第7話 いた

 腰を抜かした受付のお姉さんに従業員専用ロッカーの場所を聞き、僕らは走った。

 走りながらも阿蘇さんは僕に目線を送り、決して声は出さないようにと人差し指を唇に当てる。心配し過ぎだとも思ったが、その気持ちを蔑ろにするつもりもなかったので、僕は頷いて返す。


「あの部屋だ」


 阿蘇さんが、一つのドアを睨みつけて言う。そのドアは、よほど大きな力でこじ開けられたのか、べこりとひしゃげてしまっていた。


 その時、ガシャン、と金属質な物に何かが叩きつけられる音が耳をつんざいた。同時に、男の呻く声も。


「兄さん!!」


 勢いよく飛び込んだ阿蘇さんに続いて、僕も部屋に駆け込む。


 しかしそこで見たものは、僕らの想像を遥かに超えた光景だった。


 まず感じたのは、熱気だった。むわりとした暑さに、息苦しさを覚えて後ずさる。その部屋の中央には、先ほど向かい合って話していた男が立っていた。


 本当にあれは、あの箕洲と同一人物なのだろうか。


 まくった袖から見える腕はぶよぶよとしており、まるで腐った水死体のようだ。その肩辺りは不自然に膨れ上がって、本来ならしっかり乗っかっているはずの頭は、何故かグラグラと覚束無げに揺れていた。


 ――いや、決定的な違和感は、そこじゃない。

 僕は、箕洲の全貌を見極める為にいつのまにか持ち上げていた首を、左右に振った。


 ヤツは、巨大になっていたのだ。せいぜい170センチほどであっただろう身長は、今やざっと二メートル以上にもなっている。

 ただ、その巨大化には拭いきれない不自然さがあった。

 例えば人間の皮膚の下に潜んでいた何かが、今にも箕洲という外皮をひき破って外に出てこようとしているような――。そんな不気味な不自然さである。


「なん……だ、アレは」


 僕を庇うように前に出ている阿蘇さんは、恐怖に顔を歪ませ呟いた。僕にはわからない。わかるわけがない。

 まだ、アレを人と呼べるのかどうかすら。


  ――そうだ、曽根崎さんはどこだ?


 目だけを動かして辺りを探した。その間にも、箕洲のぶよぶよとした腕はゆっくりと振り上げられていく。


 そのちょうど真下。


 紙細工のようにベコベコに凹んだ鈍色のロッカーに紛れるように、人の影が見えた。


 ――誰の影だ? 近くのロッカーに赤い塗料がこびりついている。あの赤い塗料の正体も、僕には判断することができない。


 痺れた脳が思考を止めようとする中、ロッカーの群れから、助けを求めるように長い腕が伸びた。その腕を指先から押し潰そうと、いかにも重量のありそうな醜い腕が振り下ろされる。


「曽根崎さん!!」


 堪らず、叫んでしまっていた。僕自身も、声を上げてから自分が叫んだことに気づいたのである。


 ピタリ、と箕洲の動きが止まった。その腕は、ギリギリの所で曽根崎さんを潰さずに済んでいた。


 ……僕の声に、箕洲が振り向いた。その首はとうとう転がり落ち、首の皮一枚で繋がれブラブラと逆さに揺れている。

 死んでいるなら、動くはずはないのだ。それなのに、箕洲の唇は、生きている人間のように滑らかな言葉を発した。


「いた」


 目にも留まらぬ速さだった。次の瞬間、腹部に鈍く強烈な一撃をくらった僕は、自分に何が起こったのかを把握する暇さえ与えられず、意識を手放した。









「景清君!」


 箕洲が驚くべきスピードで景清に迫り、その身を抱える刹那。阿蘇は、出来うる限りの反応で箕洲に殴りかかった。

 しかし拳はぶよぶよとした皮膚に埋まり、何の手応えも感じられない。

 ならばとその皮膚に爪を立てて引き千切ろうとしたが、阿蘇の指に体液が滲む前に、箕洲の足が鳩尾に飛んできた。


「っ……!」


 吹き飛んだ阿蘇はロッカーに背中をしたたかに打ち付け、吐き気と痛みで息ができなくなる。振動する視界の隅で、箕洲は気絶した景清ごとかき消えた。


 ……やはり、連れてくるべきではなかった。


 ロッカーを力任せに殴りながら、阿蘇は痛烈に後悔した。


「……すまん」


 そして更に神経を逆撫でするのは、隣に埋もれる兄の一言である。阿蘇は、行き場を失った怒りで彼の胸倉を掴み上げた。

 しかし、曽根崎は淡々としたものである。


「忠助、約束通り、発信機を取り付けてくれてありがとう」

「……!」


 そういう話だったのだ。万が一、三人の内の誰かが狙われるとあらば、阿蘇が箕洲に発信機を取り付けると。

 予防措置の筈だったが、生きてしまった。それすら、阿蘇には腹立たしかった。


 曽根崎は自分の胸倉を掴む阿蘇の手をそのままに、割れたメガネを打ち捨てスマートフォンを取り出す。


「見ろ。超高速で移動している」


 言われるがままに覗き込むと、発信機を取り付けられた箕洲を示す点が、凄まじい速度で地図上を動いていた。なるほど、これが距離と時間を使ったアリバイのカラクリなのだろう。


「敵は姿を消すこともできるようだな。厄介だが、まあ打つ手はいくらでもある」


 曽根崎は、額からダラダラと流れる血を袖で拭いながら言う。ここでようやく、阿蘇は兄の怪我に気がついた。


「兄さん、切ったのか?」

「傷は浅い。が、位置が位置なだけに血はたくさん出ているように見える」

「止血しないと」

「いい。どうせすぐ止まる。それより景清君だ」


 変形したロッカーから適当なタオルを引っ掴むと、曽根崎は何の躊躇いも無く頭に巻いた。


「すぐに車を出してくれ。できるだけ早く、ヤツの根城を突き止めなければならない」

「勿論。だけど、敵はあんな速度で動いてるんだぞ。間に合うのか」

「恐らく。むしろ、時間の余裕はかなりあると踏んでいる」


 曽根崎の一言に、阿蘇は焦燥で脂汗の浮かぶ顔を訝しげに歪める。兄はロッカーから長い自分の体を引き抜きながら、補足した。


「箕洲はアニメを作ろうとしてるんだろ?そこで、声優として景清君をさらった。ならば」


 曽根崎の右ふくらはぎから真っ赤な血が滴っている。どうやら、こちらにも大きな切り傷ができてしまったようだ。しかし、感覚の鈍い曽根崎は平気な顔で言葉を続ける。


「アニメに声をあてる作業 ――つまり、アフレコが行われる可能性が高い」

「アフレコ……」

「願わくば、景清君が大根役者でありますように、だ」


 また新しいタオルを拝借した彼は、荒い手つきでふくらはぎの傷を止血した。


「……彼をキャラクターに閉じ込めるだと? まったく、ふざけてやがる」


 感情をギリギリまで抑えた声が、阿蘇の耳に届く。いつもより整えられた髪の下で、感情表現の壊れた不審者面の笑顔が凄みを増していた。


「彼の自由を、あんな男に渡すものか」


 曽根崎の鋭すぎる目は、煮えたぎるような怒りを秘め、行く先をじっと見つめていた。

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