中さんはにこやかに片手を振った。……あの人には、あんまり会いたくないなぁ。一応手を振りながら、僕はぼんやりと思った。


「……景清君」


 殆ど床と同化したような曽根崎さんから、名を呼ばれる。返事をして、彼の口元に耳を近づけた。


「なんですか」

「もう体に力が入らん。起こしてくれ」

「事務所に帰るぐらいの余力は残しておいてくださいよ……」

「基本片道分の燃料だけなんだよ、私は」

「どんだけ無鉄砲な生き方してるんです」

「君に言われたくない。大体あそこで君が声を出さなけりゃ……」

「声を出さなけりゃアンタが死んでたでしょ」

「助けてくれてありがとうございました」

「素直でよろしい」


 曽根崎さんの腕を自分の肩に回し、立ち上がる。……これも何度目になるか分からない。結構ボロボロになるんだよな、この人。


「……僕の方こそ、助けに来てくれてありがとうございました」


 小さな僕の声に、曽根崎さんは耳聡く反応した。口を開けて少し考え、また首を横に振る。


「……何度だって助けるが、二度とアフレコ現場にだけはさらわれないでくれよ」

「どうせ大根役者ですよ僕は」

「それだけじゃない」


 外に向けて足を運んでいく。曽根崎さんは疲れたように、僕の隣で言った。


「……君、声がでかいんだよ」


 勝手に聞いていたのはそっちだろうが。

 そう思ったが、僕は有能なお手伝いさんであるからして、雇用主の愚痴をハイハイと流しながら外へ続くドアを開けたのだった。

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